第一話 奴隷
首輪の重さには、もう慣れている。
鉄の輪が喉の下に沈む。息をするたび、冷たい縁が皮膚を擦った。湿った石床に横たわると、鎖の重さが肩まで伝わる。初めの頃は、それだけで眠れなかった。
今は違う。
首を少し傾ければ、痛む場所がずれる。鎖が鳴る寸前の重さも分かる。動かない方が楽な時と、動いた方が痛みが散る時も分かる。
ーーまだ生きておるのう。
《そのようです》
ーー毎朝、律儀に確認せんでもよかろうに。
《確認は必要です》
牢の奥で、誰かが咳き込んだ。
血の混じった唾が、石床へ落ちる。汗。排泄物。古い血。湿った壁に染みついた臭いは、もう消えない。朝なのか夜なのかも分からない薄闇の中で、奴隷たちは互いの体温を避けるように座り込んでいる。
触れれば苛立つ。苛立てば争いになる。争えば、看守が来る。
「起きろ」
脇腹に蹴りが入った。
ジンは声を出さない。体だけを少し丸める。靴底が骨を擦った。息が詰まる場所ではない。蹴りの角度は浅い。痛みは腹の奥へ沈むが、動けなくなるほどではなかった。
看守はそれ以上蹴らない。
反応が薄い者を痛めつけても、面白くないのだろう。鎖を引きずる音を立て、隣の奴隷へ向かう。
ーー何度見ても趣味の悪い首輪じゃ。
《外せるなら外しています》
ーー外したところで、次は鎖じゃ。
《なので、まだ外しません》
ーーくくっ。普通は、そういう答えにはならぬ。
鉄格子の向こうで鍵が鳴った。
牢の空気が少しだけ動く。座り込んでいた者たちが顔を上げる。壁際の子供が膝を抱え、痩せた男が震える足で立ち上がった。
誰も声を出さない。
声を出せば目をつけられる。目をつけられれば、次に蹴られる場所が変わる。
「列になれ」
看守の怒鳴り声で、奴隷たちが動く。
鎖が床を擦った。首輪が鳴る。音の数に比べて、足音は少ない。まともに歩ける者が、もう多くない。
ジンは立ち上がる。
手首の鎖を軽く引いた。右へ半歩。左へ一歩。走るには足りない。転ばず歩くには足りる。
いつもの長さだった。
通路には、爪で削ったような傷が残っている。古い傷は黒く汚れ、新しいものは石の白さをまだ残していた。ジンは数えない。ただ、昨日までなかった傷が二つ増えていることだけを見る。
昨夜、奥の牢から聞こえていた声は、今朝にはもうない。
列が進む。
湿った牢の臭いが薄れた。
代わりに、酒の臭いが近づく。香油の甘さ。焼いた肉の匂い。鼻の奥が痛くなるほど濃い。視界が開けると、階段状の客席に着飾った男女が並んでいた。手にした杯を揺らし、中央の台を見下ろしている。
笑い声が降ってくる。
誰かが咳き込んでも、子供が泣いても、その笑いは細くならない。
台の上には少年が立たされていた。ジンより少し年下に見える。首輪から伸びる鎖を商人が握り、少年が震えるたびに短く引いて姿勢を直させる。
「魔力持ちだ。年は十四。傷も少ない」
商人の声が広間に響く。
客席から金額が飛んだ。金貨の枚数が増えるたび、笑い声と拍手が混ざる。少年は何かを言おうとしていた。唇が動く。目が客席を追う。
声は届かない。
値が決まると、鎖が引かれた。少年は台の端で足をもつれさせながら、人混みの奥へ連れて行かれる。
次に上がった女は、台に足を乗せた瞬間に暴れた。
鎖を握る商人の手が跳ねる。客席から短い歓声が起こった。女の首輪が鈍く光る。
悲鳴が床に叩きつけられた。
女は膝から崩れ落ちる。誰かが手を叩いた。別の誰かが笑いながら杯を掲げた。女はまだ息をしている。鎖を引かれ、足先が床を擦りながら台の下へ消えていく。
ジンはそれを見ていた。
首輪の光る間隔。
商人が鎖を引く癖。
看守の立ち位置。
客席の死角。
中央の台へ上がる階段は二つ。広間の出口は三つ。逃げ道はある。だが、届かない。
手首の鎖。首輪。看守の槍。客席の護衛。
焦った者から先に崩れる。
それは、もう見慣れていた。
ーーまた数えておる。
《必要なので》
ーー泣く者を見て、出口を数えるか。
《泣いても出口は増えません》
ーーお主は本当に、壊れておるのか壊れておらぬのか分からぬな。
《どちらでも、今は変わりません》
ベルゼリアは笑った。
頭の奥で響くその声には、いつも少しだけ冷たいものが混じっている。村の夜からずっとそこにいる声。首輪より内側に居座り、消える気配のないもの。
最初は夢かと思った。
次に毒かと思った。
今は、違うと分かっている。
追い出せないなら、置いておくしかない。
競売は続く。
値のつく者は連れて行かれ、値のつかない者は広間の端へ戻される。ジンの番も来た。台に立たされ、首輪から伸びた鎖を引かれる。
伸びきった黒髪が目元を覆っていた。頬には泥と乾いた血がこびりついている。汚れの下に隠れた顔立ちを、客席から見分けられる者はいない。痩せた体は、労働用としては細い。見栄えを求めるには汚れすぎている。
「魔力反応なし。年は不明。労働用だ」
商人の声が、少し雑になる。
魔力持ちの時ほど熱はない。客席の視線がジンの上を滑っていく。肩。手首。首輪。足。値をつける理由を探し、見つからないまま離れていく。
客席の男が一人、退屈そうに顎を上げた。
「顔を見せろ」
商人が舌打ちを隠す。
ジンの前髪が掴まれた。乱暴に顔を上げられ、首輪が喉へ食い込む。泥と乾いた血の奥で、赤い瞳が客席を向いた。
男の指が止まる。
「……気味が悪い」
誰かが笑った。
別の誰かが、不吉だと呟く。商人はすぐに髪を離し、別の客へ声を張った。だが、金額は上がらない。
前髪が落ち、視界がまた狭くなる。
広く見える必要はない。
看守の足。鎖の長さ。出口の位置。それだけ見えていれば足りる。
商人の声が少しずつ雑になり、やがて鎖が引かれた。台を下ろされる時、客席の誰かが欠伸をする。ジンは足元の段差だけを見た。
転べば笑われる。
笑われるだけならいい。看守が機嫌を損ねれば、戻った後で骨に響く蹴りが来る。
ーー人気がないのう。
《安く済みます》
ーー誰が買う前提で話しておる。
《売れ残るよりは楽です》
ーー奴隷の台詞とは思えぬな。
《奴隷なので》
ベルゼリアがまた笑った。
今度は少しだけ低い。
ーーますます気に入った。
《困りますね》
ーーなぜじゃ。
《まだ役に立つか分かりません》
ーーお主、本当に遠慮がないのう。
日が落ちる頃、売れ残った者たちは牢へ戻された。
黒パンが床へ投げ込まれる。数人が同時に手を伸ばした。乾いた塊は石に当たり、鈍い音を立てる。
ジンは急がない。
奪い合えば殴られる。殴られれば、明日動きが鈍る。欠片が足元へ転がってきたところで拾い、湿った部分を避けて口に入れた。噛むたび、歯が軋む。
ーーそれは食い物か?
《一応》
ーー石ではないのか。
《石ならもう少し長く残ります》
ーー嫌な比較じゃな。
牢の外から、足音が近づいてきた。
看守のものではない。足運びが軽い。鎧の音も、鎖の音もない。ジンは黒パンを飲み込む前に、視線だけを鉄格子へ向けた。
鍵が開く。
看守の後ろから、少年が入ってきた。
金髪が暗い牢の中で浮いて見える。服は汚れていない。靴にも泥がない。こんな場所に来れば、普通は鼻を押さえるか、眉をひそめる。
少年はどちらもしなかった。
牢の臭気を最初から知っているように、浅く息を吸う。壁際の老人、膝を抱えた子供、床に伏せた男へ順に目を向ける。
そして、ジンの前で止まった。
「へぇ」
声は軽い。
探す時間が短すぎた。
「こいつか?」
「ああ」
看守が頷く。少年は腰の袋から金貨を取り出し、枚数も確かめずに放った。金属が看守の掌で鳴る。牢の中の奴隷たちが、その音に小さく肩を揺らした。
少年はジンを見る。
目が合った。
怯えを探す目ではない。哀れみでもない。壊れていないか、使えるか、予定と違っていないかを確かめるような目だった。
「思ったより安かったな」
軽い口調だった。
ジンは黒パンの欠片を飲み込む。喉を通る硬さが、首輪の内側を擦った。少年の視線はまだ外れない。初めて見る相手へ向ける長さではなかった。
ーーほう。
頭の奥で、ベルゼリアが笑う。
ーーあれもまた、妙な目をしておるな。
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