風船事件、学校にくる
第十六話 風船事件、学校に来る
木曜日。
ハヤトの嫌な予感は的中した。
教室ではすでに、風船事件のローカル記事が広がりきっていた。
狭い地域なので、ニュースの伝達速度が光Wi-Fiを超える。
「これ見た?」
教室の後ろで誰かが笑った。
「シバチーが風船に捕獲されてるやつ」
終わった。
ハヤトは教科書を開いた。
一文字も入ってこない。
「これ可愛くね?」
「可愛いけど情けない」
「風船に負けるって何?」
「しかも顔がずっと無」
ハヤトは教科書を閉じた。
開いていても意味がなかった。
ノブオが振り返る。
「風船は侮れん」
「え、ノブオ風船の何を知ってるん?」
「知らん!」
「知らんのかい」
ノブオは真顔だった。
「風船とは心だ」
「だからお前、風船の何を知ってんだよ」
ハヤトは机に額をつけたくなった。
レンがスマホを覗き込む。
「でも、このシバチー」
「ん?」
「最後まで風船、離してないと思う」
「そこ見る?」
「うん」
男子の一人が画面を拡大した。
「あ、ほんとだ」
「絡まってるけど持ってる」
「地味に根性ある」
「でも絡まってる」
「それはそう」
また笑いが起きた。
ハヤトは顔を上げなかった。
「高瀬」
急に名前を呼ばれた。
ハヤトは固まる。
「お前、こういうバイト向いてそうじゃね?」
「……なんで俺なんすか」
「なんか優しそうだし」
「着ぐるみ似合いそう」
「似合うって何すか」
「無言で手振ってそう」
レンが少し横を向いた。
笑いをこらえている。
「レン、笑ってるっすか?」
「笑ってないと思う」
「思うじゃなくて笑ってるっすよね」
「少し」
「正直」
ノブオが頷いた。
「ハヤトは似合う」
「ノブオまで」
「背中が優しい」
「着ぐるみ適性を背中で判断しないでほしいっす」
チャイムが鳴った。
話題はそこで切れた。
切れたはずだった。
休み時間になるたび、誰かがまた記事を開いた。
「これ何回見てもおもろい」
「赤い風船に負ける黒柴」
「ローカルニュース平和すぎるだろ」
「このシバチー、グッズ化しないかな」
ハヤトは水を飲んだ。
むせた。
昼休み。
ハヤトは屋上にいた。
ノブオとレンもいる。
ノブオは購買袋からパンを出した。
「食うか」
「なんすか」
「プロテイン塩メロンパン」
「情報量が多いっす」
「塩分と糖分とタンパク質を同時に摂れる」
「味覚を犠牲にしてるっすよ」
ノブオは一口食べた。
止まった。
「改良の余地がある」
「でしょうね」
レンは普通のパンを食べていた。
判断が早い。
「さっきの記事」
レンが言った。
「うっす」
「嫌だった?」
ハヤトはストローを噛んだ。
「……嫌っていうか」
「うん」
「変な感じっす」
「変な感じ」
「笑われるのは、まあ、いいっす。シバチーだし」
「うん」
「でも、あれ自分なんで」
ハヤトは周りを見た。
誰もいない。
ノブオは頷いた。
レンも驚かない。
「失敗が、知らないところで広がるの、きついっすね」
「うん」
「でも、レンが言ったやつ」
「風船?」
「うっす。離してないって」
レンは少し考えた。
「見えたから」
「普通、そこ見ないっすよ」
「そうかも」
「……ありがとう」
「うん」
ノブオがパンを差し出した。
「食え」
「なんで今」
「元気がない」
「それ食べたらもっとなくなるっす」
「確かに」
「認めた」
屋上の扉が開いた。
同じクラスの男子が顔を出す。
「高瀬、下で呼ばれてるぞ」
「誰にっすか」
「知らん。青い髪の子の友達っぽい人」
レンが顔を上げた。
「クロエちゃん?」
「名前は知らん。なんか目が怖かった」
「クロエちゃんだと思う」
ハヤトは立ち上がった。
「俺、何かしたっすか?」
「心当たりが多い顔をしている」
「ノブオ、それ今いらないっす」
階段の踊り場にクロエがいた。
腕を組んでいる。
目が怖い。
「あんた、高瀬?」
「はい」
「レンの友達?」
「はい」
「じゃあ、レンに言っといて。今日の練習、少し遅れるって」
「あ、はい」
クロエはそれだけ言って歩き出した。
ハヤトは慌てて声をかける。
「あの」
「何」
「柳生さんたち、今日もシャイニードリームランドっすか」
クロエの目が細くなった。
「なんで知ってんの」
「いや、年パス持ってたんで」
「……見てたの?」
「見えただけっす」
クロエは数秒黙った。
「アオイに変なことしたら、埋めるから」
「してないっす!」
「ならいい」
クロエは去った。
ハヤトは階段に残された。
怖かった。
普通に怖かった。
教室へ戻る途中、昇降口が見えた。
青い髪があった。
黒いヘッドホン。
白いパーカー。
柳生アオイ。
隣でレイカが何かを大げさに話している。
クロエが戻って、三人が校門へ向かう。
アオイの手には年パスがあった。
ハヤトは声をかけなかった。
かける理由がない。
かける勇気もない。
教室に戻ると、まだ誰かが記事を見ていた。
「このシバチー、ほんとにグッズ化してほしいわ」
ハヤトは席に座った。
机に突っ伏す。
ノブオが言う。
「売れるかもしれん」
「売れなくていいっす」
レンが小さく笑った。
「買う人、いると思う」
「誰が買うんすか」
レンは窓の外を見た。
「いると思う」
ハヤトも外を見た。
校門の向こうに、青い髪が小さく見えた。
もう追えない。
追うつもりもない。
ただ、次の土曜日のことを考えた。
風船には勝つ。
最低でも、それだけは決めた。
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