ほんの一つでも、「偶然」の出来事が起こってくれたら、物事は大きく変わっていたのかもしれない。
とある暑い日。介護施設で働く田代はいつも通りの「仕事」をこなす。
しかし、どうもその日は色々な「ボタンの掛け違え」が起こってしまう。介助対象である中島の世話をする。オムツなどを取り替えようとするが、そこで思わぬトラブルが続くことに。
お気に入りのリーバイスとか、自分の「ささやかな幸せ」とか「日常の中でのちょっとした満足」というのは生きる上ではとても大切なこと。特に自分の日常にどこか「満たされなさ」を感じているような時は、「ほんのちょっとしたこと」にでも縋りたいと思ってしまうもの。
しかし、そんな風に設定していた「小さな城」がふとした偶然で壊された時は、人生のすべてを否定されたような気がする。世の中の因果とか、社会を構成する全てのものが自分を嫌って排除しているようにすら感じられてしまう。
そんな偶然のイタズラが重なることにより、人は「あらぬ方向」へと意識が向かってしまうものなのかもしれない。
現実の世界でも過去に起こってしまった事件の「IF」を描いた本作。
凶行に走ってしまう心理の描き方がとてもリアルで、この境遇にいる彼が普段から「自分」というものの尊厳を守ろうと必死でいたことなどが鮮明に窺うことができます。
しかし、偶然の連鎖が続いたことで「表面張力」のような状態だった我慢が決壊してしまうこともある。
自分を保つことにも疲れ、全てを壊してしまいたいという衝動と誘惑に駆られる。その時に人が目にするものは、この世とは異なる「別の何か」になってしまうのかもしれない。
だから、引き戻してくれる「何か」が必要になる。
この世のものではない別の何かに心を引っ張られるのなら、目を覚ましてくれる「ちょっとした何か」があればいい。
本作は、そんな「救い」が描き出されているところが強く心に響いてきました。
大きな満足や変化なんて必要がない。ほんのちょっとした「共感」とか「理解」とか、または「自己を肯定できる感覚」が得られれば。
そうした人が道を踏み外さないために必要な「ちょっとしたこと」が静かながら力強く描き出された、胸を揺さぶる一作でした。
【レビューコンテスト応募】
罪を犯した人物についての作者の言葉「突き詰めると、そのような心情に至る瞬間はあるかも知れない」。
これは、私が常々考えていることでもある。
そういった価値観を作品に落とし込むのは大変で、なりふり構わず資料をかき集め、無駄に思えるような時間を費やし、頭から煙が出そうなくらい考えた末に導き出した結果に自分でNOを突きつけたりする。
決してきれいな作業ではないし、自信が持てなくなることもある。
しかしこの作品の作者は、そんな情けない私とは違う。
様々な人の声を聞き、様々なことを感じたのだろう。
もちろん頭で考えたことも膨大だったと思う。
それをたった3500文字程度で表現してしまった。
ここまで見事にやられると、悔しさなど微塵も感じない。
現場ではきっと、綺麗事として片付けられない無秩序さが毎日何度も繰り返されているに違いない。
だが、そこにふともたらされる優しさや清涼さもまた、現場の彼らがじかに感じるものだ。
冒頭の『そのような心情』は決して正解でなくとも、彼らの鋭敏な生々しさは『熱帯夜のち、シトラスの風』に永遠に残される。
私はそのことが、とても嬉しい。
※他の方のレビューコメントを拝見し、私も【レビューコンテスト応募】をつけることにしました。多くの人に読んでもらいたいので。