第6話 地下保管庫の古い灯
こつん。
工房の床下から、また音がした。
誰かがいる。
そう思ってしまうほど、はっきりとした音だった。
けれど、ミリアは青ざめた顔で首を振る。
「ありえない。地下保管庫は、父さんが死んでから一度も開けてない」
「鍵は?」
「ある。けど……」
ミリアは作業台の奥にある小箱へ視線を向けた。
その小箱には、油染みのついた布がかけられている。
普段から目に入らないようにしていたのだろう。
ミリアはしばらく動かなかった。
獣耳が、ぴんと張ったまま震えている。
セラが静かに声をかけた。
「ミリア。無理なら、今日はやめてもいい」
「……ううん」
ミリアは唇を噛み、首を横に振った。
「開ける。父さんが残したものなら、あたしが見ないと」
彼女は小箱を開けた。
中には、古びた鍵が一本入っていた。
真鍮製。
持ち手の部分に、小さな月と灯りの紋章が刻まれている。
ミリアはそれを握りしめ、工房の奥へ向かった。
作業棚をずらすと、床板の一部に金属の取っ手が隠れていた。
埃を払うと、そこにも薄い灯火紋が浮かんでいる。
俺のランタンが、静かに光を強めた。
「ルカの灯りに反応してる」
セラが呟く。
「この保管庫も、古い灯路につながっているのかもしれません」
「うちの工房が?」
ミリアが驚いたように俺を見る。
「たぶん。広場、井戸、北門、宿、畑。そこに灯路が残っているなら、灯具を作っていたこの工房にも何かあっておかしくありません」
「……父さん、知ってたのかな」
「分かりません。でも、何かを守っていた可能性はあります」
ミリアは鍵穴に鍵を差し込んだ。
回す。
ぎ、と乾いた音がした。
錆びついているのか、なかなか動かない。
俺とセラが手を貸そうとした瞬間、ミリアは小さく息を吸い、もう一度力を込めた。
「開いて」
かちり。
鍵が回った。
床板の下から、冷たい空気が漏れる。
夜霧の匂いではない。
古い金属と、乾いた木と、長い間閉ざされていた場所の匂いだった。
ミリアは取っ手を握り、床板を持ち上げる。
下には、狭い階段が続いていた。
真っ暗だ。
けれど俺のランタンを近づけると、階段の左右に刻まれた細い線が淡く光った。
「……階段まで灯路がある」
「気をつけて」
セラが短剣を抜く。
「魔物の気配は?」
「強い気配はありません。ただ、少しだけ夜霧が残っています」
「じゃあ、私が先に」
「だめ」
ミリアが言った。
セラが眉を上げる。
「ミリア?」
「ここは、うちの工房の下。あたしが先に行く」
「でも危険が」
「分かってる。でも、父さんが残した場所なら、あたしが最初に見たい」
その声は震えていた。
けれど、退く気はなさそうだった。
俺はランタンを差し出す。
「なら、一緒に行きましょう。俺が灯りを持ちます」
「……うん」
ミリアは小さく頷いた。
俺たちは階段を下りた。
先頭はミリア。
そのすぐ後ろに俺。
セラが最後尾で周囲を警戒する。
一段下りるたびに、足元の灯路が俺のランタンに反応して淡く光る。
まるで、眠っていた場所が少しずつ目を覚ましていくようだった。
階段の先には、小さな地下室があった。
広くはない。
けれど、壁一面に棚があり、古い灯具や部品、巻かれた図面、木箱が整然と置かれている。
不思議なことに、埃はほとんど積もっていなかった。
何年も閉ざされていたはずなのに、空気は澄んでいる。
部屋の中央には、布をかけられた作業台があった。
そして、その上に。
小さな灯りが一つ、消えかけたままともっていた。
「……え?」
ミリアの声がかすれる。
誰も触れていない。
油も足されていない。
魔石もほとんど砕けている。
それなのに、作業台の上の古いランプは、今にも消えそうな淡い光を抱いていた。
「父さんの灯り……?」
ミリアがふらりと近づく。
俺は反射的に手を伸ばしかけたが、止めた。
危険な気配はない。
むしろ、その灯りはミリアを待っていたように見えた。
作業台の上には、一冊の革表紙の手帳が置かれていた。
ミリアは震える手で、それを開く。
最初のページに、丁寧な文字があった。
『ミリアへ。
もしお前がこの保管庫を開けたなら、村の灯りを諦めなかったということだろう』
ミリアの息が止まった。
セラが静かに目を伏せる。
俺は黙って、ランタンを少し高く掲げた。
ミリアは続きを読んだ。
『ノクスヴェイルの灯りは、ただの灯具ではない。
古い時代、この村には黒森の夜霧を押し返す灯路が張り巡らされていた。
広場、井戸、北門、宿、畑、墓地、工房。
それぞれの灯りが役目を持ち、村全体を守っていた』
「墓地にも……」
セラが小さく呟いた。
俺は頭の中の地図に、新しい線を足す。
墓地。
まだ見ていない場所だ。
そこにも灯りがある。
ミリアは手帳をめくった。
『だが、灯路は一つずつ消えていった。
原因は、黒森から来る夜霧だけではない。
誰かが、村の外から灯りの流れを汚している。
私はそれを突き止めようとしたが、力が足りなかった』
ミリアの手が震えた。
「父さん……知ってたんだ」
ページの端に、黒い煤のような染みがあった。
それは夜霧の跡に似ている。
けれど、もっと人為的だった。
俺は顔を近づけ、染みを見た。
「これは……蝋の跡?」
「蝋?」
セラが聞き返す。
「黒い蝋です。灯具に使うものではありません。呪具に近い」
「呪具……」
ミリアがぎゅっと手帳を握る。
「父さんを殺したの、夜霧だけじゃないの?」
「断言はできません。ただ、誰かが関わっている可能性はあります」
俺は正直に言った。
ここで曖昧な希望を与えるべきではない。
でも、ミリアは泣かなかった。
琥珀色の目に涙を浮かべながらも、まっすぐ手帳を見ている。
彼女はさらにページをめくった。
そこには、村の灯路図が描かれていた。
セラが持っていた簡単な地図とは比べ物にならない。
広場の灯柱を中心に、北門、井戸、畑、宿、墓地、工房、南の旧街道、西の空き家群まで、細い線が網のように伸びている。
その中で、いくつかの灯りには印がついていた。
『優先復旧箇所』
そう書かれている。
一つ目、井戸灯。
二つ目、北門灯。
三つ目、宿の食堂灯。
四つ目、墓地道の送り灯。
五つ目、工房地下の芯灯。
「送り灯?」
俺が呟くと、ミリアが顔を上げた。
「墓地へ行く道の灯りだと思う。昔は、夜でも墓参りができたって聞いたことがある」
セラの表情が変わった。
「ガルム爺……」
「知っているんですか?」
「奥さんを亡くしてから、毎月同じ日に墓参りへ行っていたの。でも夜霧が濃くなってからは、夕方以降は墓地へ行けなくなった。命日が冬だから、日が沈むのが早くて……もう何年も、当日に花を供えられていないはず」
俺は手帳の地図を見つめた。
墓地道の送り灯。
死者のためだけではない。
残された人が、大切な人に会いに行くための灯り。
それも、この村に必要な灯りだ。
ミリアは手帳を閉じた。
「ルカ」
「はい」
「これ、全部直せる?」
問いかける声は震えていた。
期待と不安が混ざっている。
父親が諦めきれずに残した地図。
自分一人では動かせなかった工房。
壊れた村の灯り。
それら全部を前にして、ミリアは答えを求めていた。
俺は無責任に笑うことはできなかった。
だから、少し考えてから答えた。
「一人では無理です」
ミリアの耳が、しゅんと下がりかける。
でも俺は続けた。
「でも、ミリアが灯具を直してくれるなら。セラさんが村をまとめてくれるなら。ロッテさんが宿を開いてくれるなら。村の人たちが、自分の家の灯りを大切にしてくれるなら」
俺は手元のランタンを見た。
「一つずつ、戻せます」
ミリアの耳が、ゆっくり上がった。
「ほんと?」
「はい。小さな灯りを、一つずつ」
ミリアは手帳を胸に抱いた。
「……そっか」
その声は、泣きそうで、笑いそうだった。
「父さん。まだ終わってなかったんだ」
地下室の中央にあった消えかけのランプが、ふっと明るくなる。
まるで、その言葉を聞いて安心したように。
俺のランタンと、地下室の芯灯。
二つの灯りが、静かに響き合った。
その時、作業台の下から、小さな箱が現れた。
灯りに反応して、隠し金具が外れたらしい。
ミリアが箱を開ける。
中には、小さな白い毛束と、透明な魔石が三つ入っていた。
「これは……」
セラが覗き込む。
「月灯狐の毛?」
「月灯狐?」
俺が聞くと、ミリアが説明した。
「黒森にいるっていう、光る狐。月明かりを食べるモフモフ。父さんが一度だけ見たって言ってた。でも、伝説みたいなものだと思ってた」
箱の中の白い毛束は、淡く光っていた。
俺の【小さな灯】に、かすかに反応している。
これを使えば、普通の魔石よりずっと柔らかい灯りが作れるかもしれない。
特に、墓地道や子ども部屋の灯りに向いている。
「お父さんは、これを何に使うつもりだったんでしょう」
俺が呟くと、手帳の最後に挟まっていた紙が一枚落ちた。
ミリアが拾う。
そこには、丸い灯具の図面が描かれていた。
題名は。
『月送りの灯』
墓地道用の灯具だった。
夜霧を払い、死者の眠りを乱さず、生者の足元だけを照らす灯り。
なんて繊細な設計だろう。
俺は思わず息を呑んだ。
「すごい」
ミリアが俺を見る。
「分かる?」
「はい。これは、とても優しい灯りです」
「父さんらしい」
ミリアは少し笑った。
今度の笑顔は、ちゃんと笑顔だった。
◇
地下保管庫から戻ると、工房の空気が変わっていた。
ミリアは父親の手帳を作業台の中央に置き、図面を一枚ずつ広げた。
セラは村の地図と照らし合わせ、優先順位を書き込む。
俺は地下の芯灯に灯りを足し、工房全体の灯路を安定させた。
すると、月灯工房の窓から、淡い光が漏れ始めた。
外にいた村人たちが驚いて集まってくる。
「工房が光ってる」
「ミリアのところ、何年ぶりだ?」
「昔は夜でもあそこだけ明るかったな」
ミリアは窓の外の声を聞き、少し照れたように鼻をこすった。
「別に、まだ何も完成してないし」
「でも、工房は動き出したわ」
セラが言う。
「それは大きい」
「……うん」
ミリアは工具を握った。
「まずは月送りの灯を作る。父さんの図面、あたしが完成させる」
「材料はありますか?」
「月灯狐の毛はある。透明魔石も三つ。あとは金具と硝子。古い祭り灯から取れると思う」
「では、俺は灯りの流れを見ます」
「あたしが形を作る」
「はい」
ミリアはにっと笑った。
「共同作業だね、灯火師」
「よろしくお願いします、ランプ職人」
「いい返事」
彼女は満足そうに尻尾を揺らした。
その時、工房の扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、白髪の老人だった。
昨夜、北門のそばで俺に「孫が夜に泣く」と言っていた人だ。
セラが振り向く。
「ガルム爺?」
「忙しいところ、すまん」
ガルム爺は帽子を胸に抱き、少し遠慮がちに立っていた。
視線は、作業台の上の図面に向いている。
月送りの灯。
墓地道の送り灯。
セラが何かに気づいたように、表情を柔らかくした。
「爺。もしかして」
「聞こえちまってな。墓地の灯りを直すって」
ガルム爺はしわだらけの手で、帽子を握りしめた。
「無理を言うつもりはない。井戸や門が先なのは分かってる。村の皆の方が大事だ」
老人の声が少し震える。
「だが、もし……もし、いつかでいい。墓地までの道に、もう一度灯りがともるなら」
ガルム爺は、深く頭を下げた。
「妻の命日に、花を持って行かせてくれんか」
工房の中が静まり返った。
ミリアが図面を見つめる。
セラが目を伏せる。
俺は、ガルム爺の握る帽子を見た。
古く、丁寧に繕われた帽子。
きっと何年も使っている。
たぶん、墓参りに行く時にもかぶっていたのだろう。
夜道を照らす灯り。
死者に会いに行くための灯り。
残された人の心を、少しだけ前に進ませる灯り。
それを外れスキルだと、誰が言えるだろう。
「ガルムさん」
俺は言った。
「奥さんの命日は、いつですか」
「……明日の夜だ」
明日。
セラが驚いたように俺を見る。
ミリアも同じ顔をした。
材料も足りない。
図面も今見つかったばかり。
墓地道の状態も分からない。
本来なら、間に合うはずがない。
でも、ガルム爺は「いつかでいい」と言った。
ずっと待ってきた人が、さらに待つ覚悟でそう言った。
なら。
「明日の夜までに、間に合わせましょう」
俺がそう言うと、ガルム爺が顔を上げた。
「本当に……?」
「やってみます。約束は、簡単にはできません。でも、俺たちはそのために今、灯りを作っています」
ミリアが工具を握り直した。
「やるよ」
セラも頷く。
「村の人に声をかけるわ。墓地道の掃除と安全確認をする」
ガルム爺の目に、涙が浮かんだ。
「ありがとう……ありがとう」
俺はランタンを見た。
小さな灯りが、静かに揺れている。
王都では、誰にも見向きされなかった灯り。
でもこの村では、誰かの眠りを守り、井戸を守り、工房を目覚めさせ、明日は老人を大切な人の墓まで導こうとしている。
夜はまだ深い。
けれど、次にともす灯りは決まった。
月送りの灯。
ガルム爺が、もう一度奥さんに会いに行くための灯りだ。
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