第一章 赤道の泥
昭南を経由した飛行機は、雲の切れ間から南方の海を見せた。
陳星舟は窓に額を近づけた。
台湾を出てから、彼は何度も地図を思い浮かべていた。基隆、琉球、昭南、ジャカルタ。教科書の中では、点と線だけで結ばれていた地名である。だが、実際に空から見る海は、地図よりずっと広く、そして不安になるほど静かだった。
雲の下に、島々が浮かんでいた。
緑の島。
白い波。
浅瀬の青。
油を撒いたように光る港。
雨雲の影。
遠く、積乱雲が山のように立っている。
星舟は、そのどれにも名前をつけられなかった。
上海では、街に名前がありすぎた。路地ごとに記憶があり、角ごとに噂があり、建物ごとに誰かの失敗や死や商売が貼りついていた。台湾では、山と港と学校が彼の新しい生活を形作った。
だが南方の空から見える島々は、まだ彼にとって何者でもなかった。
だからこそ、恐ろしかった。
そして、少しだけ美しかった。
隣の席には、本國から来たらしい青年が座っていた。白い開襟シャツに薄い上着を羽織り、手元には革表紙の本を持っている。髪は綺麗に撫でつけられ、荷物も星舟のものよりずっと上等だった。搭乗時から、彼はほとんど星舟に関心を示さなかったが、ジャカルタが近づく頃になって、ふいに口を開いた。
「君も赤道大か」
星舟は少し遅れて、自分に向けられた言葉だと気づいた。
「はい。赤道宇宙開発大学です」
「そんなに正式に言わなくていい。赤道大で通じる」
青年は本を閉じた。
「本國から?」
「台湾からです。生まれは上海ですが」
青年の眉が一瞬だけ動いた。
「上海」
「はい」
「それで宇宙か。随分遠くまで来たな」
星舟は窓の外を見た。
「遠い方が、見えるものもあるかと思って」
青年は少し笑った。
「詩人みたいなことを言う」
「数学志望です」
「なお悪い。数学屋が詩人だと、たいてい面倒だ」
星舟は返事に困った。
青年は自分から名乗った。
「葛城修一。東京本國から来た。家は大したことない。下級華族の端っこだ。君は?」
「陳星舟です」
「星の舟か。宇宙大向きの名前だな」
「よく言われます」
「言われ慣れている顔だ」
星舟は初めて少し笑った。
葛城修一は、その後もしばらく話しかけてきた。本國の予科を出て、宇宙航行管制を志望しているという。華族と言っても家は古く小さく、父は貴族院の議席も持たず、官庁の外郭団体に勤めているらしい。本人はそれを自嘲気味に語った。
「下級華族は便利だぞ。上からは華族扱いされず、下からは華族扱いされる」
「得ではないんですか」
「宴席の席次では得をする。奨学金の審査では損をする。恋愛では時々得をして、結婚ではだいたい損をする」
「複雑ですね」
「帝国はだいたい複雑だ。単純な制度なら、もっと早く壊れている」
星舟はその言葉に、少し驚いた。
葛城は窓の外へ目を向けたまま続けた。
「上海出身の台湾育ちが宇宙を目指す。東京の没落華族が赤道へ流れる。南方の学生が本國の技官を追い抜く。帝国はそういうことを許す程度には広い。だが、許したことを忘れさせない程度には狭い」
星舟は黙った。
この青年は軽そうに見えるが、軽いわけではない。
そう思った。
飛行機はジャカルタへ降りた。
熱が、機内に入ってきた。
台湾の暑さとは違った。もっと湿っていて、もっと近かった。空気そのものが皮膚に触れてくる。燃料の匂い、濡れた土の匂い、香辛料の匂い、人の汗、港から来る塩気。すべてが一度に押し寄せた。
空港の建物は新しかったが、まだ増築途中だった。壁の一部には足場が残り、通路の片側には資材が積まれている。掲示板には日本語、インドネシア語、マレー語、中国語、英語が並んでいた。
赤道開発は共栄の未来。
南方は終点にあらず、第二の起点なり。
海を結び、空を越え、星へ至る。
標語が多すぎた。
星舟はそれを見て、少しだけ上海を思い出した。上海にも標語は多かった。ただ、上海の標語は壁の古さに負けていた。ジャカルタの標語は、新しい壁の白さに支えられて、まだ本気で信じられているように見えた。
入国ではなく、圏内移動の審査を受けた。
それでも手続きは厳しかった。台湾準本國圏からの学生であり、上海出生であり、宇宙開発大学への入学者である。星舟の書類には赤い印がいくつも押された。
係官は彼の身分証を見た。
「陳星舟。上海出生、台湾居住、準本國教育課程修了。赤道宇宙開発大学、推進・航法基礎課程」
「はい」
「政治活動歴は」
「ありません」
「親族に現実反政府組織関係者は」
「把握していません」
「上海に残る親族は」
「母方の叔母が一人います。連絡は不定期です」
係官は表情を変えずに紙へ書いた。
「宇宙開発関連施設では、通信制限と移動制限がある。違反すれば退学のみならず、台湾居住資格にも影響する。理解しているか」
「はい」
「宇宙を夢見るのは自由だが、宇宙開発は自由業ではない」
星舟は一瞬だけ、返事が遅れた。
「理解しています」
係官は彼を通した。
出口で、葛城が待っていた。
「時間がかかったな」
「上海出生だと質問が多いようです」
「そりゃそうだ。上海は疑うには便利な街だからな」
「便利?」
「何か起きたら、とりあえず上海のせいにできる」
星舟は笑えなかった。
葛城は肩をすくめた。
「怒るな。私が言ったんじゃない。世間がそう思っているというだけだ」
「世間は便利ですね」
「そうだ。世間は責任を取らないからな」
二人は大学から来た迎えのバスに乗った。
バスの中には、すでに学生たちがいた。
本國から来た者。台湾から来た者。朝鮮系らしい者。満洲から来た大柄な青年。ジャワ人の学生。スマトラ出身だという少女。マレー系の少年。華僑系の双子。南方の現地語で笑い合う学生たち。彼らは皆、同じ制服に似た薄い作業服を着ていたが、靴、鞄、腕時計、髪型、言葉に違いが出ていた。
帝国は制服を着せるのが好きだ。
だが、人間は制服の外にも内にも、出自を漏らす。
星舟は窓側の席に座った。葛城は隣に座るなり眠り始めた。器用な男だと思った。
バスは空港を出て、ジャカルタの街を抜けた。
街は膨張していた。
古い市場。
日本式の役所。
インドネシア風の家屋。
建設中の高架道路。
軍用トラック。
自転車の群れ。
南方開発公社の看板。
映画館。
屋台。
制服の学生。
白いヘルメットの技師たち。
熱帯の木々。
工事現場の赤土。
東京でも上海でも台北でもない都市だった。
星舟は、それをどの言葉で理解すればいいのか分からなかった。
バスは港へ向かった。
赤道宇宙開発大学の本部はジャカルタにあるが、推進・航法基礎課程の学生はそこからさらにスラウェシ方面の臨海校地へ送られる。そこには実験棟、管制訓練施設、海上回収訓練場、そして将来の赤道射場と結ばれる予定の研究都市があった。
予定。
その言葉は、南方ではやたらと多く使われた。
予定される発射台。
予定される海上幹線。
予定される人工島。
予定される宇宙港。
予定される宿舎。
予定される高速連絡線。
予定される未来。
星舟たちは、予定の上に作られた大学へ向かった。
船に乗り換えた時、夕暮れが近かった。
港の水は濁っていたが、空は赤く燃えていた。クレーンが影になり、遠くに工業地帯の煙突が立っている。海面には油が光り、波が船体を叩いた。
葛城が目を覚ました。
「まだ着いてないのか」
「今から船です」
「宇宙開発大学に行くのに船か」
「宇宙港も港だと、父が言っていました」
葛城は少し笑った。
「君の父上は正しい。帝国では、どこへ行くにもまず書類か港を通る」
船は夜の海へ出た。
学生たちはしばらく甲板ではしゃいでいたが、やがて湿気と疲労に負けて船室へ戻った。星舟だけがしばらく外に残った。
南方の夜空には、星が多かった。
上海では見えなかった星。台湾でも街明かりに負けていた星。それが今、黒い海の上に散っていた。
彼は手すりを握った。
宇宙は、まだ遠かった。
だが、空は近くなった気がした。
背後で声がした。
「落ちるなよ」
振り返ると、ジャワ人らしい青年が立っていた。肌は褐色で、目が明るい。日本語は流暢だが、少し南方の抑揚があった。
「泳げるか?」
「一応」
「この海で泳げるのと、学校の水泳で泳げるのは別だ」
「君は泳げる?」
「ここで泳げないと、子供の頃に笑われる」
青年は隣に立った。
「スリヤ・ハルトノ。ジャワ出身。構造工学志望」
「陳星舟。台湾から。推進と航法です」
「上海生まれの?」
星舟は少し身構えた。
スリヤは笑った。
「名簿に書いてあった。珍しいから覚えた」
「珍しいですか」
「ここでは何でも珍しい。本國の華族も、満洲の巨人も、台湾の電子屋も、上海から宇宙へ逃げてきた奴も」
「逃げてきたわけではありません」
スリヤは星舟を見た。
「なら、追いかけてきた?」
星舟は答えられなかった。
スリヤは海を見た。
「俺は追いかけてきた。子供の頃、うちの村に南方開発公社の測量隊が来た。地面に杭を打って、ここに道路が来る、ここに学校が来る、ここに工場が来ると言った。大人たちは半分信じて、半分笑った。でも五年後、本当に道路が来た。十年後、俺はここにいる」
「帝国を信じているんですか」
スリヤは肩をすくめた。
「道路は信じる。奨学金も信じる。帝国は……大きすぎて、俺にはまだ分からない」
星舟はその言い方が気に入った。
大きすぎて分からない。
それは、おそらく正直な言葉だった。
翌朝、船はスラウェシの港へ着いた。
そこからさらに軍用に近い小型機で内陸側の臨海校地へ移動した。途中、窓の外には緑の山、赤い土、曲がりくねった川、工事中の道路、ところどころに現れる鉄塔が見えた。人工的なものと自然のものが、まだ互いに慣れていないように混じっていた。
赤道宇宙開発大学は、想像していたよりずっと粗末だった。
門だけは立派だった。
白いコンクリートの門柱に、金属の文字で校名が掲げられている。
大東亜共栄圏立 赤道宇宙開発大学
その下に、日本語、インドネシア語、中国語、英語で校訓が刻まれていた。
地を知り、海を越え、星を測る。
しかし門をくぐると、そこには泥があった。
舗装されていない道。
半分だけ完成した宿舎。
屋根にブルーシートをかけた実験棟。
赤土に沈みかけた資材車。
仮設食堂。
遠くで唸る発電機。
雨上がりの水たまり。
汗だくの作業員。
軍服と作業服の中間のような服を着た教官。
星舟は呆然と立った。
葛城が隣で言った。
「宇宙港というより、開拓村だな」
スリヤは笑った。
「何もないなら作れる、だろ?」
星舟はカラー版『アマテラス』の台詞を思い出した。
ここにはまだ何もない。
でも、何もないなら、作れる。
目の前の泥と蚊と未完成の校舎を見ながら、星舟は初めてその台詞の本当の意味を理解した気がした。
夢とは、完成した硝子の塔ではない。
泥の上に置かれた最初の杭のことだ。
入学式は、予定されていた講堂が雨漏りしたため、格納庫で行われた。
格納庫には小型ロケットの模型、古い液体燃料エンジン、管制卓の訓練機材、使い古されたパラシュート、海上回収用のカプセル模型が並んでいた。壁には大きな旗が掲げられている。
天皇の御真影はなかった。
その代わり、宮中から下賜されたという「宇宙開発勅励文」の複製が飾られていた。宇宙開発は東亜諸邦の知を結び、天の運行を測り、地上の民生を豊かにするべきものである、という文面だった。
星舟はそれを見て、少し安心した。
御真影の前で宇宙を語るよりは、紙の文章の方がまだ息がしやすかった。
式辞を述べた学長は、痩せた老人だった。
名を南雲宗一郎といった。元は本國の航空工学者で、戦後は満洲でロケット研究に関わり、後に南方へ送られた人物だという。顔色は悪く、声も大きくはなかった。だが、最初の一言で格納庫の空気を変えた。
「諸君。ここは大学ではない」
学生たちがざわめいた。
南雲は続けた。
「少なくとも、諸君が思い描いているような大学ではない。伝統はない。設備は足りない。予算は足りない。教官も足りない。宿舎の屋根は昨日も漏れた。食堂の米は時々ひどい。発電機は湿気に弱い。蛇も出る。蚊も出る。書類は本國から遅れて届き、届いた時には内容が変わっている」
葛城が小声で言った。
「名演説だな。入学辞退者が出そうだ」
南雲は、まるでそれを聞いたかのように、薄く笑った。
「だが、諸君。完成された場所に入りたい者は、本國の名門へ行けばよい。ここに来た者は、完成されていない場所を作るために来たのだ」
格納庫が静かになった。
「宇宙開発は、夢ではない。夢で始まることはあっても、夢のままでは一キログラムの荷物も軌道へ上がらない。必要なのは数式、材料、燃料、汗、失敗、報告書、予算、政治、そして死人を出さないための臆病さである」
星舟は顔を上げた。
死人を出さないための臆病さ。
その言葉は、彼の胸に残った。
「勇敢な者は多い。だが、勇敢なだけの者は宇宙開発に向かない。宇宙船は英雄を好まない。宇宙船が好むのは、臆病な確認を何度でも繰り返せる者だ」
南雲はゆっくりと学生たちを見渡した。
「諸君の中から、本当に宇宙へ行く者は少ない。管制卓に座る者、燃料弁を設計する者、海上で帰還カプセルを拾う者、帳簿を合わせる者、失敗報告を書く者の方がずっと多い。だが、それらすべてが宇宙開発である。宇宙へ行く者だけが宇宙開発者なのではない」
星舟は、自分の手荷物の底にある古い切り抜きを思い出した。
宇宙船に乗る人。
その夢が、少しだけ形を変えた。
宇宙船を飛ばす人。
宇宙船を帰す人。
宇宙船を落とさない人。
それらもまた、宇宙に関わる人間なのだ。
入学式の後、学生たちは宿舎へ案内された。
部屋は四人部屋だった。
星舟の同室は、葛城修一、スリヤ・ハルトノ、そして満洲出身の青年、李鉄生だった。
李鉄生は背が高く、肩幅が広く、無口だった。荷物の中に分厚い材料工学の本と、干し肉の袋を持っていた。自己紹介では「満洲国奉天、構造材料」とだけ言った。
葛城が言った。
「もう少し人間味のある情報はないのか」
李鉄生は考えたあと、袋を差し出した。
「食うか」
葛城は一瞬黙り、それから笑った。
「君は良い奴だ」
四人の生活は、最初から騒がしかった。
葛城は口が悪いが面倒見がよかった。時間割や校内規則をすぐに把握し、教官の癖を読むのが得意だった。スリヤは現地語と日本語と少しの中国語を混ぜて誰とでも話した。李鉄生は言葉少なだが、重い荷物を持つ時と機械を押す時には必ず最初に立ち上がった。
星舟は、彼らの間で少しずつ息をし始めた。
授業は厳しかった。
朝は五時半に起床。
基礎体力訓練。
語学。
数学。
物理。
材料学。
推進基礎。
航法概論。
安全規程。
午後は実験補助か施設整備。
夜は自習。
大学というより、軍学校と工業高専と開拓団を混ぜたような場所だった。
教官たちも個性的だった。
軌道力学を教える小柄な台湾人女性、王美蘭は、授業中に一度も声を荒げなかったが、学生の計算ミスを見つけると、柔らかい声で「この軌道では君の宇宙船は海ではなく山に帰ります」と言った。学生たちは彼女を恐れた。
推進工学の教官、黒田慎吾は元軍の技術士官で、片足を引きずっていた。実験前には必ず「燃料は友人ではない」と言った。彼は燃料を愛していたが、決して信用しなかった。
宇宙医学の講師は朝鮮系の医師で、学生たちに嘔吐袋を持たせて回転椅子訓練を行った。葛城は最初の訓練で見事に吐き、スリヤに一週間からかわれた。
星舟は数学と軌道力学では上位だった。
だが、体力訓練と現地環境には苦しんだ。
暑さ。湿気。蚊。食事。突然の豪雨。乾かない服。濡れた紙。錆びる工具。夜に鳴く虫。遠くで聞こえる祈りの声。台北の生活に慣れ始めていた彼にとって、赤道の空気は暴力的だった。
ある夜、彼は高熱を出した。
宿舎の天井が歪んで見えた。汗が止まらず、耳の奥で発電機の音が鳴っていた。目を閉じると、上海の雨と台湾の港と、白黒アニメのロケットが混ざった。
誰かが額に濡れた布を置いた。
母かと思った。
目を開けると、スリヤだった。
「死ぬなよ、上海」
「その呼び方やめて」
「じゃあ星舟」
「それでいい」
スリヤは笑った。
「医務室の先生が、ただの熱だと言っていた。南方に歓迎されてる」
「歓迎が乱暴すぎる」
「南方はだいたいそうだ」
葛城が部屋の隅から言った。
「君が倒れると、ノートを借りられなくて困る」
「心配してると言えばいいのに」
「それは死にそうになったら言う」
李鉄生は干し肉を置いていった。
「食え。体に効く」
「熱の時に?」
「満洲では効く」
「ここは赤道だよ」
李鉄生は少し考えた。
「では、水も飲め」
星舟は笑い、咳き込んだ。
数日後、彼は回復した。
その間に、三人が彼の授業ノートを取り、課題を代わりに写し、教官へ事情を説明してくれていたことを知った。
星舟は礼を言った。
葛城は手を振った。
「借りを作らせておいた方が便利だからな」
スリヤは笑った。
「宇宙船は一人で飛ばない」
李鉄生は干し肉を食べていた。
「病人は重い。次は自分で歩け」
星舟は、その夜、初めてこの場所を少しだけ自分の居場所だと思った。
一九七七年、大学の近くに小型実験ロケットの発射場が完成した。
発射場と言っても、立派なものではない。海に面した平地に、発射台、観測塔、避難壕、管制車両、燃料保管庫が並んだだけの施設だった。だが学生たちにとっては、それは神殿に等しかった。
最初の学生補助参加実験の日、星舟たちは夜明け前から集合させられた。
空はまだ暗く、海風は湿っていた。遠くで波が鳴っている。発射台には細い観測ロケットが立っていた。白と黒の塗装。胴体には、大学名と共栄圏宇宙開発準備庁の印が描かれている。
星舟の担当は遠隔測定補助だった。
管制室ではなく、仮設の計測車両の中でデータ確認を行う。華々しい仕事ではない。だが、初めて本物のロケットに関わる仕事だった。
黒田教官が全員を見回した。
「いいか。今日は成功を見に来たのではない。手順を守る訓練に来た。成功は結果だ。手順は義務だ」
誰も笑わなかった。
燃料注入。
気象確認。
安全区域確認。
通信確認。
姿勢系確認。
追跡班確認。
海上回収班確認。
星舟はチェックリストを見ながら、自分の声が震えないように注意した。
「遠隔測定補助、受信確認」
王美蘭教官の声が通信機から返ってきた。
「数値を読んで」
星舟は読み上げた。
「主電源安定。温度二十三度。圧力正常。信号強度、基準内」
「基準内、ではなく数値で」
「はい。信号強度、八十七」
「よろしい」
その短いやり取りだけで、彼の背中には汗が流れた。
発射三分前。
葛城は管制訓練席で補助をしていた。スリヤは構造班の補助として発射台近くの退避壕にいる。李鉄生は燃料保管区域で機材搬送をしていた。四人は別々の場所にいた。
だが、同じ一本のロケットを見ていた。
発射十秒前。
管制官の声が響く。
九。
八。
七。
六。
五。
四。
三。
二。
一。
点火。
ロケットは、一瞬ためらうように震えた。
次の瞬間、白い煙と炎が地面を叩き、細い機体が空へ上がった。
星舟は息を止めた。
ロケットはまっすぐ昇った。
初めの数秒だけは。
その後、わずかに姿勢が揺れた。計測値が跳ねる。管制室の声が鋭くなる。
「姿勢角、逸脱」
「追跡継続」
「信号低下」
星舟は数値を追った。心臓が喉の奥まで上がってくる。
「高度二千三百。速度上昇。信号七十二、六十九、六十一」
「補正入らず」
「安全範囲内か」
「まだ範囲内」
ロケットは煙の線を歪ませながら上がり、やがて白い点になった。
そして、予定高度の手前で信号が途切れた。
管制室が静かになった。
数秒後、海の向こうで小さな光が弾けた。
失敗だった。
誰も声を上げなかった。
黒田教官が通信機を取った。
「全班、手順通り。破片落下区域確認。回収班、予定区域へ。計測班、データ保存。学生は勝手に落胆するな。落胆は報告書を書いてからにしろ」
星舟は、呆然とモニターを見ていた。
初めて見た本物のロケットは、空へ行かなかった。
海へ落ちた。
その日の夜、学生たちは食堂で静かだった。
葛城が言った。
「見事に落ちたな」
スリヤが睨んだ。
「言い方」
「では、詩的に言おう。重力が勝った」
李鉄生が干し肉を噛みながら言った。
「次は勝つ」
星舟は食器を見つめていた。
スリヤが彼を見る。
「おい、星舟。お前が一番落ち込んでる顔だ」
「落ちたから」
「ロケットは落ちることもある」
「知ってる」
「知ってる顔じゃない」
星舟はしばらく黙っていた。
「アニメだと、失敗しても次の回には直ってた」
葛城が笑った。
「それは脚本家が優秀だからだ」
星舟は小さく首を振った。
「現実は、失敗が残るんだな」
李鉄生が言った。
「だから材料を調べる」
スリヤが言った。
「だから構造を直す」
葛城が言った。
「だから管制が嘘をつかないようにする」
星舟は少しだけ顔を上げた。
「だから、データを読む」
その夜、彼は遅くまで報告書を書いた。
失敗の原因はまだ分からない。だが、信号低下、姿勢角の逸脱、推力変動、風、構造振動、複数の可能性を書き出した。王美蘭教官に提出すると、翌朝、赤字がびっしり入って戻ってきた。
最後に一文だけ、別の色で書かれていた。
失敗を物語にするな。失敗はまず数値にせよ。
星舟はその紙を、長く机の前に貼った。
一九七八年、二度目の学生補助実験で、観測ロケットは予定高度に達した。
回収カプセルは海へ落ち、多少破損したが、データは取れた。成功と言ってよかった。
その日、発射場では小さな歓声が上がった。
黒田教官だけが渋い顔をしていた。
「成功に見える失敗もある。浮かれるな」
だが、彼もその日の夕食では酒を飲んだ。
星舟は発射場の外れで、夕暮れの空を見ていた。
スリヤがやってきた。
「また一人で空か」
「癖になってる」
「今日は上海見えたか」
「まだ宇宙じゃない」
「細かいな」
星舟は笑った。
スリヤは隣に座った。
「俺は今日、初めて思った。宇宙は本当に商売になるかもしれない」
「夢じゃなくて?」
「夢だけで飯は食えない。道路も橋も、最初は夢みたいなことを言う奴がいる。でも最後は通行料と維持費の話になる」
「父さんみたいなことを言う」
「お前の父さんに会ったことないけど、気が合いそうだ」
二人はしばらく黙っていた。
遠くで、回収班のトラックが戻ってくる音がした。
スリヤが言った。
「星舟。お前は本当に宇宙船に乗りたいのか」
「うん」
「管制や設計じゃなくて?」
「それも大事だと思う。でも、乗りたい」
「怖くないのか」
星舟は考えた。
「怖い」
「なら、なぜ」
「上から上海を見る約束をした」
スリヤは彼を見た。
「それだけ?」
「最初はそれだけだった」
「今は?」
星舟は空を見た。
「地上にいると、みんな自分の場所からしか世界を見ない。上海の人は上海から、台湾の人は台湾から、本國の人は本國から、南方の人は南方から。それが悪いとは思わない。でも、上から見たら、少しだけ違うかもしれない」
「宇宙へ行けば、人間は賢くなると思うか」
星舟は即答しなかった。
アニメの主人公なら、きっと「なる」と言っただろう。
だが、今の彼は答えられなかった。
「分からない」
「正直だな」
「ただ、地上にいるまま賢くならないなら、一度くらい上から見てもいい」
スリヤは笑った。
「お前は変な奴だ」
「よく言われる」
「誰に?」
「数学の先生に」
「その先生は正しい」
一九七九年、星舟は正式に推進・航法複合課程へ進んだ。
赤道宇宙開発大学は、少しずつ形になりつつあった。宿舎の屋根はまだ時々漏れたが、主要道路は舗装され、管制訓練棟が完成し、海上回収訓練場には新しい船が配備された。食堂の米も少しましになった。少なくとも、学生たちはそう言っていた。
大学には新しい学生も増えた。
本國から。台湾から。朝鮮から。満洲から。南方各地から。華北自治圏から。中には、かつて欧州で学んだ技術者の子弟もいた。言葉はさらに混ざり、食堂の味もさらに混ざり、喧嘩も増えた。
ある日、本國出身の学生が、南方出身の学生を「開発地のくせに」とからかった。
殴り合いになった。
星舟は止めようとして、頬を殴られた。彼は喧嘩が強くなかったので、あっさり倒れた。李鉄生が二人をまとめて持ち上げ、スリヤが片方の胸倉を掴み、葛城が教官を呼びに走った。
後で、葛城は星舟に言った。
「君は仲裁に向いていないな」
「自分でも分かった」
「なぜ間に入った」
「止めた方がいいと思った」
「それで殴られるなら、止め方を覚えた方がいい」
「次からそうする」
葛城は彼の腫れた頬を見た。
「君は変に勇敢だな」
「勇敢じゃないよ。喧嘩の前に、計算する時間がなかっただけ」
葛城はしばらく彼を見て、それから笑った。
「なるほど。君はやはり危険だ」
「なぜ」
「計算する時間がある時は、もっと面倒なことをする顔をしている」
星舟は否定しようとしたが、できなかった。
その事件の後、大学では身分や出身をめぐる討論会が開かれた。形式上は学生自治活動であり、実際には文化審査院と大学当局が管理するガス抜きだった。
星舟は発言するつもりがなかった。
だが、スリヤに押し出された。
「お前、上海と台湾と赤道を渡ってきただろ。何か言え」
「そういう理由で人を前に出すな」
「俺は地元代表で話した。次は移民代表だ」
「いつから代表になった」
「今」
壇上に立った星舟は、しばらく黙った。
視線が集まる。
彼は人前で話すのが得意ではなかった。技術発表ならできる。数値があり、資料があり、結論があるからだ。だが、人間の話には結論がない。
それでも、彼は口を開いた。
「僕は上海で生まれ、台湾で育ち、今ここにいます。だから、どこに属しているのかと聞かれると、時々困ります」
静かになった。
「上海では、所属が命を決めることがありました。台湾では、所属が進路を決めることがありました。ここでは、所属が食堂の席や冗談の種類を決めることがあります」
小さな笑いが起きた。
「でも、ロケットは所属を見ません。計算が間違っていれば落ちる。材料が悪ければ壊れる。手順を飛ばせば燃える。そこには平等があります。ただし、とても冷たい平等です」
王美蘭教官が後ろで腕を組んで聞いていた。
「僕は、その冷たい平等が嫌いではありません。人間の平等は難しい。でも、機械の前でだけでも嘘を減らせるなら、そこから始めてもいいと思います」
誰も拍手しなかった。
しばらく沈黙があり、それからスリヤが大きく手を叩いた。李鉄生もゆっくり拍手した。葛城は笑いながら拍手した。やがて、会場の半分ほどが拍手した。
残りの半分は、考え込んでいた。
討論会の後、南雲学長が星舟を呼んだ。
学長室は、書類と模型と湿気で満ちていた。壁には古い飛行機の写真と、ドイツ語の技術書が並んでいる。窓の外では、また雨が降り始めていた。
「陳星舟」
「はい」
「君は人前で話すのが苦手だな」
「はい」
「だが、苦手な者の言葉の方が、時々信用できる」
星舟は返答に困った。
南雲は椅子に座ったまま、彼を見た。
「宇宙船に乗りたいそうだな」
星舟は一瞬、息を止めた。
「はい」
「誰から聞いたか、という顔をするな。そういうことは教官の間で回る」
「不利になりますか」
「有利にも不利にもなる。志望者は多い。適性者は少ない。宇宙へ行きたい者の大半は、宇宙へ行かせない方がよい」
「僕もですか」
「まだ分からん」
南雲は机の上の書類をめくった。
「数学は良い。語学も良い。手順順守も良い。体力は並。高温環境適応は当初悪かったが改善傾向。閉鎖環境適性は未評価。政治的背景はやや注意。上海出生、台湾移民」
星舟は黙って聞いた。
「君は地上から逃げたいのか」
それは、突然の問いだった。
星舟はすぐに答えられなかった。
南雲は急かさなかった。
雨の音がした。
やがて星舟は言った。
「最初は、そうだったと思います」
「今は?」
「逃げるだけなら、宇宙へ行っても帰ってこられません」
南雲の目が少し細くなった。
「では、なぜ行きたい」
「上から見てみたいんです。自分がいた場所を。逃げた場所を。これから戻る場所を」
「戻るつもりがあるのか」
「宇宙船は戻らないと失敗です」
南雲は初めて、はっきりと笑った。
「よろしい。覚えておけ。宇宙開発で最も大事なのは、行くことではない。帰ることだ」
「はい」
「もう一つ。宇宙へ行った者は、しばしば自分が偉くなったと錯覚する。地球を見下ろしたからだ。だが、地球を上から見ても、地上の責任が軽くなるわけではない」
「はい」
「君が本当に宇宙へ行くかどうかは分からん。だが、行く可能性のある学生として、今後観察対象に入れる」
星舟は礼をした。
部屋を出ようとした時、南雲が言った。
「陳」
「はい」
「古いアニメは、まだ見ているか」
星舟は振り返った。
「時々」
「私も一度だけ見た。ロケットの描写はひどかった」
「そうですね」
「だが、悪くなかった」
南雲は窓の外の雨を見た。
「人間は時々、間違った絵に励まされて、正しい機械を作る」
星舟は、その言葉を胸に刻んだ。
一九八〇年、星舟は大学三年生になった。
赤道の泥にも、湿気にも、騒がしい食堂にも、夜の虫の声にも慣れた。最初は仮設だらけだった校地には、新しい管制棟が建ち、海上回収訓練用の桟橋が延び、遠くの丘には追跡レーダーが回り始めていた。
海上列島改造論は、あちこちで破綻と成功を同時に生んでいた。
新聞には、工費膨張、贈収賄疑惑、人工島沈下、台風被害の記事が載る。一方で、新しい港ができ、学校ができ、病院ができ、工場ができ、学生の奨学金が増えた。
星舟の周りにも、その矛盾はあった。
スリヤの故郷には道路と電力が来た。だが土地を失った親族もいた。
葛城の家は海上幹線関連の小さな利権で少し持ち直した。彼はそれを嫌そうに笑った。
李鉄生の父の工場は、南方向け構造材で大きな契約を得た。だが満洲では軍需偏重への不満も高まっていた。
帝国は、誰かに道を与えながら、誰かの土地を削った。
その構造を、星舟は少しずつ理解していった。
そして、自分もその道を歩いていることを知っていた。
ある夜、彼は宿舎の机で、許凱からもらった古い切り抜きを取り出した。
白黒の少年が、未完成のロケットの前に立っている。
紙は黄ばみ、折り目は今にも裂けそうだった。
葛城が後ろから覗いた。
「それ、例のアニメか」
「うん」
「大事にしてるな」
「上海の友達にもらった」
「まだ連絡しているのか」
「していない。できない」
「探したいと思うか」
星舟は紙を見つめた。
「思う。でも、探したら見つからない気がする」
葛城は何も言わなかった。
スリヤがベッドから顔を出した。
「お前が宇宙へ行ったら、本当に上海を見るのか」
「見る」
「見えたらどうする」
星舟は答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
上海が見えたら、どうするのか。
許凱に報告するのか。
父に話すのか。
母に手紙を書くのか。
それとも、自分が逃げた街がまだあることを確認して、安心するのか。
分からなかった。
李鉄生が寝返りを打ち、低い声で言った。
「見ればいい。見た後で考えろ」
葛城が笑った。
「満洲式哲学は簡潔だな」
星舟も笑った。
その夜、赤道の雨が降った。
屋根はもう漏れなかった。
だが、雨音は強かった。
星舟はベッドの中で目を閉じた。
上海の雨。
台湾の港。
赤道の泥。
白黒のロケット。
落ちた観測機。
成功した二号機。
南雲の声。
父の手。
母の言葉。
許凱の紙片。
それらが、彼の中で一本の細い線になりつつあった。
まだ彼は知らなかった。
その線が、やがて本國の官庁へ続き、貴族の邸宅へ続き、秘密の軍事計画へ続き、監獄の石壁へ続き、そして再び上海へ戻ることを。
その時の彼は、ただ赤道の学生だった。
まだ宇宙へ行ったこともない。
まだ帝国を信じ切ることも、疑い切ることもできない。
まだ、自分がどの国の人間なのかさえ、うまく答えられない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
彼は、地上から逃げるためだけに宇宙へ行きたいのではなくなっていた。
行って、見て、そして帰る。
そのために、彼は数式を書き続けた。
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