【改正版】敗北した闇神と奴隷少年の復讐譚 〜未来を知る攻略者でさえ、この少年だけは読めない。世界の筋書きは、彼が壊す〜

犬飼ノクト

入学前編

プロローグ

その夜、ジンは泣くより先に、剣を見ていた。


 村が燃えている。


 熱い。煙い。母の手が痛い。手首を掴む指は、いつもより強く、爪が皮膚に食い込んでいた。夕食の匂いがするはずの道に、焦げた木と血の臭いが混じっている。


「逃げろ!」


「騎士だ! 騎士が来た!」


「子供を連れていけ!」


 声が飛ぶ。誰かが走り、誰かが転ぶ。井戸のそばで泣いていた女の声が、剣の音で途切れた。火を消そうとしていた男は、桶を持ったまま地面に崩れる。こぼれた水が土に染み、赤い火の下で黒く濡れていく。


 騎士たちは叫ばない。


 怒鳴らない。笑わない。燃える家の前を歩き、逃げ遅れた村人へ剣を下ろす。命乞いをする者がいても、足を止めない。刃が落ちる。声が消える。それだけだった。


 ジンには分からない。


 どうして村が燃えているのか。どうして騎士が村人を斬るのか。どうして母の手が震えているのか。分からないことばかりなのに、足だけが前へ動かされる。


「先に行け!」


 父の声がした。


 ジンは振り返る。村道の真ん中で、父が騎士たちへ剣を向けていた。大きな背中だった。薪を割る腕も、畑を耕す背中も、ジンの頭を乱暴に撫でる手も強い。父なら大丈夫だ。そう思いたかった。


 けれど、炎に照らされた剣先が、ほんの少し震えている。


 その震えだけで、分かってしまう。


 勝てない。


「あなた……」


 母の声が掠れた。


 それでも母は止まらない。ジンの手を引き、家と家の間の細い道へ入る。割れた桶が足に当たる。焦げた木片を踏む。石に膝をぶつけ、痛みで息が詰まった。


「お母さん、父さんは」


「見ないで」


 母は前だけを見ている。


「走って」


 背後で金属がぶつかった。


 一度。


 二度。


 そのあと、父の声は聞こえなくなった。


 ジンは口を開きかける。けれど何も出ない。母の横顔は炎で青白く見えた。泣きそうなのに、泣いていない。手首を掴む力だけが、さらに強くなる。


 細い道を抜ければ、森へ出る。


 そう思った時、道の先に騎士がいた。


 炎を背にして立っている。鎧には煤がつき、剣先から血が落ちていた。歩いてきた音は聞こえない。息も乱れていない。最初からそこにいて、母とジンが来るのを待っていたように見えた。


「……見つけた」


 母の手が震える。


 ジンはそれを手首で感じた。母は一度だけジンを見る。怖がっている。それは分かる。それでも母の目は、騎士から逃げていない。


「ジン、走って」


 動けない。


 騎士が剣を持ち上げる。刃に映った炎が細く揺れた。母の手が背中に回る。


「走って!」


 強く押された。


 体が前へ倒れる。足が地面を蹴る。ジンは森へ飛び込んだ。枝が頬を裂く。濡れた葉が顔に張りつく。


 背後で母の声が上がる。


 短い声だった。


 すぐに途切れた。


 振り返れば見える。見えれば足が止まる。足が止まれば、もう走れない。ジンは前だけを見た。喉が焼ける。胸の奥で心臓が暴れる。息が足りない。木の根に足を取られ、泥に手をつく。爪の間に土が入る。膝が痛む。


 それでも立つ。


 走る。


 火の赤から逃げる。


 森の奥へ。


 やがて木々が途切れた。


 月明かりの落ちる開けた場所へ、ジンは転がり込む。膝から力が抜け、泥の上に手をついた。喉が痛い。息がうまく吸えない。頬から血が落ちる。


 振り返ると、村の方角が赤く染まっている。


 家も、畑も、井戸も、父の背中も、母の声も、炎の中で形を失っていく。


「……生きていたか」


 声は近かった。


 ジンは息を止める。


 開けた場所の端に、一人の騎士が立っていた。村を襲っていた騎士たちと同じ鎧。同じ剣。同じ血の匂い。ただ、その肩には黒いマントが掛かっている。


 血を吸った裾が重く垂れていた。月明かりが雲の隙間から落ちる。兜の奥は暗い。顔は見えない。


 けれど、左頬を斜めに裂く古い傷だけが白く浮かんだ。


 ジンはその傷を見る。


 黒マントの騎士は、足元へ剣を投げた。重い刃が土を噛む。


「拾え」


 ジンは剣を見る。


 大きい。子供の手には太すぎる柄。長すぎる刃。持ち上げるだけで腕が壊れそうに見えた。


 逃げれば背中を斬られる。


 拾っても勝てない。


 それは分かる。


 でも、拾わなければ何もできない。


 ジンは柄へ指を伸ばす。握った瞬間、腕が下へ引かれた。重い。肩の奥が痛い。剣先が土を擦る。なかなか持ち上がらない。


 それでも離さない。


「ほう」


 騎士の声が、少し変わった。


 次の瞬間、騎士が踏み込む。


 足音より先に、剣が見えた。


 月明かりを引いた刃が、ジンの首へ落ちてくる。考える暇はない。腕が勝手に上がる。重い剣が跳ね上がり、落ちてくる刃を受けた。


 ガン、と金属が鳴る。


 耳の奥で音が割れた。衝撃が腕から肩へ抜ける。膝が土に沈む。指が痺れる。


 それでも刃は止まっている。


 震えるジンの剣の上で、騎士の剣が止まっていた。


「一手目は防ぐか」


 騎士の声に、笑いが混じる。


 重みが消えた。


 次に、腹へ蹴りが入る。息が潰れ、体が浮いた。ジンは背中から地面へ叩きつけられる。土と草の匂いが鼻の奥に広がった。視界が白く滲む。吐きそうなのに、声は出ない。


 騎士が歩いてくる。


 もう一度踏み込まれれば終わる。


 倒れたまま、ジンは剣を動かした。腕は痺れている。腹の奥が痛い。立てない。けれど、指はまだ柄を離していない。


 剣先が土を擦る。


 細い泥の線が伸びる。


 騎士の足の前で、剣先が止まった。


 黒いマントが遅れて揺れる。


 踏み下ろされるはずだった足が、空中で止まっていた。


「……何だ、お前は」


 ジンは答えられない。


 息が足りない。腹が痛い。腕も動かない。それでも、目は騎士から離れなかった。


 踏み込む前に、足が少し沈む。


 蹴る前に、腰が傾く。


 剣はまっすぐ落ちてくるようで、最後に少し角度が変わる。


 黒いマント。


 左頬の古傷。


 全部、頭の中に残っていく。


 父の背中も残っている。母の声も残っている。炎の赤も消えない。消えないのに、その中へ騎士の動きまで焼きついていく。


 涙は出ない。


 泣けなかったのではない。


 涙より先に、目が騎士を追っていた。


 騎士はしばらくジンを見ていた。


 やがて、剣を肩へ戻す。


「今日は生かしておいてやる」


 黒マントの裾が闇の中で揺れた。


「せいぜい壊れずに生き延びろ」


 騎士は森の奥へ消えていく。


 ジンは追えない。立つこともできない。倒れたまま、赤く染まった空を見る。村はまだ燃えている。母に掴まれた手首が痛い。父の剣先の震えが頭から離れない。


 胸の内側が焼けている。


 腹の痛みよりも、深い場所が熱い。


 でも最後まで目の奥に残ったのは、騎士の動きだった。


 あの踏み込み。


 あの剣。


 あの傷。


 泥に濡れた小さな手が、ゆっくりと握られる。


「次は、届かせます」


 掠れた声は、夜に消えた。


 返事はない。


 炎の赤が滲む。森の影が深くなる。意識が沈んでいく。痛みも、熱も、煙の臭いも、少しずつ遠くなる。闇の底で、誰かが笑った。


ーーほう。


 耳ではない。


 森の音でも、燃える村の音でもない。もっと奥。意識の底に沈んでいく場所で、声が響いている。


ーー壊れぬか。泣きもせず、叫びもせず、あの男の足を見ておったか。


 ジンは答えられない。


 まぶたが重い。指も動かない。息を吸うたび、腹の奥が痛む。それでも黒マントの踏み込みだけは、まだ目の裏に残っていた。


ーー面白いのう。


 声は笑っていた。


 村人の笑いではない。騎士の笑いでもない。冷たく、深く、夜よりも暗い場所から響いてくる。


ーーお主、名は。


「……ジン」


 声になったのか、息が漏れただけなのか、自分でも分からない。


ーージン。


 その声が、名前をなぞった。


ーー覚えたぞ。妾はベルゼリア。


 闇が深くなる。


 炎の赤が遠ざかる。黒マントの古傷だけが、まだ白く残っている。ジンは目を閉じたのか、開けたままなのかも分からなかった。


ーー壊れずに生き延びよ。妾は、お主の先を見てみたい。


 その笑い声を最後に、ジンの意識は闇へ沈んだ。




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