2026年5月29日 13:48
優太君の五・一五事件への応援コメント
少し硬くなりますが、この作品について考えたことを書きます。読み始めたとき、優太君がウキウキしながら登校する場面を、どこか微笑ましい気持ちで見ていました。歴史が好きで、五・一五事件の日だと気づいて、誰かに教えてあげたくてたまらない。その小さな喜びが、あまりにも自然に描かれています。ただ、読み返してみると、冒頭にひとつ気になる点がありました。優太君が「お気に入り」として覚えているのは、犬養毅首相がピストルで撃たれる場面です。その場面の核心にある「話せば分かる」という言葉は、冒頭にはまだ出てきません。優太君がその場面の何を好きなのか、最初は半分しか見えていない。その「話せば分かる」という言葉が初めてはっきり姿を現すのは、物語の終盤、雑木林での場面です。「土に塗れていく本を見つめながら、優太君の脳裏には犬養毅首相が『話せば分かる』と言った直後に撃ち殺されるシーンが浮かびました」ここで初めて、愛好していた場面の全容が開示されます。言葉を信じた人間が、言葉を発した直後に暴力によって止められるこの配置に、この作品の怖さが強く出ているように感じました。「話せば分かる」という言葉が読者に届く瞬間は、優太君自身が学校の中で発話を禁じられ「いない人として扱いますから」という担任の宣言によって存在を消されクラスの中で暴力の焦点に置かれてしまったその最中なのです。優太君が「お気に入り」として愛好していた構造——言葉を信じる人間が、発した直後に暴力で止められる——と、いま優太君自身が置かれている構造が、文章の上で最も近づいた瞬間に、その愛好の核心が初めて明かされる。「なんで僕はそんなシーンが好きなんだろうな、とぼんやり思いました」これが、この作品でいちばん深い場所だと感じました。この問いは、自分が愛好してきた場面の意味と、自分がいま置かれている状況との関係に、最も近づいた点で発生しています。答えが出そうな場所まで行ってしまっている。でも本文は、その問いに答えを与えません。「ぼんやり」という言葉通り、意識は散漫なまま、暴力は続き、やがて琉星君たちは去り、優太君はひとり残されます。宣言のことも、少し考えました。担任の上田先生が「いない人として扱いますから」と告げるとき、その言葉はクラス全員の前で発せられています。「いない人」にする宣言が、クラスじゅうに向かって発される。すると皮肉なことに、「いない人」とされた優太君は、その日一日、全員の行動の焦点になります。給食で名指しでおかずを取り上げられ、着替え袋を移動させられ、教壇に上げられ、待ち伏せされる。消したはずの存在が、最も強い可視性を持つ標的に変わっていく。言葉で存在を否定することが、その存在をいちばん大きくしてしまう逆説は、読みながら息苦しくなりました。帰り道、優太君は下駄箱を出るとき、送り出しに立っている上田先生と三秒だけ目が合います。でも先生は何も言わず、そっぽを向く。最後の可能性が閉じられる場面です。そのあとそのまま、優太君は裏門へ連れていかれます。暴行が終わって、優太君が荷物を拾い集める場面も印象的です。土で汚れた「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」を手に取り、「少し土を払うと、そこまで汚れていないことが分かりました。これなら返す時に小山先生に何も言われないだろう」と考える、感情的な爆発はない、この静けさが、かえってつらく感じました。最後の場面「夜ご飯の時間にお母さんかお父さんに今日は何の日か知っているか聞こうと思いました」朝、優太君は「誰かに教えてあげたい」と思って学校に向かいます。その「誰か」は、クラスメイトでも先生でもよかった。でも一日が終わって残ったのは、「お母さんかお父さん」だけに向けられた、ずっと小さくなった問いかけです。欲求の内容は変わっていない。今日が五・一五事件の日だということを、誰かと共有したいその「誰か」が、学校という場所から完全に消えてしまった言葉が死んだわけではない言葉を向けられる場所が、家庭という小さな範囲だけになっているこの作品は、私には「言葉が負ける話」ではなく、「言葉が暴力に止められる場面を好きだった子どもが、自分自身も言葉を止められた瞬間に、その理由へ最も近づいてしまう話」として印象が残りました。問いは答えに届かない。認識だけが空白のまま残って、言葉を誰かに向けたい気持ちだけが、学校から家庭へ静かに縮んで続いていく、その残り方が、読み終えてからもずっと離れませんでした。
作者からの返信
大変詳細な感想、分析ありがとうございます😭😭励みになります!
優太君の五・一五事件への応援コメント
少し硬くなりますが、この作品について考えたことを書きます。
読み始めたとき、優太君がウキウキしながら登校する場面を、どこか微笑ましい気持ちで見ていました。
歴史が好きで、五・一五事件の日だと気づいて、誰かに教えてあげたくてたまらない。
その小さな喜びが、あまりにも自然に描かれています。
ただ、読み返してみると、冒頭にひとつ気になる点がありました。
優太君が「お気に入り」として覚えているのは、犬養毅首相がピストルで撃たれる場面です。
その場面の核心にある「話せば分かる」という言葉は、冒頭にはまだ出てきません。
優太君がその場面の何を好きなのか、最初は半分しか見えていない。
その「話せば分かる」という言葉が初めてはっきり姿を現すのは、物語の終盤、雑木林での場面です。
「土に塗れていく本を見つめながら、優太君の脳裏には犬養毅首相が『話せば分かる』と言った直後に撃ち殺されるシーンが浮かびました」
ここで初めて、愛好していた場面の全容が開示されます。
言葉を信じた人間が、言葉を発した直後に暴力によって止められる
この配置に、この作品の怖さが強く出ているように感じました。
「話せば分かる」という言葉が読者に届く瞬間は、
優太君自身が学校の中で発話を禁じられ
「いない人として扱いますから」
という担任の宣言によって存在を消され
クラスの中で暴力の焦点に置かれてしまった
その最中なのです。
優太君が「お気に入り」として愛好していた構造——言葉を信じる人間が、発した直後に暴力で止められる——と、いま優太君自身が置かれている構造が、文章の上で最も近づいた瞬間に、その愛好の核心が初めて明かされる。
「なんで僕はそんなシーンが好きなんだろうな、とぼんやり思いました」
これが、この作品でいちばん深い場所だと感じました。
この問いは、自分が愛好してきた場面の意味と、自分がいま置かれている状況との関係に、最も近づいた点で発生しています。
答えが出そうな場所まで行ってしまっている。
でも本文は、その問いに答えを与えません。
「ぼんやり」という言葉通り、意識は散漫なまま、暴力は続き、やがて琉星君たちは去り、優太君はひとり残されます。
宣言のことも、少し考えました。
担任の上田先生が「いない人として扱いますから」と告げるとき、その言葉はクラス全員の前で発せられています。
「いない人」にする宣言が、クラスじゅうに向かって発される。
すると皮肉なことに、「いない人」とされた優太君は、その日一日、全員の行動の焦点になります。
給食で名指しでおかずを取り上げられ、着替え袋を移動させられ、教壇に上げられ、待ち伏せされる。
消したはずの存在が、最も強い可視性を持つ標的に変わっていく。
言葉で存在を否定することが、その存在をいちばん大きくしてしまう逆説は、読みながら息苦しくなりました。
帰り道、優太君は下駄箱を出るとき、送り出しに立っている上田先生と三秒だけ目が合います。
でも先生は何も言わず、そっぽを向く。
最後の可能性が閉じられる場面です。
そのあとそのまま、優太君は裏門へ連れていかれます。
暴行が終わって、優太君が荷物を拾い集める場面も印象的です。
土で汚れた「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」を手に取り、
「少し土を払うと、そこまで汚れていないことが分かりました。これなら返す時に小山先生に何も言われないだろう」
と考える、感情的な爆発はない、この静けさが、かえってつらく感じました。
最後の場面「夜ご飯の時間にお母さんかお父さんに今日は何の日か知っているか聞こうと思いました」
朝、優太君は「誰かに教えてあげたい」と思って学校に向かいます。
その「誰か」は、クラスメイトでも先生でもよかった。
でも一日が終わって残ったのは、「お母さんかお父さん」だけに向けられた、ずっと小さくなった問いかけです。
欲求の内容は変わっていない。
今日が五・一五事件の日だということを、誰かと共有したい
その「誰か」が、学校という場所から完全に消えてしまった
言葉が死んだわけではない
言葉を向けられる場所が、家庭という小さな範囲だけになっている
この作品は、私には「言葉が負ける話」ではなく、「言葉が暴力に止められる場面を好きだった子どもが、自分自身も言葉を止められた瞬間に、その理由へ最も近づいてしまう話」として印象が残りました。
問いは答えに届かない。
認識だけが空白のまま残って、言葉を誰かに向けたい気持ちだけが、学校から家庭へ静かに縮んで続いていく、その残り方が、読み終えてからもずっと離れませんでした。
作者からの返信
大変詳細な感想、分析ありがとうございます😭😭
励みになります!