鏡の回廊
崖の上に立つ神獣は王国の衰退を俯瞰していた。宇宙の始まりから知る神獣の目には、人間の争いは、その絶え間ない澱みの中では一瞬のきらめきでしかなかった。
ある日その澱みの底に赤く光る石を見つけた。その石は、まてりあるとでじたるの両方の性質を持っていた。拾い上げるとその光は、強さを増して辺りの景色も赤く染めていった。その強すぎる光を恐れた神獣は赤く光る石をただの宝石にしてしまい、人間の世界に隠すことにした。
小さくなった紅い宝石はその内側でいつまでも光を発し続けるのでその裏表が反転して今神獣が見ている世界になった。始まりも終わりもなかった世界には因果が生まれ人間もそこから生まれた。
長い時間をかけて人間は紅い宝石を見つけた。人間はその好奇心から宝石の中の光に魅せられ宇宙を創造していった。その宇宙の地平では数式と等価で、無限と零は強固につながっていた。
それに気づいた賢い人間は、だーくまたーを観測する。色も形も重さも無いゆえに概念そのもので神の目には見えなかった。人間は因果をもったままの姿でその力を得た。
世界を覗くために紅い宝石から黒い宝石は生まれた。二つの石は望遠鏡にはめ込まれ中を覗けば、始まりからその最後まで本当のこととして見ることが出来た。
人間の好奇心は限りがなく見たもの全てが本当になった。無限に近い記録が増えていくと、紅い宝石と黒い宝石は反発するようになり、ある日望遠鏡を突き破って、片方は西の海に、もう片方は東の山に飛んでいってしまった。
気が遠くなるほどの長い時間が流れ人間は馬鹿になった。神獣は二つの宝石の光を追い続けていた。付かず離れずを繰り返す光は、安定した軌跡を描いていたが、ある時から一つの点を中心に回転を見せることが増えていった。
その渦の中心には何も存在せず、輝きを増す光の渦に神獣は導かれ山を降りた。彼の王の亡骸は無く神獣は僅かに残った王の痕跡を辿り渦の中心へと入っていった。
だーくまたーの渦は神獣に初めて人間の視覚と触覚を与え、痛みを感じることができた。やがて渦の出口が見えてきた時、向こう側の二つの宝石の輝きを見つけた。
渦の中で光を浴びて形を得た神獣はその体に向こうの世界を反射した。
無限を可視化する不思議な世界に迷い込んでいた。合わせ鏡には無限に自分の姿が写り、振り向くと無限の自分は同じように振り向いた。正面と背中を交互に写す光の回廊の遥か向こうからその法則を無視してこちらに歩いてくる者がいる。
それは自分自身でやがて目の前の一枚を跨いだ。左右反転した自分の姿は一番目にしてきたものだ。洗面台の鏡、窓ガラスに写る立ち姿、水面に写り込む影、全てがあべこべの世界。
同じ事がリンとシンにも起きていた。三人は奇門遁甲の術中に落ちていた。それぞれの自分自身と向かい合い、先に口を開いたのは鏡の自分だった。
「やっと会えましたね、私が本当のあなたです」
自分自身が鏡像であべこべの世界が本当。もうそのどちらでも良くなっていた。妖は新月の出口を鏡の回廊に変え三人まとめて無限の鏡地獄に閉じ込めるつもりだった。
妖の体が実を得て世界を反転させるのには、言葉が必要だった。それを引き出すことができれば紅い宝石を取り戻し、王国が夢描いた安寧が全ての生き物の元に訪れるのだ。
神である妖には干渉することの許されない人間の世界であったが、盗まれた宝石で宇宙の均衡を脅やかすあの男は許せなかった。そしてその縁があってここへ来ることも出来た。
「あなたの物語は私の物語です。私の手とあなたの手を合わせさえすればもう苦しむこともないのです。さあもう一歩進んで手を合わせこう言うのです。託すと」
三人は手を合わせその禁じられた言葉を口にした。世界は反転し妖は三人の姿の実を得た。
「ついに取り返したぞ、これさえあれば我国の民いや、世界の安寧は約束された」
妖の姿は方の国の将軍に変わっていた。しかし実を得たはずのその姿は鏡には写っていなかった。すると合わせ鏡のずっと奥から歩いてくる者がいる。最後の一枚を跨ぐと
「自らが光を放ってこそ初めて世界は色を帯びてくる、奇門遁甲の術破れたり」
無限のシンの槍が全ての鏡を割った。術を最初に仕掛けていたのは三人の方だった。鏡は粉々に飛び散り無数の破片に将軍の姿を写していた。リンはその姿を悲しそうに見つめていた。
「世界を良くしたい欲に神獣が導かれたか」
自らが光を放ってとシンは言っていたが自分の姿は二人に届いているだろうか。自我を固定するのは、他者の観測がなされた時で暗闇の中で光り輝けばお互いを見つけることができるだろう。二人のガーディアンは輝いていた。
リンとシンは同じ目的で協力しているようだったが、高い塔のシンの様子と今とでは明らかに違いがあった。シンの望むルートがあのまま進んでいたら、どんな未来だったろう。
時折り自分を支配する人格に傅く訳は、黒い獣が言っていたような過去があるからだろう。それでも今のシンが自分は好きだった。
隣にはリン、少し離れて前をシンが歩いていた。いつもすぐいなくなるシンが一緒にいるのは珍しいことだった。
「これが済んだらシンはどうするつもりだ」
返事はなかった。
答えを聞くのが怖くて言えなかった問いをしてみた。それはリンに向けたものでもあった。
「元いた場所に帰るのか」
「俺に帰る場所などない」
この世界に留まるという意味だろうか、
「良かったらうちに来ないか」
喉元スレスレに槍の切先が止まった。咄嗟にリンが自分の身を庇うように覆い被さった。槍は引かれそのままリンの頸に突きつけられた。小さな切り口から血が細く流れた。
「よせ」
「術に括られていなければ今頃お前の首は繋がってはいないぞ」
そう言い残して闇に消えていった。
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