『古墳の鯉』

根古野 雀句

古墳の鯉

 私の育った町には、古墳が多かった。


 それは観光地というほど立派なものではなく、けれど日常のどこかに必ずある、低く盛り上がった黒い背中のようなものだった。住宅の隙間に森があり、森の奥に土があり、そのまわりを古い堀が囲んでいた。大人たちはそれを歴史と呼んでいたが、子供の私には、ただそこだけ時間が腐らずに残っている場所のように思えた。


 学校の帰り道、私はいつもひとりだった。


 誰かと歩調を合わせて帰ることが、あまりうまくできなかった。寄り道をしたかったし、立ち止まりたかった。水たまりの中を覗き込み、草の葉の裏に虫がいるか確かめ、小さな流れのなかに、まだ名前を知らないものが動くのを見ていたかった。


 古墳のお堀は、私にとってそういう場所だった。


 お堀の手前は水深にすれば三十センチほどしかなかったと思う。けれど底は見えず、泥が厚く沈み、葦や枯れた枝がからみあって、足を入れればそのまま抜けなくなるような暗さがあった。水面は浅いのに、そこには深いものがあった。


 駐車場がお堀に面していた。柵はなかった。車止めのコンクリートと、ひびの入った舗装と、その先にすぐ水があった。今考えれば危ない場所だったのだろう。けれど当時の私は、そこにある危険を、危険としてではなく、近づいてはいけないものが近くにあるという親密さとして感じていた。


 ある日の帰り道だった。


 季節ははっきり覚えていない。ただ、空気の色だけは覚えている。夕方になる少し前の、白く濁った光だった。ランドセルの肩紐が片方だけずり落ちていて、私はそれを直すのも忘れて、いつものようにお堀を覗いた。


 そこに、巨大な魚がいた。


 自分の身長と同じくらい、あるいはそれ以上の、黒っぽい鯉のような魚だった。


 魚というより、お堀の底から切り出された暗い塊のようだった。


 私は目を離せなかった。


 あまりに大きく、静かで、そこだけが水の中ではなく、別の場所につながっているようだった。


 水際から一メートルほど先の、浅い泥の上に、その魚はいた。少しも動かなかった。尾びれも、鰓も、影のように静かだった。私は長いあいだ見ていた。黒い背。鈍い光を返す鱗。濁った水のなかで、体の輪郭だけが異様にはっきりしていた。


 死んでいるのかもしれないと思った。


 それほど大きなものが、そんな浅い場所で動かずにいる理由を、私は他に知らなかった。死んでいるのなら、確かめたかった。


 足元に、手のひらに収まるほどのコンクリート片が落ちていた。


 私はそれを拾った。近くに落とせば、水が揺れて、死んでいるかどうかわかると思った。腕を振った瞬間のことは、ほとんど覚えていない。石が手を離れ、水面へ向かった。その軌道が思ったより低かったことだけを覚えている。


 鈍い水音がした。


 石は魚の頭に当たった。


 水が跳ねた。黒い体の前の方に、白っぽいものが見えた。鱗が割れたのか、皮が裂けたのか、そこだけが急に生々しかった。白い肉と、薄いピンク色の傷。お堀の暗さのなかで、それは不自然に明るかった。


 私は息を呑んだ。


 そのときまで死んでいると思っていた魚が、ゆっくりと向きを変えた。


 驚いたようには見えなかった。怒ったようにも見えなかった。ただ、長い時間をかけて、こちらを諦めるように体を傾け、泥を濁らせながら深い方へ泳いでいった。尾びれが一度、大きく水を押した。水面に輪が広がった。黒い背は少しずつ薄れ、やがてお堀の色と同じになった。


 私はただ、その場に立ちつくした。


 古墳のお堀も、あの水辺も、今も実家の近くにある。


 今でも浅い水を見ると、私はあの黒い魚を思い出す。


 頭に白い傷を負ったまま、深みに向かって、ゆっくりと泳いでいく背中を。

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