第20話 父 神崎博文



隼人の父親が誰なのか調べた、あのDNA検査の結果報告書。

それを義父が受け取ってしまったと彼女が報告して来たその夜、義父は彼女に知られぬよう俺を呼び出した。

『お前の嫁が浮気女だって言いふらされたくなければ、毎月金を振り込むんだな。そうだな、十五万は欲しいなぁ』

あの部屋でタバコをふかしながらそう言って来た。

十五万。どの時代でもこの額を『はいそうですか』と渡せるものか。

ついに金銭感覚までわからなくなったのかと頭が痛くなる。

それでも彼女が浮気女だと言いふらされれば、背びれ尾びれがついて外でも呼吸が出来なくなる。なにより生まれてくる子どもにもよけいな噂が立つ事になる。

『あの浮気女の子どもだ』

『真紀ちゃんがあの人とねぇ……』

『あの子はどっちに似てるんだろうね』

『大きくなったらあの子だって見境無くなるわよ……』

そんな事をこの街の人間が言い始めるかは、義父にかかっている。

仕方なく承諾した。十五万……。懐が痛むどころの話しではない。

そして義父はさらに言い始めた。

『わしがその十五万を有効活用してやる。その金からお前達に今まで通り援助してやろう、な。額は変えんからな? 金を渡せばお前達はすぐに甘ったれる。これで真美ちゃんにもっと小遣いをやれるし、お前達を養っているわしの体裁が保てる。お前はいい旦那だなぁ。こんな旦那に愛されて、あの役立たずも、ちったぁわしと真美ちゃんの役に立てたってもんだ』

彼女には隠しているが、今も毎月十五万を振り込んでいる。

そしてその内、千円が義父からの金として渡される。

茜や隼人には生涯知られてはならない。

そして、彼女にも生涯秘密にしなければならない。

どれだけ生活が苦しくなろうと、彼女と茜と、これから生まれてくる我が子の為にと。奥歯がくだける程に食いしばった。

二人が小さな頃は今より給料が低かったせいで、運動会や授業参観に参加出来ない事は一度や二度どころではない。その機会をほぼ全て義父に奪われたのは人生において汚点になるだろう。それでもその甲斐あって、子ども達には習い事も部活も、彼女のトラウマでもある制服もなんとか購入する事が出来ている。

学校生活でかかる費用も、なんとか問題なく払えている。

そんな二人も順調に大きくなった。

あんなに小さかったの茜は彼女と同じぐらいに、隼人は来年には彼女を超えるであろう身長になった。

茜は義父になじられるのが嫌で当然の様に部屋にこもるようになり、その時間で勉強した結果が実を結び、大学付属高校に特待生として入学できた。

学校で成績優秀である事は学期末の成績表で知っていたが、まさか三年間学費免除になれるほどの成績と内申点があるとは思ってもいなかった。

『いい子のフリするのも楽しかったよ』

こんな時はこうするのが一番いいんだ、こういう時は逆に……と楽しそうに教えてくれていた。隼人はそれを聞きながら『高校っていい子のフリをしないと絶対入れない場所なの?』と本気で不思議がっていたものだから、違う違う、と二人でその可愛らしい誤解を解いた。

特に問題がなければ、茜はこのまま面接だけで付属大学へ進学する予定だ。

隼人も小学生の頃から続けている剣道で、ここら辺の学校であれば特待のスポーツ枠を狙っても合格できるほどだった。それだけの成果を試合で残しているし、学力だって申し分無い。本当は都会にある日本で剣道が一番強い高校へ行きたそうにしていると彼女から聞いたが……叶えてやれなさそうだ。

それでも可愛い我が子達は、この環境でやさぐれる事もなく、本当に真っすぐ素直に育ってくれた。

やはりあの時彼女を外で呼吸するように促したのは、自らを下げに下げて土下座をしたのは、間違いではなかったのだと思う。

『お母さん、今日は早上がりだから夕方には帰ってくるよ』

『わかりました。それぐらいの時間にご飯食べられるようにしておきますね』

『おい、帰って来たら話しがある。帰ったらすぐわしの部屋に来い』

夫婦の会話にこの人はなぜこうも、刺々しく侵入してくるのだろう。

彼女と目線を合わせて『わかりました』とだけ返事をする。

俺は相変わらず二時間かけて出勤している。

あの頃と違うのは役職がついた事、そしてそれに伴って給料が上がった事だろうか。

その上がった金はもちろん楽園へも多少使うが、ほとんどは子ども達の学費の貯金へ。もしそこから残れば、家を出る為の資金の為に貯めている。

慣れとは恐ろしいもので、昔より義父の対応にも適応し、楽園に足を運ぶ事も減った。

それでも……もしかしたら、また何かしら理由を付けてゆすってくるのかもしれない。

だからその日、仕事をしながら思った。

きっと金額をつり上げるのか……彼女の給料すら献上しろとでも言うんだろうと。

義妹に金をやるぐらいなら、家族で旅行にでも行きたいものだ。

しかし現実は、さらに上を行く最悪な形で俺を脅して来た。

帰宅し、鞄を寝室へ置いてあの部屋へ向かう途中、心配そうな彼女とダイニングで鉢合わせる。

「……あなた」

「大丈夫、心配しなくていい。茜が帰って来たら、火の粉を浴びないようにだけ頼む」

「……はい」

珍しく彼女が抱きついてくる。

その柔らかな肌を抱きしめ、出来る限り不安を拭い取ってやろうと頭を撫でる。胸元で小さく「気をつけてください……」と呟いてくれた。それだけで俺がどれほど歓喜乱舞するか、彼女はまだわかっていないみたいだ。

二度背中をさすり「いってくるよ」と体を離す。

少しは不安を払拭出来ただろうか。

しかし今思えば、あれが彼女の中で『決意』になってしまったのだろう。

無論、俺にとっても『決意』になってしまったのは言うまでもない。

部屋の前で襖にノックをし、入室の許可を得て入る。

タバコの煙で部屋全体が白くモヤがかかっている。

肺が、脳が、ひっくり返りそうな程のキツい臭いの中「ご用件はなんでしょうか」とだけ何とか声を出せた。

「ほれ、机の上、見てみい」

義父はソファーでタバコの煙をこちらに吐き出し、顎でサイドテーブルを指した。

そこには義父の名前宛のA4封筒。そこには『調査結果報告書』とある。

調査結果。

まさか今になって隼人の本当の父親について調べているのだろうか。

いや、彼は何もされていないはずだ。この間見かけたときも元気そうだった。それとも……隼人に関する、彼女すら知らない何かを握ったのだろうか。

隼人は不良を働くような子じゃない。ダメだ、この封筒の中身の想像が全くつかない。

恐る恐るその封筒を手に取り、中の書類を引き抜く。

「お前もやっぱり出来損ないだったなぁ。いや出来損ないに失礼か? 猿か、原始人か? いやぁそれにも失礼だな」

ヒヒヒと笑っている義父の足下で、俺は凍り付く。

俺がした顧客リストだ……。

どこでバレたんだ……。

誰かが告げ口したとは考えにくい。

それにしっかり避妊している。

彼女達からもらった金がなければ俺の給料で、家族の何倍も飲み食いする大飯喰らいを養う事など出来やしない。

「ここまで身を削らないといけないなんて、やっぱ出来損ないの仲間は出来損ないだぁ。可哀想な家族だなぁお前達は」

「…………」

「えー、こちら現場です! 気持ちいい思いをして手にした金でガキ共に飯を食わすお父さんの感想を、どうぞ!」

「誰のせいだと思っているんですか」

リポーターのように茶化してくるその手を払いのけ、ここで屈したら完全に家族が食われるという事を本能的に理解した。食われてたまるか。来年は茜も隼人も大事な時期になるのに、この腐った男に全てを……あの子達の人生を壊されてたまるか。ここで食い止めなければ。どれだけ頭を下げようと、惨めになろうと構わない。彼女と、茜と、隼人。俺の大切な人を、大切な家族を殺されるわけにはいかない。

「おーおー、いっちょまえに文句言ってきやがる。わしが黙ってやっていてもいい。もちろん、ちょーっと色を乗せくれりゃぁいいんだから安いよなぁ?」

「…………」

タバコ臭いその顔を俺に近づけ、ヤニで黄ばんだその歯をむき出しにして言ってくる。

「二十五万だ。毎月、二十五万よこしやがれ。仕方ないからそれで手を打ってやろう」

「冗談じゃない……そんな額渡したら、生活出来やしませんよ」

「出来てるじゃないか。今お前達が飯を食えているのは誰のおかげだ? えぇ? わしが養ってやってるからだろう!」

「どの口がそんな事言うんですか! 俺から毎月十五万むしり取って、千円だけ投げつけて来て『誰のおかげか』ですって? よくそんな事が言えますね!」

「なんなら無しにしてやったっていいんだぞ!」

「それなら今まで支払った額を全額、それも一括で返していただきます。あのお金さえあれば、真紀さんと子供達だけで暮らせていたんですから!」

「あれはぜぇんぶ、真美ちゃんのお小遣いに消えたからなぁ。あってもお前達に渡すもんか。出来損ないなんだから、働いて、稼いで、黙って金払えばいいんだ!」

「…………けるな」

「あぁ?」

「ふざけるな!」

いけない。

俺の中の自制心が止めるのも無視して、義父の胸ぐらを掴む。

死んでしまえ、死んでしまえ、しんでしまえ、シンデシマエ!

「真紀さんに悲しい思いをさせて、茜をなじって、隼人の目を失明させて、まだ足りないんですか! どれだけ俺達家族を苦しめれば気が済むんだ!」

「へ、へへへ、楽しいに決まってんだろ」

「は……?」

「お前達がなぁ、あの女が、茜が、隼人が、お前が! 苦しむ姿が一番のわしの楽しみなんだよ。お前達がいい思いしている時、わしは何をしていた? お前らのガキの面倒をずっと見ていただろ。泣きわめいて漏らすようなガキの面倒をずっとみてきてやったんだ! 学校に入ってもお前達は授業参観も運動会も顔を出さんかったくせに、親ヅラして何様だ!」

「あなたが俺から金をむしらなければ、しなくて良かった仕事ですよ!」

「本当にそうか?」

義父は俺の胸ぐらを掴み、どこにそんな力があるのか俺をねじ伏せ笑っている。

のかぁ?」

「……!」

「ガキを放って浮気相手の所に行ってたんじゃないのか? あいつも、お前も、何が一番なんだろうなぁ?」

「…………」

「保育園のお迎えは全部わしだ。出来損ないが帰ってくるまで面倒までみてやった。運動会も授業参観もわしだ。お前達はその時何をしていた? あ?」

「仕事に……決まってるじゃないですか」

「へへ、さっきまでの威勢の良さはどこへやら。これに懲りたら今月から二十五万、わしに振り込め。ガキや近所に知られたくなかったらなぁ!」

畳に投げつけるように俺を解放して、義父はニヤニヤと笑っていた。

ふざけるな……。

運動会も、授業参観も、誰のせいでいけなかったと思っているんだ。

休日出勤の手当がなければ、ランドセルすら買えなかった事をこいつは知らない。あの日働かなければ大口の契約が白紙になっていた可能性がある事を、こいつは知らない。

したくもない女の相手をしなければ給料から月十五万円むしり取られて生活出来るわけもないと、こいつは知らない。

だめだ、もう話しにならない。

消さないと。彼女にも、茜にも、隼人にも知られない方法で。

何かしらの方法でこいつを消さないと、俺達は永遠に幸せになれない。

コロシテヤル。

でも今ではない。

「わかりました」と口だけの約束をする。

ご満悦な顔をしているが……あと少しだ、その顔が出来るのは。

せいぜいこの世の空気をたっぷり吸っておくがいい……。



部屋から出ると、彼女はダイニングで静かに待っていた。

驚いた。てっきり寝室か、夕飯作りで忙しそうにしていると思っていたから。

「大丈夫……でしたか?」

「大丈夫だよ。きみは気にしなくていい」

「……怒鳴り声が聞こえました」

「いつもの事じゃないか。自慢じゃないが、あの人と穏やかで建設的な話しが出来たためしがないよ」

「……ふふ」

「あ、笑ってくれたね」

「ごめんなさい、だって、想像がつかなくて」

「そりゃつかないさ。俺だって想像つかない」

「そうですね……。あ、そうだ、冷蔵庫のプリンアラモードは食べないでくださいね?」

「きみの大好物だからね。今でも好きなのかい?」

「もちろん。つわりで大変だった日に買ってきてくれたプリンアラモードにどれだけ助けられたか……。男の人にはわからないでしょうけど、あの時期に食べられる物はいくつ年をとっても忘れられないものなんです」

「そういうものなのか」

「そういうものなんです」

こういう生活が、もうすぐ来るからね。

きみをこの家で苦しませない日が。もう、じきにくる。

美しく微笑んでいる彼女の顎を指でひっかけ、唇を寄せる。

約束する、必ず幸せにすると。

この家から邪魔者を排除する事を。誓うよ。

しかし久しぶりにそんな甘い雰囲気を味わえたのもつかの間、俺はミスを犯した事に気がつく。

どうして肝心な、彼女にすら知られたくないものをあの場所に残してしまったんだ。大失態だ……。

寝室で持ち帰った書類仕事をしようと鞄を開けた瞬間に思い出すものだから、仕事の進みは最悪だった。三十分もあれば完了すると見込んで持ち帰ったものなのに、さっぱり指が動かない。

そこへ突然の地響き。

大きいな……。地震か?

いや、天井からぶら下がっている明かりの紐は揺れていない。時計をみる。茜が帰って来る時間をとっくに通り越し、部活終わりの隼人が帰ってくる時間も過ぎている。

それだけ集中していたのに、作業は三分の一も終わっていない。

「お母さん!」

「茜、来ちゃダメ!」

バネのように体が跳ねた。

俺の家族に何をしているんだ。

彼女か? 茜か? それとも隼人か?

助けなければ。守らなければ。ダイニングを駆け抜け、階段下にいる彼女と茜を通り抜ける。部屋を覗くと、そこには棚と本に押しつぶされるように横たわる義父がいた。

「お義父とうさん、お義父さん!」

なんてことだ。

これは……これは、俺の強すぎる思いを、天が聞き入れてくれたのだろうか。

こんな事あるのだろうか。あっていいのだろうか。

俺はなんて幸運なんだろう!

「う……」

振り返れば隼人がいた。

口元を抑えて真っ青になっている。

だめだ、こんなトラウマになるようなものを見せてはいけない。

「隼人、見ちゃダメだ、部屋に戻っていなさい。お母さん、救急車を!」

笑ってなかっただろうか。

ちゃんと、義父を心配している父親を演じられただろうか。

心配はつきない。そう、今も。

しっかり心臓が止まったかが、心配で心配でたまらない。

確認しようにも触れるのさえ躊躇ためらう。

「あなた……子供達は避難させました」

「ありがとう。これを、棚を、持ち上げよう」

「持ち上がるかしら……」

「……わからない」

「…………」

「…………」

彼女は俺の腕を掴んだ。

「博文さん……」

久しぶりに名前を呼ばれて、こんな状態なのに不覚にもときめいてしまう。

不謹慎と思えど、最愛の人の言葉はそれだけの力があった。

彼女の瞳はいつになく輝き、真剣に見つめてくる。

「お見合いの時に、わたしを幸せにするという言葉を……覚えていますか?」

「もちろん」

「今も……気持ちは……」

「変わるわけがない。あの時も、今も、これからも……真紀さんが一番です」

彼女の手を取り、その手の甲に口づける。

「もしこれが知れたら……。それでも、いいのか?」

「……わたし達は、家族ですから」

遠くから救急車のサイレンが聞こえる。

まるで、教会のベルのように。

これからの幸せを祝福するかのように……鳴り響いていた。

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