第12話 父 神崎博文
明日も早いのに、茜が寝静まったのを確認すると彼女は俺を問いつめてきた。
家に帰ってくる頻度が少なくなった事。
家計が目に見えて火の車になっている事。
義父が毎日、減給されたとか外で女を作ったと笑っている事。
真実を話して欲しいと言ってきた。
「浮気を……しているんですか?」
「してはいない」
「なら、どうして……」
美しい彼女が泣いている。泣かせてしまっている……。
他の女と酒を飲み性を吸われても、俺は彼女を愛している。
余力さえあれば子を求める気持ちはまだあるし、義父が小言や暴言を吐かない普通の人だったらうまくやっていけただろうにと思っていた。
いや事実そうだろう。
誰が好き好んで嫌みを言われる家に帰りたがる。
誰が喜んで暴言を吐かれに家に帰る。
俺は嫌だ。ましてや俺は彼女のように家族でもなければ、何でも無い、本当の赤の他人だ。赤の他人と屋根の下暮らす事すら多少なり苦痛は伴うというのに、今やその赤の他人が猿山の大将だ。
『わしには料理を一品多くしろ』
『わしは一番風呂以外認めない。茜すら最初にいれさせん』
『おい安月給、お前は一円でも多く稼いでもっとわしに貢献しろ。それしか能がないからなぁ!』
いい加減にしろ……。口を開けばいつも文句ばかり。
全て他人のせいにして、自分は悪くないと疑いもせずに「いかに他人が愚かなのか」を飯粒と唾を飛ばしながら延々と説いているような人だ。
「きみを愛しているのは変わっていない。でも……辛いんだ、この家が」
「…………」
「愛しているんだ、でも、毎日給料の事ばかり言われるじゃないか。この就職難な時期に仕事に就けるだけでもありがたいのに、安月給だ、俺の方が偉いんだと言われ続けて平気でなんていられない。きみと茜と……三人だけで、穏やかに、誰にも文句を言われない生活をしたいだけなんだ」
「でもだからって、女遊びをする理由にはならないです……!」
「じゃあどうしたらいいんだ!」
彼女の細い肩を掴み、こちらを向かせて俺は答えを求めた。
「俺は必死に働いている。毎日通勤に二時間かけて……毎日、毎日だぞ? 安月給なのは俺のせいじゃない。昇給だって簡単じゃないけれど、それでも他の企業よりタイミングはある。現に入社時期より一万円上がっただろう。少ないかもしれないけれど、ゼロじゃない。昇給をしたという実績があるじゃないか。働いて、家では文句を言われて……俺はどこで息をつけばいいんだ…………俺だって疲れをとりたいんだ」
「わたしだって……そうです…………」
「え……」
「わたしだって……わたしだってそうです! あなたは知らないでしょうけど、わたしだって日中散々な言われようです! 二人目も生めない役立たずだとか、あんな男しか捕まえられないダメな女だとか……。何度も、何度も……。最近は仕事を探しているんです……少しでも家計の足しにと思って……」
「……」
「でも否定されました。子供を生んだ女は家に入れって……。黙って飯を作って、子供をつくれって。それに言っていたんです。妹に……真美にお金を使うから、今後は援助のお金も少なくするって」
彼女も苦しんでいた。
女性としての尊厳を奪うような酷い言葉を毎日浴びせ続け、彼女が同居しようと相談してくれたあの日かすかに抱いていた「血の繋がりが無くても認めてもらえる」という希望すら打ち砕かれたと。
そして何より、義妹には湯水のように金を使う。
何に使うのかを聞いてみれば、大学にお布施をすると。
『素晴らしい人間には、素晴らしい教養をつけないと恥ずかしいだろ。真美ちゃんには名家のご令嬢が進学する大学がピッタリだ! ちと金はかかるがそれを何とかするのが親ってもんだろ』
酒を飲み上機嫌で話す自分の父に絶望し、もう家族として見れないと涙ながらに話してくれた。こんな田舎の次女が学力だけで入れるはずもない。
ならば、という事らしい。
『二人目も作れないうえに、安月給の男を捕まえたお前には一万円。いやそれでも多いな。五百円だってお前らには多すぎる』
せいぜい自分の不出来を恨め、と高笑いして自室へ戻ったらしい。
俺が帰らないばっかりに……。
「ごめん……」
「…………」
「でも……俺も限界だった。そこだけは理解して欲しい」
「はい……」
彼女は逃げ場が無い。
働く事すら拒否され、召使いのようにこき使われ……。
「真紀さん……あなたさえよければ、俺から提案があります」
「では、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけて」
よく晴れた、春風が気持ち良い土曜日。
茜は俺の腕の中で服の襟にしゃぶりついており、彼女はそれを見て微笑んでいた。あの日よりずっと顔色が良い。
今日から彼女は、久しぶりに外へ働きに出る。
あの日、俺は最悪とも最高ともとれる提案をした。
『お互い……外で癒されてくる、というのはどうだろう』
俺は彼女を愛しているし離婚するつもりは一切無い。
しかし家に帰るのだけは足が重い。給料も、悔しいが義父が言う通り安月給だ。楽園に何日も浸っている事も出来ずに帰らざるを得ない。
そして彼女も俺を愛しており、離婚するつもりは無いと言ってくれた。
だが彼女は外にすら逃げられない。癒しを求めようにも、茜の世話や義父のワガママに付き合っていればあの美しい人の心が死ぬ事になる。
だから提案した。そして俺は、義父に頭を下げた。
『俺の稼ぎが少ないばかりに、真紀さんが外に働かなければ生活できないという情けなさをどうかお許しください。このままでは「ひもじい家」や「みっともない」と皆が言われてしまいます!』
義父がこういった言葉に弱い事は心得ていた。
前の家に住んでいた時に彼女がポロリとこぼしてくれた愚痴で知り得たのだ。
世間体を何より恐れるくせに、わからぬなら何をしても良いという卑しさがあると。実際、制服で隠れる場所に何度も紫色の痣を作られたと話してくれた事がある。
『俺の稼ぎについてはどう言われようと構いません。でも、お
こうしてようやく、彼女に働く許可が降りた。
名目上は「家計を助けるため」。
だが彼女はこれから働くと同時に、癒してくれる誰かを物色しにいくのだ。
最愛の人が誰かに愛を囁き、キスをし、抱かれるのかと思うと気が狂いそうになる。しかし今突然給料が上がるわけでもなければ、転職活動出来るほど余力があるわけでもない。
実際有給を転職活動に当てた事もあったが、全てお祈りメールで終わってしまった。
彼女はいつまで俺を愛してくれるだろうかというざわつきと、どれだけ他の男に抱かれようと彼女は法律上では俺の妻なのだという優越感があった。
見合いの日俺に言ったように、同様の事を、俺も彼女に思っている。
浮気をし、そしてその相手と結婚したいと泣けど喚けど離婚するつもりは無い。生涯、彼女は俺の妻であり……茜の母なのだ。
「茜ちゃん……? そろそろパパのお洋服もぐもぐ、やめよっか?」
「うー」
「ほら、パパのお洋服さん、もぐもぐやめてって泣いちゃってるよ?」
「んーん!」
誰に似たのか、頑固だ。
茜はまた俺の服をもぐもぐと口に含み始め、鎖骨当たりを遠慮なく、でも可愛らしい力で叩いてくる。守れたのだろうか。俺は。家族を……。
不安は拭えない。それでも俺には、これ以外の打開案が見つけられなかった。
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