1話① 立方体
「玲奈くん、もうそろそろ着くよ」
瞼を開けて葛城さんに目を向けると、こちらの様子を伺いながら運転をしていた。
景色がだいぶ変わっていることから、どうやら眠ってしまっていたようだ。
「すいません。寝ちゃいました」
「かまわないよ、寝不足なようだね」
姿勢を正し、少し上目遣いになる体勢で尋ねる。
「……寝顔、見ました?」
葛城さんは、悪戯っ子の様な微笑みを浮かべて口を開いた。
「残念ながら運転に集中していて見る暇がなかったね。ただ……涎は拭いたほうがいいよ」
「っ!」
バッと口元に手を当て、急いで鞄から手鏡を取り出し確認する。
「……ついてないじゃないですか!」
恥ずかしさに頬を紅潮させながら葛城さんを睨んだ。
舗装されていない山道に入り、車体が大きく揺れるようになってしばらくして、不意に視界がひらけた。
「着いたよ。ここだ」
葛城さんがエンジンを切ると、車内に満ちていた駆動音が消え、かわりに奇妙な静寂が耳を打った。
車のドアを開けて外に出た瞬間、ゾクリと肌が粟立った。六月だというのに、街中とは比べものにならないほど空気がひんやりしている。
周囲を見渡して、私は思わず息を呑んだ。
見渡す限り鬱蒼とした針葉樹林。木々が天を突くように何十メートルも聳え立っている。枝葉が幾重にも伸びて日光を遮り、薄暗く不気味な雰囲気になっていた。等間隔に並んだ黒々とした幹は、外界とこの場所を隔てる巨大な檻のようだった。
四方を針葉樹林に囲まれた平地の中央に、異様な威圧感を放つ建物――『空籠邸』が鎮座していた。
それはまるで巨大なコンクリートの立方体(キューブ)だった。
屋根の傾斜は無く、一般的な住宅のあたたかみなど微塵も感じない。装飾は一切そぎ落とされており、ただ一つ、正面の壁面を大きく切り裂くように巨大なガラス窓が縦に入り、鏡のように周りの木々を映し出している。
巨大で無機質な箱。『空籠』というこの建物の名前の由来が、肌寒さとともに分かった気がした。
(写真で見たときと印象が違う、、、)
「なんだか、見ているだけで息が詰まりそうな場所ですね」
私が両腕を擦りながら呟くと、トランクから荷物を降ろした葛城さんが、覇気のない目を細めて建物を見上げた。
「まさに空籠といったところだね。雲行きも怪しくなってきた、中へ入ろう」
圧倒されながら玄関へと近づくと、重厚な両開きの扉が内側からゆっくりと開いた。
中から顔をのぞかせたのは、初老の男だった。白髪交じりの髪をきれいに撫でつけ、皺の深い顔に温和そうな微笑みを浮かべている。
「九条不動産の葛城です。本日はよろしくお願いします」
葛城さんが、普段の支店では絶対に見せないような、愛想の良い完璧な『営業スタイル』のトーンで口を開いた。私は少しだけ驚いて横顔を見上げたが、初老の男は温和な表情を崩すことなく静かに頷いた。
「旦那様から伺っております。私は旦那様の使用人をしております、臼井(うすい)と申します。……そちらの方は?」
そう言って、臼井さんは私の方へと静かに目を向けた。
「葛城さんの助手として同行させていただいております、九条玲奈と言います」
私が頭を下げて名乗ると、臼井さんは少し思案げに私の顔を見つめた。
「九条様、ですか……。ということは?」
どうやら、私の苗字から何かに気づいたらしい。
「はい。九条不動産の社長の娘なんです」
私がそう答えると、臼井さんは僅かに目を丸くし、より一層丁寧な態勢で深く頭を下げた。
「そうでしたか。これは遠路はるばるご足労いただき、誠にありがとうございます。立ち話も何ですから、早速旦那様の所へご案内させていただきます。どうぞ、中へ」
促されるままに、葛城さんが先に中へ足を踏み入れ、私もその後へ続く。
玄関ホールに入った瞬間、外の冷たい空気とは違う、ひんやりとした無機質な空気が肌を撫でた。
外観の無機質なキューブ型からは想像もつかないような、特異で広大な空間が広がっていた。
一階の入り口から、二階の最奥にある扉の前まで、真っ直ぐに伸びる巨大な『吹き抜け』の空間。
見上げると、吹き抜けと同じ長さの巨大な天窓が広がっている。今は昼間なので日光が差し込み、この空間を明るく照らしているが、先ほどから空を覆い始めた鉛色の雲のせいで、どこか薄暗い影が落ち始めていた。
両側面には、二階の通路がまるでベランダのように張り出しており、それを下から支えるように、左右三本ずつ、等間隔にコンクリートの太い柱がそびえ立っている。片側三部屋ずつ扉が見える。見上げると二階部分にも同じように三部屋並んでいる。
壁はすべて、冷ややかなコンクリートの打ちっぱなしだ。床には血のように深い臙脂色(えんじいろ)の絨毯が敷き詰められており、私たちの足音を完全に吸い込んでしまう。
照明も極端だった。一階と二階の通路には、天井の埋め込み式の丸いライトと、足元の間接照明が等間隔に並んでいるだけ。そして広大な吹き抜けの中央には、空間の広さに対してどこか不釣り合いな、大きめのシャンデリアがぽつんと吊るされていた。
絵画も、壺も、観葉植物も、何一つの装飾品もない。
ただただ無機質で、空っぽ。まるで、現代に作られた巨大な遺跡か、あるいは巨大な墓標の中に迷い込んでしまったかのようだ。
「この吹き抜けの空間が居住スペースとなります。両側三部屋ずつ、二階にも三部屋ずつ、計十二部屋ございます」
前をゆっくりと歩く臼井さんが、建物を案内してくれている。
「綺麗にされているようですね。ここには住まわれているのですか?」
葛城さんが尋ねる。
「いえ、旦那様は此方には住まわれていません。時々私がこの建物を掃除に来ているんです。ご依頼書に書かれている通り、住むためにこちらを所有しているわけではありませんから」
足音の一切しない臙脂色の絨毯を踏みしめながら、私たちは最奥の壁へと向かって歩き出した。
吹き抜けの突き当たりには、入り口と同じような重厚なマホガニー材の扉が一つだけ嵌め込まれている。
臼井さんがその重い扉を押し開けると、そこは先ほどまでの広大な吹き抜け空間とは打って変わって、少し閉塞感のある階段ホールになっていた。
まず目の前に、二階へと続くコンクリート造りの無機質な階段が真っ直ぐに伸びている。
そしてその階段を挟み込むようにして、両サイドに一つずつ扉が配置されていた。
「右手の扉が食堂でございます。左手の扉は、お手洗いとシャワー室となっております」
臼井さんが、淡々と間取りを説明する。
「お手洗いとシャワー室は二階の同じ位置にもございます。また、右手の食堂の真上にあたる二階のお部屋は、書斎となっております」
(なるほど。吹き抜けの左右にあるのが個室で、この奥のエリアが生活用水と共有スペースの区画というわけか……)
私は頭の中で、この『空籠邸』の図面を広げていた。
無駄な装飾がなく、ただ用途に合わせて空間が切り分けられている。建築を学ぶ者として、そのあまりに機能的すぎるレイアウトには、かえって人間の温かみが欠如しているような薄気味悪さを覚えた。
階段を挟んだ左右の扉。二階への動線。
葛城さんもまた、私と同じようにこのホールの構造を鋭い目で観察し、記憶に焼き付けているようだった。
「皆様、すでにお集まりです。どうぞ」
案内を終えた臼井さんが、右手にある『食堂』の扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
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