16 奇襲
アーサー様のオールを動かす手が止まった。
「アーサー様」
呼びかければ、はっと彼は目を見開いた。
「ごめん、帰る途中だったね」
そう言って、彼がオールを一漕ぎした時━━岸から轟音とともに熱風が吹いてきた。
「危ない!」
彼はオールを投げ捨てると立ち上がった。そうして左手を前に掲げた彼は、燃え盛る炎の渦を
そのおかげで私達は火に焼かれずに済んだ。けれど、魔法障壁では爆風を防ぐことができなかった。
激しく揺れるボートから振り落とされた私は、頭から湖へと落ちていく。
「エレノア嬢!」
水に浸かる間際、アーサー様が叫んだ。彼は私に向けて手を伸ばしてきた。けれど、それも虚しく、私は勢いよく湖面に叩きつけられて気を失ってしまった。
※
「リー、……エリー、エリーったら」
ガタガタと世界が揺れた。
「起きてよ、エリー。エリー!」
キンキンした声が耳に障る。
揺れが気持ち悪くてたまらない。
「……ゆすら、ない……で」
重いまぶたをゆっくり、ゆっくりと開ける。
白んでいた世界はゆっくりと色を取り戻し、私の身体を揺らしていたのがベッキーなのだと気がついた。彼女は涙で顔をぐしゃぐしゃにして、折角のお化粧が台無しになっていた。
私は重たい腕を上げて、彼女の頬を撫でた。
ベッキーは腫れ上がった目を見開いたかと思ったら、今度はボロボロと涙をこぼした。
「エリー! ああ、良かった! 本当に良かったよぉ」
彼女は勢いよく私に覆いかぶさり、声をあげて泣いた。
「ベッキー……」
私は寝そべったまま頭を動かした。
その拍子に、髪に重さを感じて、私は手で触ってみた。そうしてようやく、自分が湖に落ちたことを思い出したのだ。
何があったのか。そして、今は、どうなっているのか。
周りを確認してみると、倒れた私の数メートル先に火が焚かれていた。温かさを肌で感じながら、さらに周囲の様子を窺う。十数メートルくらい離れた場所。そこに、人だかりができていた。
彼らはみな、黒のジャケットに黒いズボンを着ていて帽子まで揃いだった。その制服が警官のものだと分かるまで、少し時間がかかった。警官をこんなに近くで見たのはいつぶりだろう。
警官の一人が手帳にメモをしながら、びしょ濡れのアーサー様から話を聞いていた。そこから少し離れたところでは、服を濡らしたイアンが同じように警官と話をしていた。
「モニャーク公爵嬢?」
ふいに頭の先の方から声が聞こえた。
首を反らして見上げてみると、手に木の枝を持ったニュルンデル伯爵がいた。
「目覚められたのですね」
彼は「アーサー!」と叫んだ。
そうすると、アーサー様は私のもとに駆け寄ってきた。
「エレノア嬢……。医者はもうすぐ来るそうだから、安心して」
「……はい」
「レベッカ嬢、ちょっと離れてあげて」
ベッキーは伯爵に身体を支えられながら身体を起こすと、そのまま彼にしがみついた。彼の胸の中でぐずぐずと鼻を鳴らしているのが聞こえる。
「大丈夫、大丈夫だから。彼女は目覚めたんだし……。ね?」
伯爵はベッキーのすっかり乱れてしまったオレンジの髪を優しく撫でた。
彼女が慰められる中、私はアーサー様の助けを借りて身体を起こした。
「痛いところはない?」
腕や肩、足の先を動かしてみても痛みを感じなかった。
「はい、大丈夫です」
「寒くはない?」
「いえ……」
濡れてはいるもののそれ程寒さを感じなかった。焚き火に当たっていたおかげだろう。
「あの……、何があったんですか」
状況が未だに飲み込めない私は彼に尋ねてみた。彼が口を開こうとしたその時━━ヒステリックな女の喚き声が響いた。
壁になるように立ち塞がっている警官達。その一人の身体がぐらりと揺れた。それによってできた隙間からミランダが顔を覗かせた。
「私は悪くないって言ってるでしょう!!」
彼女は鬼のような顔つきで叫ぶと、髪を振り乱して暴れ始めた。
「やめないか!」
警官の一人が怒鳴ってみても、彼女が止まるはずもなく、むしろ動きが激しくなった。
「ミランダ……? どうして、彼女がここに?」
私がつぶやいている間に、彼女は取り押さえられた。数人の警官達によって身体を地に押さえつけられた彼女は、それでも顔を上げて私を見ていた。
「あんた、何なのよ!」
ミランダは目をひん剥いて、私に怒鳴りつけてきた。その異様な形相に、私は身をすくめた。
アーサー様は私の背中に腕を回し、私の身体を引き寄せた。私は震える手で彼の胸にしがみついた。
「お前は悪役令嬢のくせに! 何で私より幸せになってんのよ!! ふざけんな!!」
絶叫するミランダの頭を掴んだ警官は、彼女の頭を地面に擦り付けた。
「さっきからお前は、何をわけのわからないことを言っているんだ!」
彼女の頭を持った警官が忌々しげに言った。
「うるさい! モブが私に意見するな! 私はこのゲームのヒロイン、ミランダ・サリューナよ。ケインのエンディングを迎えたからには、私が第二王子妃になるはずだった。なのに、なのにっ、あの女のせいでっ……」
やっぱり、あなたも私と同じ転生者だったのね。
薄々はそのことに気づいていたけれど、彼女の口からはっきりと告げられたのは初めてだった。
「お前がいけないんだ! 私はゲームのシナリオ通りにしたのに。それなのに……。何でケインは、……第一王妃は私を王太子妃にしようとしてくれないのよぉ」
嗚咽を漏らした彼女を、みんなが怪訝そうな顔で見つめる。
彼らの目には、ミランダが狂人に見えているのだろう。けれど、私だけは彼女の言葉の意味が分かった。
彼女は、ゲームのイベントをこなすだけでいいと思ったのだろう。そうすれば、ケイン様は勿論のこと、第一王妃様やローズ王女殿下に気に入られるのだと。そして、イベントで匂わされていた通り、将来は王太子妃になれると信じていたのだろう。
━━けれど、現実は甘くない。
ゲームでは、卒業パーティでケインがミランダに永遠の愛を誓うところでエンディングを迎えたから。きっと、彼女はその後の自分の人生を想像できなかったのだろう。
私はアーサー様の胸に縋るのをやめた。そして、しっかりと彼女を見据える。
「お前が何かやったんだ! お前が!」
「違うわ!」
私は大きな声ではっきりと言った。
「違う。私のせいじゃない! ケイン様のせいでも、第一王妃様のせいでもないわ」
「何ですって!」
「ミランダ、こうなったのは、全てあなたのせいよ。少し考えたら分かることじゃない? 男爵令嬢のあなたが、第二王子であるケイン様と結ばれることの難しさが」
「黙れ!」
「あなたがケイン様の伴侶になるには、途方もない労力と人の助けが必要なの。あなたはそれを得るための努力をしていない。……ううん。むしろ、マイナスになることしか、していなかったわ」
「黙れったら!」
「それにゲームはもう、終わったはずだから。あなたの望む主人公補正なんてないと思うの」
「黙れえぇぇぇ!!」
ミランダはじたばたと地面の上でもがいた。けれど、屈強な男達に押さえられた彼女になす術もなく、後ろ手に手錠を嵌められた。
警官の一人がポケットから取り出した懐中時計を見ながら言った。
「午後4時10分、王族、並びに高位貴族に対する殺人未遂の疑いで逮捕する!」
こうして彼女は腰に縄をかけられて、警官の馬車へと連行されていった。
去り際に彼女は私を睨みつけた。私の言葉は彼女の心には響かなかったらしい。この調子だと、彼女の人生は坂を転げ落ちるように下っていくしかなかった。
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