第5話 書斎の本棚にまさかの私の自費出版本まで揃っていた件
午前のお茶会が終わった頃。殿下が私の手を軽く取った。
「エリーゼ嬢、もう一つ君に見てもらいたいお部屋がある」
「はい」
また何か用意しているのね。覚悟しよう。私は深呼吸をひとつして、殿下の隣を歩き始めた。
◇◇◇
西棟のいちばん奥。殿下が樫の木の扉を開けた。
「ぼくの書斎」
私は扉の向こうに足を踏み入れて、息を呑んだ。
三方の壁、天井まで届く本棚。革表紙の専門書がぎっしり並んでいる。中央には大きな机。机の上には開きっぱなしの最新の論文。窓辺の小さなテーブルにティーセット。薔薇の鉢植えのほのかな香りが、室内に漂っていた。
貴族の書斎というより、もはや王国の薬草学博物館である。
「殿下、これ、ぜんぶ」
「うん、ぼくの蔵書」
「お読みになって?」
「もちろん」
殿下が本棚の前に歩いていって、長い指で革表紙の一冊を抜き出した。
「これは隣国のダルクラン薬草学院の最新研究」
え。ダルクラン薬草学院。世界中の薬草学者が憧れる、あの機関。
「これは北の山脈の修道院の秘伝の薬草レシピ」
修道院の秘伝レシピ。長年、外部には出回らないと噂の、あの。
殿下がもう一冊抜き出して、私の前に差し出した。
「これは、君が書いた自費出版本」
私の指先がぴくりと震えた。殿下の手の中に、見覚えのある薄いベージュの表紙。『田舎の薬草入門』。私の、紛れもない手書きの文字。
これ、二年前、店を開いた記念に五十部だけ刷った本。ノヴァク村のご近所さん、数人にしか配っていない本。それがなぜ、王族の書斎に。
「で、殿下、それ」
「うん、サラさんのすべての著作を、ぼくは揃えている」
「すべての著作?」
「他にも薬草園の季節便り、月報、年報、ぜんぶ棚にある」
殿下が本棚の隅を指さした。そこには私が店で配っていた、手作りの季節便りの束、月報の束、年報の束。革紐で丁寧にまとめられて並んでいる。
私の店の配り物が、ぜんぶ。……これはもう、ただの趣味じゃない。王族として王国の薬草学に興味があって、私の店の配り物まで読んでいる、ということ? いえ、ただの愛読者、では説明がつかない。何かが、おかしい。
私は書斎の絨毯の上で立ち尽くした。
「殿下、それは、それは、私、なんと申し上げてよいやら」
口から思わず本音がこぼれた。
殿下が口元を緩めた。
「うん、ぼくは君に夢中なんだ」
「夢中、って」
「ぼくは君のすべての著作を、肌身離さず何度も読み返している」
肌身離さず。それはそれは。
「君の薬草学への姿勢に、ぼくはずっと惹かれてきた」
心臓、もう限界。
◇◇◇
殿下が私を、窓辺の小さなテーブルにエスコートしてくれた。椅子におずおずと腰を下ろす。殿下がティーポットを優雅に傾けると、温かい香りが立ち上る。
「エリーゼ嬢、薬草の話を、もっと聞かせてくれないか」
「は、はい」
「特にエリクサーの調合の組み合わせ」
殿下、めちゃくちゃ専門的な質問。けれどこれは、私の得意分野だ。藤宮沙耶、二十八歳の社畜OL時代から、薬草の本だけが唯一の癒しだった。その上、エリーゼになってから十二年、ガリ勉。つい、つい口が開いてしまう。
「殿下、エリクサーの肝は、まずベースの選定で」
「うん」
「月光草は月の満ち欠けに合わせて選びます。新月の夜に収穫した月光草は、苦みが強くて上級向き。満月の夜の月光草は、甘みが増して初級向き」
「ふむ」
「次に補助の薬草。聖女の百合の花弁を五枚刻んで、ベースの煎じ液に加えると解毒効果が三倍に。けれど煎じる温度が八十度を超えると効能が半減してしまうので、要注意」
「なるほど」
「血止めには深紅の薬用薔薇の棘の付け根、ピンポイントで削ぎ取って乾燥させた粉末を一摘み。これが傷口に優しい上に、止血効果が最強」
「君の知識は本当に深いね」
「ありがとうございます。続けます。エルダーフラワーは薄翠の葉、薄黄の花、両方それぞれ別々の効能。葉は熱冷ましに、花は咳止めに。混ぜてはいけません。混ぜると効能が相殺されて、ただのお茶になります」
「王宮の宮廷魔術師でも、知らないかも」
「銀のミントは調合の仕上げに、ほんの一摘み。これがエリクサーの味を整えて、飲みやすさを最大化いたします」
「君は本当に薬草学の天才だ」
「いえ、けれどまだお話したいことがたくさんあるのです。例えば北の山あいの雪解け水で煮出すと、薬草の有効成分が五割増しで抽出されること。それから……」
殿下が目を細めて、私の話に頷いていた。時折、的確な質問を挟んでくる。
「ではなるほど、ベースに月光草を選ぶ理由は、満月か新月かで効能がまったく違うから」
「あ、はい、その通りです!」
「夜のエリクサーには新月の月光草が必須ですね」
「殿下、ご明察ですわ!」
私の頬が熱を帯びた。こんなに薬草学の話で盛り上がる人、初めて。しかも殿下、本当に私の話を理解している。楽しい。……楽しい、と思った瞬間に、もうダメだ。
◇◇◇
気づけば窓の外は、夕日が傾き始めていた。殿下が立ち上がって、私の隣に回り込む。距離がぐっと縮まった。殿下の長い指が、私の頬に軽く触れる。
「エリーゼ嬢」
「は、はい」
「ぼくがなぜ君の薬草の知識を、ずっと追いかけてきたかわかる?」
「それは王族として、王国の薬草学にご興味が」
「違う」
殿下の声が低く響いた。そして私の耳元に唇を寄せる。
「君が書いたものだから」
殿下の声が、耳の奥に染み込んだ。
──!
続けて殿下の唇が、私の耳たぶに軽く触れた。
──!!
背筋を、何かが駆け上がった。
「で、殿下、それは」
「君の書いた文字を読んでいると、君の考え方の癖が見えるんだ」
「君が何を大切にしているか。何を面白いと思っているか」
「君の頭の中の景色を想像しながら、ぼくは君の本を読み続けた」
心臓、もうもたない。これはもう、何と表現したらいいのかしら。慕う想いの域を、はるかに超えている。
殿下の唇がもう一度、私の耳たぶに触れた。
「君の頭の中を、ぼくは誰よりも知っている」
◇◇◇
窓の外、夕日が書斎の本棚を、淡い金色に染めていた。殿下がようやく、私の耳元から唇を離す。殿下の親指が、私の耳たぶの縁を軽くなぞった。身体の奥が、もう一度震えた。
夕日が窓辺のティーカップの、紅茶の表面に淡く揺れていた。
こうして私の離宮二日目は、薬草学のお話と耳元の囁きで、静かに暮れていった。
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