2016年7月26日未明に発生した『津久井やまゆり園事件』――元職員が同施設にナイフを所持して侵入し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた痛ましい殺傷事件です。
本作執筆の契機となったこの凄惨な事件――記憶の片隅に追いやられ風化の一途をたどりつつある中、この物語を読めば、その忘れてはならない事件の記憶が凶刃に宿る罪の光の如く蘇るようです。
本作では高度行動障害の方と担当職員との間で起こったトラブルをモチーフに描かれています。
特にトラブルに直面した職員の心情が非常にリアルです。
心底を揺るがすほどの激しい感情と、それをルーティーンで何度も理性で押し殺して繋ぎ止める冷静の努め。
これらのせめぎ合いが如実に表現されていて、改めて罪の意識について考えさせられます。
介護やケアをする立場の方々が最も辛く、非常に過酷だと感じるのは【排泄】の介助です。
異臭、汚穢、嫌悪、憤怒……
単なる生理現象では片付けられない、人間の肉体と精神とを同時に容赦なく抉る切る感覚。
この物語では職員がその現実に耐え忍ぶ姿を理性と感情の両面で突きつけてきます。
想像してみてください。
嫌でも精神と忍耐が限界に追い込まれていく過酷な労働環境。職員の方々に強いられる精神的に強度の負荷と、入所者に対する如何とも抗し難い良心の呵責。
これを毎日繰り返すのです。
湧き起こる激情と憎悪に芽生えてしまう殺意に至る心理。忍ばせたナイフが「これはやってはいけないことだぞ……」と理性に語りかけ嘲笑うシーンは、まさに極限状態。
息を呑むほどの緊張が走ります。
しかし、シトラスの香りが心の救済となって締めくくられる展開に、張り詰めた空気が一瞬緩んでは一条の光が見える構成に作者様の優しさを感じました。
本作を執筆された契機となった「津久井やまゆり園」殺傷事件。
今年の7月26日で事件から10年の節目を迎えます。
事件を事件で終わらせないために、風化させないために、私たちに何ができるでしょうか。
それはこの事件の記憶を決して忘れないことです。それを作者様は伝えたかったのではないでしょうか。
もう二度と、こんな悲しい出来事が起こらないように。
今一度、胸に刻みたいと思います。
【レビューコンテスト応募】
ほんの一つでも、「偶然」の出来事が起こってくれたら、物事は大きく変わっていたのかもしれない。
とある暑い日。介護施設で働く田代はいつも通りの「仕事」をこなす。
しかし、どうもその日は色々な「ボタンの掛け違え」が起こってしまう。介助対象である中島の世話をする。オムツなどを取り替えようとするが、そこで思わぬトラブルが続くことに。
お気に入りのリーバイスとか、自分の「ささやかな幸せ」とか「日常の中でのちょっとした満足」というのは生きる上ではとても大切なこと。特に自分の日常にどこか「満たされなさ」を感じているような時は、「ほんのちょっとしたこと」にでも縋りたいと思ってしまうもの。
しかし、そんな風に設定していた「小さな城」がふとした偶然で壊された時は、人生のすべてを否定されたような気がする。世の中の因果とか、社会を構成する全てのものが自分を嫌って排除しているようにすら感じられてしまう。
そんな偶然のイタズラが重なることにより、人は「あらぬ方向」へと意識が向かってしまうものなのかもしれない。
現実の世界でも過去に起こってしまった事件の「IF」を描いた本作。
凶行に走ってしまう心理の描き方がとてもリアルで、この境遇にいる彼が普段から「自分」というものの尊厳を守ろうと必死でいたことなどが鮮明に窺うことができます。
しかし、偶然の連鎖が続いたことで「表面張力」のような状態だった我慢が決壊してしまうこともある。
自分を保つことにも疲れ、全てを壊してしまいたいという衝動と誘惑に駆られる。その時に人が目にするものは、この世とは異なる「別の何か」になってしまうのかもしれない。
だから、引き戻してくれる「何か」が必要になる。
この世のものではない別の何かに心を引っ張られるのなら、目を覚ましてくれる「ちょっとした何か」があればいい。
本作は、そんな「救い」が描き出されているところが強く心に響いてきました。
大きな満足や変化なんて必要がない。ほんのちょっとした「共感」とか「理解」とか、または「自己を肯定できる感覚」が得られれば。
そうした人が道を踏み外さないために必要な「ちょっとしたこと」が静かながら力強く描き出された、胸を揺さぶる一作でした。
【レビューコンテスト応募】
罪を犯した人物についての作者の言葉「突き詰めると、そのような心情に至る瞬間はあるかも知れない」。
これは、私が常々考えていることでもある。
そういった価値観を作品に落とし込むのは大変で、なりふり構わず資料をかき集め、無駄に思えるような時間を費やし、頭から煙が出そうなくらい考えた末に導き出した結果に自分でNOを突きつけたりする。
決してきれいな作業ではないし、自信が持てなくなることもある。
しかしこの作品の作者は、そんな情けない私とは違う。
様々な人の声を聞き、様々なことを感じたのだろう。
もちろん頭で考えたことも膨大だったと思う。
それをたった3500文字程度で表現してしまった。
ここまで見事にやられると、悔しさなど微塵も感じない。
現場ではきっと、綺麗事として片付けられない無秩序さが毎日何度も繰り返されているに違いない。
だが、そこにふともたらされる優しさや清涼さもまた、現場の彼らがじかに感じるものだ。
冒頭の『そのような心情』は決して正解でなくとも、彼らの鋭敏な生々しさは『熱帯夜のち、シトラスの風』に永遠に残される。
私はそのことが、とても嬉しい。
※他の方のレビューコメントを拝見し、私も【レビューコンテスト応募】をつけることにしました。多くの人に読んでもらいたいので。