第7話 母 神崎真紀
高校の制服はさすがにボロボロの物が手に入らなかったらしい。
それでも「似合うようにしてあげる!」と妹に切られて結局ツギハギだらけの制服で通っていたわたしは、母からもらう少ない小遣いで恋愛漫画を買うのがささやかな楽しみだった。
周りの子は恋にバイトにと忙しそうにしている。
決してその輪の中に呼ばれる事は無く、ひっそりと教室の隅で恋愛漫画を読んでいる学生時代を送っていた。
少女漫画のようなロマンスを期待していたわけではないけれど、少しだけ、本当に少しだけれど『そんな出会いがあっても良いじゃないか』と思っていた。
幼なじみとの甘酸っぱい恋。
同級生と再会し、当時の恋心を思い出して再熱してしまう、燃えるような恋。
どれもドキドキしながらページをめくった。
そんな少しだけ夢見がちな少女ならば、結婚や恋愛に非現実的な要素をひとつまみしたところでバチは当たらないじゃないかと思っていた。
家で散々な目にあっているんだから。
むしろその非現実的な要素をひとつまみだけした出会いとロマンスで、わたしの今後の人生は幸せで豊かになり、父と妹に蔑まれているこの悲しみも帳消しになるのではないかとすら思っていた。そう信じていた。
高校卒業後の進路は、就職のみだった。
「女に学歴は必要ない」という理由だ。
呆れて外れそうになる顎を必死に支えていたのを覚えている。
今の時代、女に学歴は必要はないだなんてよく言えるなと。
ちらりと母を見やれば、その目は「ごめんね」とでも言いたそうだった。
勉学が出来ないわけではない。むしろ成績優秀な方だ。
推薦入試や特別進学をすれば学費を納めずとも進学できるほどだが「女は就職しろ」と成績表を一度も見ず、それ以外の道を全て断ち切った。
幸いにも新卒で印刷会社の事務員になり二年が経とうかという頃、珍しく上機嫌な父は私に着物を見せてきた。どうせまた妹のものだろうと思っていたが、わたしの物だと知りどういった風の吹き回しなのかを母に聞けば、見合いだと言われる。
「お相手は、うちの親会社の取引先だ」
まさかこの時代に、本人の意思関係無しに見合いで結婚するとだけは想像もしていなかった。母も母だ。我が子の幸せが親の勝手な都合、しかも政略結婚で決まるなど時代錯誤もいいところだと思わないのだろうか。
わたしの幸せはどうでもいいのだなと、乾いた笑いがでた。
大切になど微塵もされていなかったのだ、私は。
「おねーちゃんおめでとー」
プリーツまでしっかりとアイロンされた制服を着た妹が、煎餅を齧りながら言った。「優しそうな顔だね」という言葉すらかけられなくなった妹は、父にたっぷりと甘やかされ父と母が並んでちょうどぐらいの横幅にまで膨張していた。
「きれーな着物じゃん。若いうちに結婚っていいんじゃない? どーせ家事しか取り得ないんだしさ。もらってくれる人が居るだけありがたいと思わなきゃ」
そうね。それもそうだ。
こんなぶくぶく太った脂肪の塊より下に見られて給料のほとんどをむしり取られるぐらいなら、さっさと結婚して幸せな家庭を築いてもいいかもしれない。初めて妹の言葉を体内に取り入れたような気持ちで、母の手で着付けをしてもらう。わたしの意見など関係無い。その証拠に、一時間後には見合いをすると言われた。
「ごめんね……」
「いいよ。お父さんに暴力振るわれたら、わたしの家に逃げてきてね」
「ありがとう……本当に、本当に、ごめんね」
母は泣きそうになっている。
悲しい涙を流す母を見るのは、これで何度目だろう。いつか嬉し泣きをさせてあげられる日は来るのだろうかと、ぼんやり考えていた。
車に乗せられ、漫画の中でしか見た事がない
「神崎博文です」
スーツを着慣れている印象の彼は、緊張しているのか肩が上がっていた。
彼は知らないのかもしれない。これがわたしたちの意思など関係ない事を。
親同士酒を飲みながら談笑し、商談成立と言わんばかりに目の前に婚姻届が差し出される。
「ほらおまえ、記入しなさい」
婚姻届はそんな言われ方で記入するものなのだろうか。
ときめくようなデートも素敵なプロポーズもすっ飛ばされ、取り上げられ、知らぬ人との生活が始まるのに「はい、これからよろしくお願いします」と言えようものか。
馬鹿なんじゃないだろうか。
口に出して言えない分、心で踏みつぶし、蹴っ飛ばす。
彼は言われるままに記入し、あとはわたしが記入するだけだ。
証人は両家の父親の名前と印が、強めの圧で記されている。
「わたし、博文さんがいくら浮気しようと、お相手の方と結婚したいと泣きすがっても離婚なんてしませんから」
わたしなりの精一杯の抵抗だった。
わたしだって、生涯を共にする人ぐらい自分で選びたい。
いくら時代錯誤の父の元で暮らしているとて、これはわたしの人生だ。
浮気は男の甲斐性なんて言葉があるように、この人もあちこちよそに女をつくりはべらす可能性がある。ならばそんな欲を持った所で地獄をみるだけだと教えてやろう。わたしと結婚したが為に、周りの男の様に浮気一つもさせてもらえぬ可哀想な男になればいいんだ。
父がわたしの全てを勝手に決めるほどわたしは幼くもなければ、人生の舵すら差し出す愚か者でもない。これが破談になればわたしは父にしこたま殴られるだろう。妹はわたしをバカにし、笑い、茶をかけてくるかもしれない。
後の恐怖は未来のわたしに任せて、今は自分の人生を決める為の行動をした。
これはわたしの人生だ。
しかし彼は目を見開いて、怒るどころか頬を真っ赤にして言った。
「…………それは……わたくしを、その……そこまで想ってくださっていると認識して……よろしいのでしょうか」
何を言っているんだこの人は。
想っている? まさか。
わたしはあなたとの結婚生活なんて願い下げだというのに。
彼は立ち上がり両親に挟まれたわたしの後ろへ回ると、額を畳に押し付け言った。
「わたくしは真紀さんに一途であると、この身を全て真紀さんに捧げます。新居もすでに用意してありますし、仕事を辞めて専業主婦になっていただいても構いません。働き方は真紀さんのお好きにしていただいて構いません。真紀さんの全てをわたくしが支えます、いえ、支えさせてください。必ず幸せにします。ぜひ……ぜひ、どうか、わたくしと結婚してくださいませんか」
彼の両親は慌てて駆け寄り、何をしているんだと大慌て。
父も驚き、母は手で口元を抑えている。
「あんた、もうちょっと物の言い方を考えなさい。恥ずかしい……!」
彼の母はそう言うと「うちの愚息が申し訳ありません」と頭を下げてきた。
最初は必死なのだと思った。
あちらも父親に脅され、私と同じように破談になった時の仕打ちに怯えて頭を下げているのだろうと。
しかし頬を赤らめ、こうまでしているのを見ると脅されてなどいないのだろう。何が彼をそんな想いにさせているのかは分からないが、まるで恋愛漫画の様にわたしを、わたしとの結婚生活を渇望してくれている。
これは……夢なのだろうか。
見知らぬ男にここまで結婚を渇望される事が、この先あるだろうか。
彼の両親がいくら言っても頭を上げず、動こうとしない。
そこまで……わたしを求めてくれている。
「浮気したら、許しませんからね」
「もちろんです。真紀さん以外、考えられません」
「その言葉、ここにいる方全員が証人となりますがよろしいですか?」
「はい」
わたしは婚姻届に記入する。
やけに達筆な『神崎博文』の隣に、わたしの名前を。
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