第7話 月送りの灯

 ガルム爺の願いは、たった一つだった。


 亡くなった妻の命日に、花を供えに行きたい。


 それだけだ。


 王都の聖灯局にいた頃なら、きっと誰も大きな案件とは見なさなかっただろう。


 大聖灯の出力調整。


 貴族街の結界灯。


 王宮前広場の式典用聖火。


 そういう派手で、金が動き、権威のある仕事ばかりが重要だとされていた。


 だが、今の俺には分かる。


 誰かが大切な人に会いに行く道を照らすことは、決して小さな仕事ではない。


 夜を怖がらずに歩ける。


 亡くした人を忘れずにいられる。


 そんな当たり前を取り戻すための灯りだ。


「よし。金具はこれでいける」


 月灯工房の作業台で、ミリアが額の汗を拭った。


 夜明け前から始めた作業は、昼を過ぎても続いていた。


 作業台の上には、ミリアの父が残した図面。


 その横に、半分ほど形になった小さな灯具。


 丸い硝子の傘。


 月の形に曲げた細い金具。


 透明な魔石。


 そして、箱に入っていた月灯狐の毛。


 それらを組み合わせて作るのが、月送りの灯だった。


「綺麗ですね」


 俺が言うと、ミリアは少し得意げに鼻を鳴らした。


「でしょ。父さんの図面だからね」


「でも、形にしているのはミリアです」


「……そういうことをさらっと言う」


 ミリアの耳がぴくりと揺れた。


 褒められ慣れていないのか、顔を作業台に向けたまま、尻尾だけが落ち着きなく動いている。


 セラは工房の入口で、村人たちから集めた報告を地図に書き込んでいた。


「墓地道の掃除は終わったわ。倒木もどけた。けれど、道の途中に夜霧が溜まりやすい場所が三か所ある」


「昔の送り灯の台座は?」


「二つ残っていた。三つ目は崩れているけれど、石材は近くにある。応急で組み直せそう」


「なら、灯具は三つ必要ですね」


「今日中に?」


 セラが不安そうに俺を見る。


 俺は作業台の上を見た。


 月送りの灯は、一つ作るだけでも時間がかかる。


 まして三つ。


 材料も限られている。


 ミリアは俺たちの会話を聞きながら、工具を置いた。


「三つ全部を完全な形で作るのは無理」


「やっぱり……」


「でも、完成品一つと、簡易灯二つならいける」


 ミリアは図面の端に素早く線を引いた。


「本命の月送りの灯を墓地の入口に置く。道中の二か所は簡易の導き灯。ルカの灯りでつなげば、道としては通せるはず」


「持続時間は?」


「一晩は厳しい。往復分なら」


「十分です」


 俺は頷いた。


 今夜、ガルム爺が墓まで行って帰ってこられればいい。


 その先は、また改良すればいい。


「ただ、問題がある」


 ミリアが透明な魔石をつまみ上げた。


「この魔石、すごく綺麗だけど小さい。強く光らせたら割れる。月灯狐の毛も少ない。ルカの灯りを入れる時、かなり細くしないとだめ」


「やってみます」


「簡単に言うね」


「簡単ではないです。でも、やるしかありませんから」


 ミリアは一瞬だけ俺を見て、それから小さく笑った。


「そういうところ、けっこう灯火師っぽい」


「灯火師ですから」


「うん。知ってる」


 俺たちは作業に戻った。


 ミリアが灯具を作る。


 俺が灯りの流れを見る。


 セラが道の安全を確認し、村人たちを動かす。


 ロッテさんは工房に温かいスープと焼いたパンを差し入れてくれた。


 ニナは手伝いたがったが、危ない作業が多かったため、布を畳む係に任命された。


「わたし、重要?」


「とても重要です」


 俺が真顔で答えると、ニナは胸を張った。


「じゃあ、きれいにたたむ!」


 その横で、ガルム爺が何度も工房の前を行ったり来たりしていた。


 中に入って邪魔をしてはいけないと思っているのだろう。


 けれど、気になって仕方ない。


 窓の外を通るたびに、帽子を握りしめた姿がちらりと見えた。


「ガルム爺、入ればいいのに」


 ミリアが苦笑する。


「邪魔になると思っているんでしょう」


 セラが言った。


「ずっと、そういう人よ。自分の願いを後回しにする」


「奥さんは?」


「明るい人だったわ。私が子どもの頃、よく焼き菓子をくれた。ガルム爺が無口な分、奥さんが二人分話していた」


「素敵な人だったんですね」


「ええ。爺は毎年、命日の夜に花を持って行っていたの。でも夜霧が濃くなってからは、夕方前に行くしかなくなった。命日の夜に行けないことを、ずっと悔やんでいたと思う」


 俺は作りかけの月送りの灯を見つめた。


 命日の夜に行く。


 他人から見れば、昼でも同じだと思うかもしれない。


 だが、同じではない。


 約束した時間。


 思い出の時間。


 大切な人と心の中で会う時間。


 それを守るための灯りなら、なおさら丁寧に作りたかった。


     ◇


 日が傾き始めた頃、月送りの灯は完成した。


 小さな吊り灯だった。


 手のひら二つ分ほどの大きさ。


 丸い硝子の内側に、月灯狐の白い毛が細く編み込まれている。


 中心には透明な魔石。


 外枠には、ミリアの父が好んで使っていたという月の模様。


 派手ではない。


 だが、静かに美しい灯具だった。


「火を入れるよ」


 ミリアが緊張した声で言った。


「お願いします」


 俺は月送りの灯の前に立った。


 指先に【小さな灯】をともす。


 いつものように、強く光らせるのではない。


 むしろ逆だ。


 細く、静かに、やわらかく。


 眠っている人を起こさないように。


 死者の眠りを乱さないように。


 でも、生きている人の足元だけは確かに照らすように。


 ガルム爺が墓地まで歩き、花を供え、また村へ帰ってくる。


 その道を思い描く。


「【小さな灯】」


 金色の光が、月送りの灯へ移った。


 一瞬、透明な魔石が震える。


 ミリアが息を止めた。


 光は強くならない。


 むしろ、少し青白さを帯びて、硝子の内側に広がった。


 月明かりのような灯り。


 冷たくはない。


 けれど、騒がしくもない。


 夜道の端にそっと置かれた、小さな祈りのような光だった。


「……点いた」


 ミリアの声が震えた。


「父さんの月送りの灯、点いた」


 セラが静かに頷く。


「綺麗ね」


 工房の外で待っていたガルム爺も、その灯りを見て言葉を失っていた。


 しわだらけの手が、帽子を握りしめたまま震えている。


「これが……墓地までの灯りか」


「はい」


 俺は月送りの灯を慎重に持ち上げた。


「まだ試作です。長い時間は持ちません。でも、今夜の往復なら守れるはずです」


「十分だ」


 ガルム爺は何度も頷いた。


「十分すぎる」


     ◇


 日が沈む前に、俺たちは墓地道へ向かった。


 広場から東へ伸びる細い道。


 普段は昼間でもあまり人が通らないのだろう。


 両脇には背の高い草が生え、ところどころに黒い夜霧の染みが残っている。


 村人たちが掃除してくれたおかげで、道は歩ける状態になっていた。


 道の途中には、古い石の台座が二つ。


 さらに墓地の入口に、大きめの台座が一つ。


 ミリアは簡易導き灯を二つ設置し、俺はそこに細い灯りを入れた。


 最後に、墓地入口の台座へ月送りの灯を吊るす。


 夜が近づいていた。


 黒森の方から冷たい風が吹く。


 草むらの影が濃くなる。


 村人たちは少し離れた場所から見守っていた。


 ニナも老婆に手を握られながら、じっとこちらを見ている。


「始めます」


 俺は墓地入口でランタンを掲げた。


 広場の灯り。


 道中の導き灯。


 墓地入口の月送りの灯。


 三つの灯りが、細い線でつながるように光った。


 すると、道の上に溜まっていた黒い霧が、すうっと左右へ退いた。


 完全に消えたわけではない。


 だが、道の真ん中だけが、月明かりに照らされたように浮かび上がった。


「……道が」


 セラが呟く。


「できたわ」


 ガルム爺は小さな花束を抱えていた。


 白と黄色の野花。


 たぶん、村の誰かが集めてくれたものだろう。


 老人は灯りの道を見つめ、しばらく動かなかった。


「ガルムさん」


 俺が声をかけると、彼はようやく頷いた。


「ああ」


「一緒に行きます」


「いや、わし一人で」


「まだ灯りが不安定です。俺が見ます」


 ガルム爺は申し訳なさそうにしたが、やがて頭を下げた。


「頼む」


 俺はランタンを持ち、ガルム爺の少し後ろを歩いた。


 セラも護衛としてついてくる。


 ミリアは入口の灯具を見守るため、台座のそばに残った。


 灯りの道を進む。


 夜霧は道の外で揺れている。


 時折、黒い指のように伸びてくるが、導き灯の光に触れると音もなくほどけた。


 ガルム爺は一歩一歩、噛みしめるように歩いていた。


「昔はな」


 不意に、彼が口を開いた。


「この道を、妻とよく歩いた」


「はい」


「あいつは夜の墓地を怖がらなかった。むしろ、静かで好きだと言っていた。昼間は皆が働いていて慌ただしい。でも夜なら、亡くなった人たちもゆっくり話を聞いてくれる気がするってな」


 ガルム爺は花束を見下ろした。


「変な女だった」


 その声は、少し笑っていた。


「でも、わしには過ぎた女だった」


 墓地に着いた。


 小さな墓石が並ぶ場所。


 夜霧のせいで荒れているかと思ったが、村人たちが昼のうちに掃除してくれたのだろう。


 道は整えられ、墓石の周りの草も刈られている。


 月送りの灯の光が、墓地全体を薄く照らした。


 不思議なことに、その灯りは墓石に強く当たらない。


 足元と、花を供える手元だけを優しく照らしている。


 ガルム爺は一つの墓の前で立ち止まった。


 古い墓石。


 そこには、丁寧に刻まれた名前があった。


 エマ。


 ガルム爺は膝をつき、花を供えた。


「遅くなったな、エマ」


 その声を聞いた瞬間、俺は目を伏せた。


 見てはいけないものを見ている気がした。


 けれど、離れることもできなかった。


 この灯りを守るのが、今の俺の仕事だから。


「今年は、夜に来られた」


 ガルム爺の肩が震える。


「ずっと、約束を破ってすまなかった」


 月送りの灯が、静かに揺れた。


 風は吹いていない。


 でも、その灯りはまるで頷くように、優しく瞬いた。


 セラが隣で息を呑む。


 墓石の周りに漂っていた黒い霧が、少しずつ薄れていく。


 ガルム爺は長い間、墓の前で話していた。


 村のこと。


 セラが立派になったこと。


 ニナが眠れたこと。


 ロッテの家に灯りが戻ったこと。


 そして、王都から追放された変な灯火師が来たこと。


「変な、は余計では」


 思わず小さく呟くと、セラが口元を押さえて笑った。


 ガルム爺にも聞こえていたらしく、彼は肩を揺らした。


「いや、変だろう。追放されたその日に、知らん村の井戸や墓地の心配をしとる」


「それは……」


「だが、ありがたい変わり者だ」


 ガルム爺は振り返り、俺に深く頭を下げた。


「ルカさん。ありがとう。妻に、今年はちゃんと会えた」


 俺は言葉に詰まった。


「俺だけではありません。ミリアが灯具を作って、セラさんが道を整えて、村の皆が掃除してくれました」


「ああ。分かっとる」


 ガルム爺は涙を拭いながら笑った。


「だから、皆に礼を言わんとな」


 その時だった。


 墓地の奥から、小さな鳴き声が聞こえた。


「……きゅ」


 俺たちは一斉に振り向いた。


 墓地のさらに奥。


 黒森へ続く茂みの近くで、白いものがうずくまっていた。


 最初は、月明かりかと思った。


 だが違う。


 小さな狐だった。


 真っ白な毛。


 丸い体。


 そして、尻尾の先が淡く光っている。


「月灯狐……?」


 セラが驚いた声を漏らす。


 その瞬間、狐の周囲に黒い蛾のようなものが群がった。


 黒蛾。


 夜霧を運ぶ小さな魔物だ。


 白い狐は弱っているのか、逃げることもできずに震えている。


「きゅう……」


 助けを求めるような鳴き声。


 俺は考えるより先に走り出していた。


「ルカ!」


 セラの声が背後から飛ぶ。


 墓地道の灯りの外へ出れば危険だ。


 分かっている。


 でも、あの狐の尻尾の光は、月送りの灯に使われた毛と同じ優しい光をしていた。


 放っておけなかった。


 俺はランタンを掲げる。


「【小さな灯】!」


 金色の光が黒蛾の群れを照らした。


 黒蛾たちは、じゅっと音を立てて散っていく。


 白い狐が顔を上げた。


 丸い金色の目が、俺を見る。


 次の瞬間。


 狐はよろよろと立ち上がり、俺の足元へ駆け寄ってきた。


 そして、力尽きたようにころんと転がる。


「……大丈夫か?」


 俺はそっと抱き上げた。


 驚くほど軽い。


 ふわふわで、温かい。


 尻尾の先が、ぽうっと淡く光った。


 その光に、月送りの灯が遠くで応えるように揺れる。


 セラが追いつき、狐を見て目を丸くした。


「本物の月灯狐……」


 ガルム爺も呆然としている。


「エマが好きだった昔話の狐じゃ……」


 白い狐は俺の腕の中で、弱々しく鳴いた。


「ぽう……」


 鳴き声なのか、光が漏れたのか分からない。


 ただ、その瞬間。


 墓地の奥にあった黒い霧が、わずかに退いた。


 俺のランタン。


 月送りの灯。


 そして、この小さな狐の尻尾。


 三つの灯りが、静かに共鳴している。


 どうやら今夜、俺たちは墓地までの道だけでなく。


 この村の灯りに深く関わる、小さなモフモフまで拾ってしまったらしい。

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