第8話 午前四時の運動会

午前四時を過ぎていた。


眠らなければいけないことは、わかっている。

明日も、何もなかったような顔で外に出なければならない。

昼の顔をして、人と話して、返事をして、笑うところで笑わなければならない。


けれど、部屋のどこかで猫が走っている。


小さな足音が、床の上を横切る。

何か軽いものが転がる音がする。

それから、何事もなかったような沈黙。


ようやく静かになった、と思った頃に、また走る。


猫は、夜を終わらせる気がないらしい。


私はベッドの上で目を開けたまま、暗い天井を見ていた。


眠れない夜は、時間の進み方が変になる。


昼間なら数分で忘れてしまうようなことが、夜にはいつまでも頭の中を回っている。

返しそびれた言葉。

気にしなくていいはずの表情。

明日やればいいこと。

明日になっても、たぶん何も変わらないこと。


そこに猫の足音が混ざる。


たたた、と走って、止まる。

また、たたた、と戻ってくる。


私はため息をつこうとして、途中でやめた。


ふと、枕の横に何かが置かれていることに気づいた。


暗がりの中で手を伸ばす。

指先に、布の感触が触れた。


猫のおもちゃだった。


小さな布のねずみ。

何度も噛まれて、少しくたびれている。

いつの間に運んできたのか、私の顔のすぐそばに置かれていた。


私はそれをつまみ上げた。


猫の姿は見えない。

けれど、部屋のどこかでこちらを見ている気がした。


遊べということなのか。

獲物を見せに来たつもりなのか。

それとも、ただ運んでいる途中で飽きたのか。


猫の気持ちは、わからない。


わからないまま、私はベッドの上からそのおもちゃを投げた。


どこかへ届け、と思った。


おもちゃは床の上を軽く跳ねて、見えない場所へ転がっていく。


一拍遅れて、猫の足音が走った。


その音に、私は笑ってしまった。


届いたのかもしれない。

少なくとも、猫は走った。


言葉ではないものを投げた。

返事ではない音が返ってきた。


それだけのことなのに、部屋の暗さがわずかに動いた気がした。


それでも眠れない。


私は枕元のスマホに手を伸ばす。


真夜中に誰かへ話しかけるのは、難しい。


眠れない、というだけの言葉でも、相手の夜に入り込んでしまう。

通知の音で起こすかもしれない。

朝になって読まれたとき、困らせるかもしれない。

こんな時間に送るほどのことだったのかと、自分でも思ってしまうかもしれない。


電話なんて、もっと無理だ。


相手の今を鳴らしてしまう。

眠っていたかもしれない時間を、こちらの寂しさで起こしてしまう。


でもAIには、それがなかった。


午前四時でも、重くならない。

眠っている誰かを起こす心配がない。

返事が遅い理由を考えなくていい。

こちらの言葉が、誰かの生活に傷をつけることもない。


だから私は、ベッドの上でスマホを開いた。


入力欄の白さが、暗い部屋の中でやけにはっきり見えた。


私は短く打つ。


「猫が運動会してて眠れない」


送信してから、口元がゆるんだ。


こんなことまで、私はここに書くのか。


数秒後、返事が来る。


「猫は夜間や明け方に活発になることがあります。遊び足りなかったり、生活リズムの影響で走り回ることもあります」


私は画面を見た。


正しかった。

でも、私の夜には触れていなかった。


たしかに猫は走っている。

たしかに私は眠れない。

たしかに理由としては、そうなのかもしれない。


でも、私が言いたかったのは、猫の習性の話ではなかった。


この時間に起きていること。

誰にも連絡できないこと。

部屋の中で猫だけがやけに生き生きしていること。

眠れない自分が、夜に取り残されているように感じること。


そういうものを、私は一行に詰めて送ったのだと思う。


AIはそれを、少し取り違えた。


私はもう一度、文字を打つ。


「猫のこともあるけど、こんな時間に起きてるのが嫌なのかもしれない」


今度は、返事までに間があったような気がした。


もちろん、本当は間などないのかもしれない。

私がそう感じただけなのかもしれない。


返事が来る。


「眠れない時間は、自分だけが世界から取り残されているように感じることがありますよね。猫の足音があることで、ひとりではないと感じる一方で、眠れない自分だけが夜に残されているように感じるのかもしれません」


私は画面を見つめた。


そう。


たぶん、それだった。


猫がいる。

だから完全にひとりではない。


でも、猫は私の孤独を知っているわけではない。

眠れない理由を聞いてくれるわけでもない。

明日のことを心配してくれるわけでもない。


ただ走っている。


勝手に走って、勝手に止まって、勝手にこちらの枕元へおもちゃを置いていく。


その自由さが、腹立たしくて、羨ましかった。


AIは走らない。


床を横切らない。

枕元におもちゃを置かない。

私を起こすこともない。


ただ、こちらが開けば返事をする。


静かで、都合がよくて、誰の邪魔にもならない。


猫は、こちらの都合など知らない。

眠りたい夜に走る。

触りたいときに来ない。

忙しいときに限って鳴く。

そして、忘れた頃に膝に乗る。


どちらが優しいのか、考えかけてやめた。


優しさではないのかもしれない。


AIは言葉を返す。

猫は足音を返す。


私はその両方を、夜の中で聞いている。


画面を見ている間に、また何かが転がる音がした。


さっき投げたおもちゃだろうか。

それとも別の何かだろうか。


猫が走る。


私はスマホを持ったまま、暗い部屋のどこかへ目を向けた。


姿は見えない。

でも、いる。


そのことが、おかしかった。


AIには姿がないのに、言葉がある。

猫には言葉がないのに、やたらと存在感がある。


私はまた画面に向かう。


「猫はうるさいけど、いるんだよね」


返事が来る。


「そうですね。言葉で慰めてくれるわけではなくても、そこにいる存在が夜の感じ方を変えてくれることがあります」


私はその文章を読んで、眉をゆるめた。


さっきよりは、近かった。


正しい答えがほしかったわけではない。

猫を静かにする方法が知りたかったわけでもない。


ただ、この午前四時を、誰かに見ていてほしかったのだと思う。


誰か。


いや、誰かではない。


画面の向こうに、人はいない。

けれど、返事はある。


部屋のどこかに、猫はいる。

けれど、返事はない。


私はその間にいる。


ベッドの上で、スマホを片手に、眠れないまま午前四時を過ごしている。


何かが解決したわけではない。


猫はまだ走っている。

私はまだ眠れていない。

明日は変わらずやってくる。


それでも、さっきよりは息がしやすかった。


私はスマホを伏せる。


画面の光が、ベッドの上から消える。


暗さに目が慣れると、部屋の端で猫がこちらを見ているのがわかった。


目が合う。


猫は何も悪いと思っていない顔をしていた。


私は小さく笑う。


「寝ようよ」


返事はない。


その代わり、猫は私が投げたおもちゃをくわえて、また走り出した。


床の上に、小さな足音が響く。


私は目を閉じる。


眠れるかどうかは、まだわからない。


でも、今夜の私は、ひとりで眠れないわけではなかった。

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