第5話 母 神崎真紀



母が死に、父が死んだ。

親族が死ぬのはこれで二度目だが、不思議と悲しみも何もない。

もちろんあんな父だったからというのもある。

殺したい程に憎い父が、死んだのだ。

茜に体を売る様に何度も言い、隼人の視力を奪ったあの男がようやくこの世から消えたのだと。

あぁ、ようやく解放される。

それでもわたしたち家族は、見えない何かに縛られ続けている。

わたしは、父と血がつながっていない。

だからあの家で、父の血をひいている人間は一人もいない。

血の繋がりなんて無くともわたしは幸せだと、子供の頃は本気で思っていた。

まだあんな風ではない、無口ではあったけれど暴力をふるわない父と、たっぷりの愛を注いでくれた母といた時は。

妹が生まれてから全ては狂いだした。

血の繋がりを欲して、自分の血を恨んだ。

時の風化で消え去るのを待つだけだった記憶は、父が死んだあの日に、また血を恨む事になる。



思えば父は、母とわたしだけの生活に無愛想にズカズカと、土足で侵入してきたように思う。わたしは別に父親という存在が欲しかったわけではない。

借金を抱え、母を殴り浮気ばかりする人を『お父さん』と呼ばなければならなかった生活からようやく解放されたのに、また同じことが起きるかもしれないと子供ながらに警戒していた。それこそ子猫が毛を逆立てて体を大きく見せる様に。

新しいお父さんよ、と言われても何も言わなかった。

母の後ろに隠れて『新しいお父さん』を睨み続けた。

父も何も言わず、一緒に暮らし始めてすぐの頃は伝言ゲームのように母を通して会話をしていた。もしくはわたしがだんまりを決め込むかのどちらかだ。

わたしの本当のお父さんのイメージを完全に払拭できるまで、そう、本当に安全な人だと分かるまで話してやるもんかと決め込んでいた。

暴力を振るわない。

それが子供心に『この人は安全』と警戒が解けた後は、無視をしていたわたしを許してもらえる様、仲良くしようと頑張っていた。

完全に仲良くというのは最期まで難しかったが母を通さず話せる様になり、毎年父の日にプレゼントを渡した。誕生日プレゼントも要望した物をくれた。

大丈夫、わたしは愛されている。

本当のお父さんと、この人は違うんだ。

血のつながりなんかなくたって、わたしは、わたしたちは、こんなに幸せなんだと胸を張って言いたかった。声を大きくして、ご近所に言って回りたかった。

「真紀ちゃん、お姉ちゃんになるんだねぇ。良かったねぇ」

ある日夕飯のコロッケを買いに惣菜屋に行けば、おじさんは嬉しそうに私にそう言った。顔見知りには大体言われたこの言葉は、わたしの中ではいまいちピンときていなかった。

わたしが四歳になってすぐの事だ。

『お姉ちゃん』になる。

母のお腹に赤ちゃんがいる。

当時のわたしは『妊婦さん』という存在を『お腹が大きくなっている女性』だけを指すものだと思っていたので、なおさら母のぺたんこのお腹と赤ちゃんとが結びつかなかった。

「お母さん、こんなにお腹がぺったんこなのに赤ちゃんがいるの?」

「いますよ。赤ちゃんはまだ小さいんだけど、お母さんが赤ちゃんの分もいっぱいご飯を食べると赤ちゃんが大きくなるの。どんどん大きくなって、秋と冬の間ぐらいには大きなお腹になってるのよ」

「不思議だね」

「そうね、不思議ね。でも真紀ちゃんもそうやって生まれてきたのよ」

「ふーん……やっぱり、よくわからないや」

「ふふ、いいのよ、お腹が大きくなったら赤ちゃんにお話ししてあげてね。もしかしたら、お姉ちゃんだってお返事してくれるかもしれないから」

「赤ちゃんなのにお話しできるの?」

「ううん。この声はお姉ちゃんだってお腹の中で動いてくれるかも、って事よ」

赤ちゃんは抱っこされてるのに、お腹の中では動けるのかと本気で思っているような子供だった。

父に聞いてみても、母の様に子どもに分かりやすく言うわけでもなく「腹の中にいるんだから、そりゃ動くだろ」と吐き捨てる。

「どういう事?」と聞いても、面倒くさそうに舌打ちをして新聞をたたみ、タバコを吸いだして答えてはくれなかった。何か聞いたらダメな事を聞いたのかと、肩を落としたのを今でも覚えている。父はいつも部屋の中でタバコを吸うものだから、母の前では吸わないでねとだけ言って部屋に戻った。

母が言った通り、秋と冬の間にお腹は一気に大きくなった。

ふっくらしているお腹は不思議で、触りたくて、話しかけたくなっていた。

その頃、わたしは母から離れたくないと言いっていたらしい。

父は「母親を取られると思ってるんだろう」と的外れな事を言っていたけれど、わたしはお母さんと赤ちゃんの為に一生懸命だった。

夕食の手伝いをして、おかずは母に一つ、もしくはそれ以上多く取り分けた程に。

「真紀ちゃんも、しっかり食べてほしいな」と言っていたけど「お母さんは給食がないんだから、いっぱい食べないと赤ちゃん大きくならないよ」と言って、コロッケを半分渡す。苦笑いしながらも母は言ってくれた。

「真紀ちゃんは、本当に優しいね」

それからしばらくして、父がお迎えに来てくれた保育園から帰ってきたわたしは、ダイニングでお腹を抑えてうずくまる母を見つけてうろえた。すぐに救急車が到着し、父とわたしは救急車に乗った。隊員が父に質問しても何も返さず、ついには父に聞く事を放棄してわたしが質問攻めとなる。

そして予定より数週間早く生まれた赤ちゃんは『真美』と名付けられた。

父が名付けた。

母乳をなかなか飲まないらしく、台所はいつも粉ミルクの缶が大きな顔をして占領していたのを良く覚えている。こんな物言いになってしまう程に、お腹から出てきてたった数日……いや数週間だったかもしれないが、その頃には「わたしは愛されている」という確信がち始めていた。

父はとにかく真美を愛でた。

早産だった事も関係あると今ならわかる。血の繋がった我が子が心配な気持ちは親なら誰もがもつ、ごく自然な感情だ。それでもその溺愛っぷりは異常だった。愛でる仕事は父に、それ以外の世話と家の全ては母に、という構図にわたしの目には映っていた。

産後間もない体で、時折お腹を抑えて辛そうな顔をする事も少なくなかった。

父はオムツひとつ替えた事がない。

それでもしっかり「オムツ替えろ!」と大声を出して、風呂掃除をしている、夕食を作っている母を呼び寄せ世話をさせていた。

憎かった。

母を家政婦の様にこき使う父が。

母をそんな風に扱う指示を出している様に見える妹が。

憎くてたまらなかった。

少しでも助けになればと、保育園から帰ればすぐに母の手伝いをした。

妹の世話を買って出た時は「子供に子供の世話をさせるな!」と母にキツく当たっていたのを見てしまい、わたしの仕事はもっぱら掃除と風呂洗いだった。

それでも月日は流れ妹が喋れる様になり「おねえたん」とついてくる様になると、わたしの中の母性なのか、それともこの小さな生き物を守らなければならないという年長者としての責任感なのか、憎しみよりも可愛さが勝つようになっていく。

今はもうない柿の木。

そこになった大きな柿を見て「みきゃん」と妹は指差す。

あれはミカンじゃなくて、柿だよと言っても「みきゃん」と言って笑っていた。まだ小さな妹には庭を少し歩くだけでも大冒険だったに違いない。

田んぼの先にある原っぱに群生しているシロツメグサで花冠を作った事もある。その花冠を持って家に帰り妹の頭に乗せてやると、艶やかな黒髪に真っ白でマシュマロみたいな肌、大きくてくりくりの目が本当に天使のようで可愛かった。可愛いよと言うと、抱きついて喜んでくれた。

よちよちとまだしっかり歩けない足で、歩き始める。

妹は何か嬉しい事があると、決まって母より先に父に見せに行っていた。

「こんな雑草で作ったモノ……。父さんがちゃんとしたの買ってやるからな」

家に帰ってきてからほんの少し前までせっせと費やした時間は、ゴミ箱に放り投げられた。

仲が良い姉妹の時間は、驚くほど早く終わった。

わたしの誕生日は忘れ去られ、中学に上がったわたしにはツギハギだらけの制服を渡された。

『裁縫の腕をつけたいから、こういう制服の方がいいってきかなくて。わたしはね、みっともないって止めたんですよ。でもどうしてもって言うもんだから仕方なく、ね』

わたしを心配してくれた同級生の親に薄ら寒い笑顔で対応していた父は、もはやカメレオンのようだ。あさましい父の姿に吐き気すらする。

そんな父を見てなのか、わたしを見てなのか、母は泣いていた。

それが嬉し泣きではない事を理解するには、十分な年齢だった。

「豚の子供には十分すぎるんじゃない? 似合ってるよ、おねぇちゃん。ねえお父さん、美人な真美には真美にぴったりな制服用意してね」

結婚しても言い寄ってくる男がいるほど美しい母からは真っ白い雪肌を、父からは顔つきを引き継いだ妹は、お世辞にも美人とは言いがたい。

「優しそうな顔だね」というなんとか捻り出したような世辞しかもらえた事しかないのに、どういうわけか、自分は美人だと疑いも無く育ってしまった。

「ねぇどうしてこんなのと結婚したの? もっといい人いたんじゃないの?」

それについては、何となく理由は想像がつく。

父は優しい男を装っていただけで、根っこは昭和からタイムスリップしてきたような、気に入らなければ力でねじ伏せるような人だ。

そのうえ家族より一品も二品も多く食べて体だけは大きくて、容姿はパッとしない。文句も人一倍多く、何かあればすぐに人のせいにする。

そんな男の貰い手なんていない。隠して、隠して、騙すしか方法がなかったんだろう。

母は騙されたのだ。あの男に。狂わされたのだ。二度目の人生を。

だからこそ決めていた。

結婚したら、その人とは幸せな家庭を築こうと。

もしその人に連れ子がいても、自分の子供と分け隔てなく育てようと。

エコヒイキなんて駄目だ。

血の繋がりなんてなくても幸せなんだと、心の底から思える家庭を作るのだ。

朝目覚めれば母が用意してくれた朝食が迎えてくれて、おはようと言ってくれる。手作りの弁当を持たせてくれる。中には好物をたっぷり詰め込まれている。帰宅すればおかえりと温かく迎えてくれて、栄養バランスのとれた夕食を食べて、のんびりお風呂に入り、あたたかく柔らかい布団で寝るのだ。

我が子には、あんな思いをさせてなるものか。

あの時道を踏みはずさなければ、今でもそれが実現できていたかもしれない。

わたしが断ち切れなかったばかりに。

血の繋がりがなくとも……と最後に希望を持ってしまったばかりに。

わたしの家族は、あの悪魔に食い尽くされたのだ。

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