赤道の星、上海の雨
@rzsuisei
第一部 まだ存在しない宇宙港
序章 雨の街の少年
陳星舟が最初に覚えている空は、青ではなかった。
雨に濡れた灰色の空だった。
上海の空は、いつも何かを隠しているように低かった。黄浦江の水面には煤と油と雨が混じり、船の汽笛は霧の中でくぐもって聞こえた。租界時代から残る石造建築、壁に古い銃痕を残した倉庫、半分だけ営業している劇場、国民政府系の旗を掲げる役所、日本語と中国語の二重表記が残る通商事務所、夜になると闇市に変わる路地。
星舟にとっての上海は、最初から世界の中心ではなかった。
世界の裂け目だった。
一九五八年、彼はその街で生まれた。
父の陳景雲は、上海港湾通信局に勤める技術者だった。正式には上海商業自治政府の職員である。だがその実態は、いくつもの権力の間で港の通信網を止めないための綱渡りだった。
上海には、ひとつの主人がいなかった。
国民政府系の役人がいた。
共産派の地下組織がいた。
華北自治圏と取引する商人がいた。
大東亜共栄圏の通商代表がいた。
米英系の保険会社がまだ古い看板を掲げていた。
どの国にも属さない密輸業者が、どの国の者よりも確かな顔で港を歩いていた。
父はそれらすべてに頭を下げた。ある時は無線塔の修理のために。ある時は輸送記録の改竄を断るために。ある時は断れなかった改竄を、別の記録でこっそり補うために。
「港は嘘でできている」
父は酒を飲むと、たまにそう言った。
「だが、船は嘘だけでは着かん」
母の林秋蓮は学校で歴史と語学を教えていた。日本語、上海語、標準中国語、少しの英語を話せた。彼女は言葉を大切にしたが、言葉を信じすぎてはいなかった。
「言葉は橋よ」
母は星舟にそう言ったことがある。
「でも橋は、時々軍隊も渡してしまう」
幼い星舟には、その意味がよく分からなかった。
ただ、母が教科書とは別に、鍵のかかる引き出しの中へ本をしまっていることは知っていた。古い歴史書、薄い政治評論、誰かの回想録、詩集、そして時々、宇宙開発の記事が載った雑誌。
父はそれを見つけると、深いため息をついた。
「秋蓮、子供の前ではやめろ」
「歴史を読ませない方が危ないわ」
「この街で危ないのは、歴史を知っている者だ」
二人はよくそう言い合った。
喧嘩というほどではない。けれど、そのたびに食卓の空気は少し重くなった。星舟は箸を持ったまま、母の横顔と父の指先を交互に見た。父の指先はいつも黒く汚れていた。機械油の色だった。
陳家の住まいは、租界時代の古い集合住宅の三階にあった。窓枠は歪み、雨の日には壁に水が滲んだ。階段には複数の家族の靴が並び、二階の老夫婦は昔フランス人の料理人の下で働いていたと言い、四階の若い男は時々夜中に消えた。誰も理由を聞かなかった。
上海では、他人の不在を数えすぎる者は長生きしない。
それでも、星舟の幼年は不幸だけでできていたわけではない。
母は日曜になると彼を図書館へ連れて行った。父は港の機械室へ連れて行ってくれた。巨大な通信機、発電機、錆びた配電盤、白い文字が刻まれた黒い計器。星舟はそれらを見るのが好きだった。
機械は人間と違って、嘘をつかないように見えた。壊れることはあっても、昨日の友人を今日の敵にしたり、昨日の旗を今日の旗で塗り潰したりしない。
ある日、港湾通信局の機械室で、星舟は父にそう言った。
「機械は正直だね」
父は工具を持ち上げたまま、彼を見た。
「正直?」
「だって、間違えたらちゃんと止まる」
父はしばらく黙っていた。やがて低く笑った。
「違うな。機械は正直なんじゃない。作った人間の嘘を忘れないだけだ」
「嘘?」
「安く作れば安く壊れる。雑に組めば雑に狂う。必要な部品を抜けば、いつか必ず止まる。機械は嘘をつかないんじゃない。人間の嘘をそのまま覚えているんだ」
星舟はその言葉を、すぐには理解できなかった。
だが、その言葉は長く彼の中に残った。
後年、彼は何度もそれを思い出すことになる。赤道の訓練施設で。宇宙船の中で。本國の官庁の廊下で。貴族院の応接室で。そして、天槍計画の最初の機密資料を読んだ夜にも。
だが、その頃の彼は、ただの少年だった。
彼の世界は、上海の路地と学校と港湾通信局、そして土曜夕方のテレビでできていた。
そのテレビが、彼に星を見せた。
番組の題名は『星海少年アマテラス』と言った。
最初に星舟が見た時、それはまだ白黒の科学冒険アニメだった。大東亜共栄圏文化院と宇宙開発準備庁が協賛して作った、子供向けの番組である。紙芝居のように動きがぎこちない回もあり、ロケットの煙は時々綿のように見えた。人物の影は濃く、宇宙服の線も単純だった。
だが、星舟にはそれが宝石のように見えた。
物語の舞台は、少し未来の地球だった。
まだ完成していない赤道射場。
まだ建設計画だけの軌道ステーション。
まだ図面の中にしかない宇宙船。
そこへ集められた少年少女たちが、失敗ばかりしながら、地球周回軌道を目指す。
作中の赤道宇宙港は、現実には存在していなかった。
大人たちは笑った。
「予算取りの夢物語だ」
「また文化院が子供を釣っている」
「南方を未来の中心にするなど、本國の連中が本気で許すものか」
父も初めはそう言った。
だが、星舟は笑わなかった。
画面の中の宇宙は、上海の灰色の空と違っていた。
そこには国境線がなかった。
黄浦江のように濁った水もなかった。
密告を恐れて声を落とす大人もいなかった。
同じ教室にいながら家の所属で席を分けられる子供たちもいなかった。
黒い宇宙があった。
白い星があった。
小さなロケットが、地上の醜さを振り切るように、震えながら空へ昇っていった。
アニメの主人公は、毎回のように言った。
「地上でどんな身分でも、宇宙ではみんな同じ重さになるんだ」
母はその台詞を聞くたび、少し寂しそうに笑った。
父は一度だけ、低い声で言った。
「宇宙にも帳簿はあるさ」
星舟は聞こえないふりをした。
その日から、彼は宇宙に取り憑かれた。
学校の作文で将来の夢を書けと言われると、迷わず「宇宙船に乗る人」と書いた。教師は赤ペンで「宇宙飛行士」と直した。だが、星舟はその言葉があまり好きではなかった。
飛ぶだけなら鳥でも飛ぶ。
彼がなりたいのは、空を飛ぶ人間ではなく、地上から離れる人間だった。
宇宙船に乗る人。
その方が、ずっと正確に思えた。
上海の学校では、子供にも影があった。
誰の父が国民政府に近いか。
誰の叔父が共産地下組織に入ったか。
誰の家が華北自治圏との商売で潤っているか。
誰の兄が大東亜共栄圏の商社で働いているか。
誰の祖父が旧租界時代に欧州人の家で働いていたか。
大人たちは、子供に政治を語るなと言った。だが、政治は子供の弁当箱の中身にまで滲んでいた。
星舟は成績が良かった。
特に数学と歴史が得意だった。歴史が得意なのは母の影響だった。数学が得意なのは父の影響だった。年号を覚えるのも、数式を解くのも、彼には似た作業に思えた。
どちらも、人間が作った混沌に形を与える行為だった。
ただし、彼にはひとつ癖があった。
教師が英雄を語ると、必ず敗者の側を気にした。
「先生、どうしてこの人は勝ったんですか」
「優れた指導者だったからです」
「相手が失敗したからではないんですか」
教室が静まった。
教師はしばらく星舟を見たあと、咳払いをした。
「それもあります。ですが、授業ではまず大きな流れを覚えましょう」
星舟は頷いた。
だが、「大きな流れ」という言葉が好きではなかった。
大きな流れの中では、人はよく溺れる。溺れた者の名前は、たいてい教科書には出てこない。
彼はそういうことを、まだ言葉にはできなかった。だが感じてはいた。
一九六六年、上海で大きな騒動が起きた。
星舟は八歳だった。
市内のある学校で、国民政府系の教師が共産派の学生たちに吊るし上げられた。別の地区では、華北自治圏との取引をしていた商人が襲われた。港では労働者のストライキが起き、通信局には軍の車両が入った。
新聞はそれぞれ別のことを書いた。
国民政府系の新聞は「赤色暴徒の破壊」と呼んだ。
地下で回るビラは「人民の怒り」と呼んだ。
共栄圏系の商報は「治安不安」と呼んだ。
同じ事件に三つの名前があることを、星舟はその時初めて知った。
父は三日間帰ってこなかった。
母は夜、窓に厚い布をかけ、星舟に声を出すなと言った。外では叫び声が聞こえた。靴音、笛、誰かが走る音。階下の家で何かが割れ、女の人が泣いた。
星舟は布団の中で、目を開けたまま天井を見ていた。
宇宙では音がしない、とアニメで言っていた。
真空だから。
そのことを思い出しながら、彼は思った。
音がしない場所へ行きたい。
朝になると、父が帰ってきた。顔に煤がつき、片方の袖が破れていた。母は何も聞かなかった。ただ湯を沸かし、父の手を洗った。
父は食卓に座ると、しばらく黙っていた。
それから言った。
「この街は、子供を育てる場所じゃなくなってきた」
母は箸を置いた。
「台湾?」
父は頷かなかった。
だが否定もしなかった。
台湾。
その名前を聞いた時、星舟の胸は小さく跳ねた。
台湾は、彼にとって地図の中の島であり、共栄圏系放送の中継局であり、日本語の教科書に出てくる準本國圏だった。学校では、台湾は大東亜共栄圏の南方連絡の要であり、電子工業と教育の進んだ島だと教えられていた。街には台湾製のラジオや菓子が流れてきた。包装は上海のものより明るかった。
「台湾へ行けば、宇宙に近くなる?」
星舟が聞くと、父と母は同時に彼を見た。
母は笑った。
父は深くため息をついた。
「近くはならん。宇宙に近い場所など、地上にはない」
「でも、赤道の射場は南方に作るかもしれないって」
「まだ作るかもしれない、だ。作ったわけじゃない」
「台湾からなら、上海より行きやすい?」
父は困ったように眉を寄せた。
「距離の問題じゃない」
「じゃあ何の問題?」
父は答えなかった。
母が代わりに言った。
「行ける道があるかどうかよ」
その夜から、両親は小声で話すことが増えた。
台湾への移民は簡単ではなかった。上海から台湾へ移るには、身元審査、職能証明、保証人、移住許可、財産申告が必要だった。父の通信技術者としての資格は役に立った。母の語学教師としての経歴も悪くなかった。
だが、上海出身の中国人家族が準本國圏である台湾へ入るには、政治的な疑いがつきまとう。
父は何度も書類を書き直した。
母は古い友人に手紙を書いた。
星舟はその間、学校へ通い続けた。
彼はまだ、自分が去ることを友人に言えなかった。
友人の一人に、許凱という少年がいた。父が港の荷役組合に関わっており、家にはいつも人の出入りがあった。許凱は喧嘩が強く、勉強は苦手だったが、星舟の宇宙の話を馬鹿にしなかった。
「宇宙へ行ったら、上海見えるかな」
「見えるよ。雲がなければ」
「じゃあ俺の家も見えるか」
「それは無理だと思う」
「何だよ。役に立たねえな、宇宙」
星舟は笑った。
許凱は笑わなかった。
「お前、台湾行くんだろ」
星舟は言葉に詰まった。
「誰から聞いたの」
「大人は隠してるつもりでも、子供の方がよく聞こえるんだよ」
二人は学校の裏手の壁に座っていた。壁の向こうには古い倉庫があり、さらにその向こうには港のクレーンが見えた。
「まだ決まってない」
「決まってる顔してる」
「どんな顔だよ」
「逃げる奴の顔」
星舟は腹が立った。
「逃げるんじゃない」
「じゃあ何だよ」
彼は答えられなかった。
許凱は足元の小石を蹴った。
「いいよ。逃げられる奴は逃げればいい。俺の親父が言ってた。沈む船で一番馬鹿なのは、逃げ道があるのに義理で残る奴だって」
「上海は沈む船なの?」
「知らねえ。でも、いつも水漏れしてる」
星舟は笑いそうになったが、笑えなかった。
その日、許凱は紙を一枚渡した。雑誌から切り抜いた『星海少年アマテラス』の絵だった。まだ白黒の絵で、宇宙服を着た少年が、未完成のロケットの前に立っている。
「持ってけ」
「いいの?」
「俺は宇宙なんか行かねえし」
「許凱」
「行ったらさ」
許凱は港の方を見た。
「上から見てくれよ。上海がまだあるかどうか」
星舟は紙を握りしめた。
「見るよ」
「約束な」
「ああ」
彼らは指切りをしなかった。子供っぽいと思ったからだ。
だが、星舟はその約束を忘れなかった。
一九七〇年、陳家の台湾移民許可が下りた。
星舟は十二歳だった。
出発の日、上海は雨だった。
母は荷物を少なくした。持って行けるものには限りがあった。衣類、書類、家族写真、父の工具、母の辞書、少しの本。星舟は自分の荷物の底に、許凱からもらった切り抜きを入れた。何度も折り目を直したが、紙はすでに少し破れていた。
駅へ向かう車の中で、父はずっと黙っていた。
母も黙っていた。
星舟は窓の外を見ていた。
雨に濡れた街が流れていく。路地の屋台、壁の標語、軍服の男、赤い傘、黒い水たまり、古い劇場の看板、港へ向かう荷車。すべてが見慣れているのに、その日だけは他人の記憶のように遠かった。
港で手続きを待っている時、父が低い声で言った。
「星舟」
「うん」
「台湾へ行ったら、お前はもっと勉強しろ」
「するよ」
「宇宙に行きたいなら、なおさらだ」
星舟は父を見上げた。
「父さん、反対じゃないの?」
父は少し驚いた顔をした。
「反対だと思っていたのか」
「だって、宇宙にも帳簿はあるって」
父は口元だけで笑った。
「ああ。あるだろうな」
「じゃあ」
「帳簿があるなら、帳簿を読める人間になれ。読めない者は、いつも誰かに値段を決められる」
星舟はその言葉をすぐには理解できなかった。
父は続けた。
「お前が宇宙へ行きたいなら、夢を見るだけじゃだめだ。機械を知れ。金を知れ。政治を知れ。人がなぜ嘘をつくのか知れ。そうすれば、少しは遠くへ行ける」
「父さんは宇宙に行きたかった?」
父は黄浦江の方を見た。
「俺は港で十分だ」
「本当に?」
「嘘だ」
母が横で小さく笑った。
父も笑った。
その笑顔を、星舟は生涯覚えていた。
船が出る時、上海の街は雨の向こうに滲んでいた。
星舟は甲板に立ち、濡れた手すりを握った。母は彼の肩に外套をかけた。父は少し離れたところで、港を見ていた。
汽笛が鳴った。
上海がゆっくり遠ざかった。
星舟は空を見上げた。
雲は厚く、星は見えなかった。
だが彼は、見えない星の存在を疑わなかった。
台湾へ着いた時、空は晴れていた。
基隆の港は上海と違って、明るかった。少なくとも、十二歳の星舟にはそう見えた。港湾施設は整い、日本語の表示が多く、制服を着た係官の動きは機械のように正確だった。検疫、身分確認、移民登録、臨時居住許可。すべてに番号があり、列があり、判子があった。
父は書類を抱え、母は緊張した顔で係官の質問に答えた。
係官は星舟を見た。
「名前」
「陳星舟」
「年齢」
「十二歳」
「使用言語」
「中国語。上海語。少し日本語」
「学校歴」
「上海市第五中等予備校、初等部修了」
係官は紙に何かを書いた。
「台湾では日本語教育課程への編入になる。努力しなさい」
「はい」
その「はい」は、星舟が初めて帝国の制度に向かって発した返事だった。
彼らは台北郊外の移民住宅へ入った。
そこは上海の家より清潔だった。狭いが、水道は安定していた。壁は白く、窓からは遠くに山が見えた。近所には上海、福州、広州、華北、さらには南方から来た家族もいた。台湾人の住民もいた。日本本國から来た官吏の家族は、少し離れた区画に住んでいた。
ここにも階層があった。
だが上海のように、誰がいつ消えるか分からない恐怖は薄かった。
星舟は新しい学校に入った。
最初の数ヶ月、彼はほとんど話さなかった。
言葉の問題もあった。日本語の授業は上海で受けていたが、台湾の学校で使われる日本語は速く、硬く、時に命令のように聞こえた。台湾語も聞き取れない。上海語はここでは役に立たない。標準中国語を話せば通じる相手もいたが、それだけでは距離が残った。
クラスには本國人官吏の子、台湾地元名家の子、移民の子、軍人の子がいた。教師は公平であろうとしたが、席順、呼び方、進路指導の言葉に、見えない線があった。
本國人の子は、星舟に悪意を向けたわけではない。
ただ、当然のように自分たちが中心だと思っていた。
台湾名家の子は、彼に少し同情的だった。
ただ、上海移民を見る目には、どこか「騒がしい大陸から逃げてきた者」への距離があった。
移民の子たちは互いに近づいたが、出身地ごとにまた小さく分かれた。
星舟はそのどこにも完全には入らなかった。
代わりに、図書室へ行った。
台湾の学校の図書室には、上海では見たことのない本があった。共栄圏宇宙開発白書の児童版。南方宇宙開発構想。赤道射場候補地予備調査。軌道利用と気象観測。帝国通信衛星計画の解説冊子。子供向けのものから、専門書に近いものまで、宇宙に関する資料が棚の一角を占めていた。
まだ、赤道宇宙港は存在していなかった。
存在していたのは、候補地と、予算案と、模型写真と、政治家の演説と、子供向け雑誌の未来図だけだった。
だが星舟には、それで十分だった。
彼は毎日のようにそれを読んだ。難しい漢字には鉛筆で読みを書いた。日本語の技術用語をノートに写した。推進剤、軌道傾斜角、再突入、姿勢制御、遠隔測定、赤道射場、静止軌道。言葉は呪文のようだった。理解できない部分も多かったが、それでも彼は読んだ。
宇宙は遠かった。
だが、上海にいた頃より、少しだけ道が見えた。
ある日、図書室で一人の教師に声をかけられた。
「君はいつも宇宙の棚にいるな」
星舟は顔を上げた。
教師は初老の男で、名札には「森川」とあった。数学教師だった。髪は白く、眼鏡の奥の目は眠そうに見えた。
「好きなので」
「アニメの影響か」
星舟は少し恥ずかしくなった。
「はい」
森川は笑わなかった。
「悪くない。アニメで星を見る者もいれば、軍の予算書で星を見る者もいる。入口は何でもいい」
「先生は宇宙が好きですか」
「私は地上で迷子にならない程度に数学が好きなだけだ」
そう言って、森川は星舟のノートを覗いた。
「軌道計算を写しているのか」
「まだ分かりません」
「分からないものを書き写すのは悪くない。ただし、いつまでも写すだけではだめだ」
森川は本棚から別の本を抜いた。
『解析幾何入門』
「これを先にやれ」
星舟は本を受け取った。
「宇宙に行くのに必要ですか」
「宇宙に行かなくても必要だ。宇宙に行くなら、なお必要だ」
それから森川は、週に一度だけ星舟に数学を教えるようになった。
授業ではなく、放課後の図書室での補習だった。森川は厳しかった。答えを教えず、すぐに「なぜそうなる」と聞いた。星舟が黙ると、黙ったまま待った。五分でも十分でも待った。怒られるよりつらかった。
ある日、星舟は言った。
「先生、僕は宇宙船に乗る人になりたいです」
「そうか」
「笑わないんですか」
「なぜ笑う」
「上海では、宇宙なんて選ばれた人間しか行けないと言われました」
森川は眼鏡を外し、布で拭いた。
「台湾でもそうだ。本國でもそうだ。インドネシアでもそうだ。宇宙へ行ける人間は少ない」
星舟は黙った。
森川は眼鏡をかけ直した。
「だが、少ないということは、ゼロではない」
その言葉は、上海で見えなかった星よりも明るかった。
一九七二年、田中角栄が首相となり、海上列島改造論をぶち上げた。
星舟は十四歳だった。
台湾の新聞は連日のようにその話題を載せた。日本本國を起点とする海上幹線。琉球、台湾、南方諸島を結ぶ連絡構想。インドネシア諸島をもう一つの起点とする南方開発。港湾、人工島、海底トンネル、長大橋、海上鉄道、そして赤道射場。
田中は演説で言った。
「南方は終点ではない。未来の起点である」
その言葉は、台湾の教室にも届いた。
教師たちは、田中を偉大な構想家として語った。新聞は彼を土木の魔術師、民衆の首相、海を線路にする男と呼んだ。父は新聞を読みながら、「帳簿を誰が払うかまでは書いていない」と呟いた。
だが星舟は、その演説の中に、自分の未来が開く音を聞いた。
海上列島改造論は、台湾の風景を少しずつ変え始めた。
港には新しい工事用クレーンが立った。学校には南方開発を紹介するポスターが貼られた。テレビでは『星海少年アマテラス』のカラー続編が始まった。白黒時代のぎこちなさは消え、赤道に建設される未来の宇宙港が、鮮やかな色で描かれるようになった。
それは、まだ現実ではなかった。
だが以前より、現実に近づいていた。
カラー版の最終回で、主人公たちは赤道射場の建設予定地に立つ。そこにはまだ管制塔も発射台もない。あるのは測量用の杭と、海と、未舗装の道だけだった。
少年は、ヘルメットを抱えて言う。
「ここにはまだ何もない。でも、何もないなら、作れる」
星舟はその台詞を聞いて、なぜか泣いた。
母は何も言わず、彼の隣に座っていた。
父は新聞を読んでいるふりをしていた。
番組が終わったあと、星舟はぽつりと言った。
「僕、インドネシアへ行きたい」
父は新聞を下ろした。
「宇宙大学か」
「うん」
「まだ大学と言っても、ほとんど新設の訓練機関だぞ。設備も人も足りん。名前だけ立派な場所かもしれん」
「でも、そこが一番近い」
「宇宙に?」
「うん」
父はしばらく黙った。
母が先に口を開いた。
「行ける道があるなら、歩いてみなさい」
それは、上海で聞いたのと同じ言葉だった。
星舟はその夜、机に向かい、自分の進路を紙に書いた。
台湾高等学校理数科。
赤道理工院、あるいは赤道宇宙開発大学。
推進工学。
軌道力学。
宇宙船運用。
宇宙船に乗る人。
最後の一行だけ、子供の頃と同じ言葉で書いた。
宇宙飛行士ではなく。
宇宙船に乗る人。
それからの数年間、彼は静かに勉強した。
狂ったように、ではない。
彼は狂うことが嫌いだった。熱狂する者ほど、歴史の中で他人を巻き込んで失敗する。母の本と上海の路地から、彼はそれを学んでいた。だから彼は、静かに勉強した。
毎日、同じ時間に起き、学校へ行き、図書室へ行き、森川の補習を受け、帰って食事をし、父に機械の話を聞き、母に歴史の本を借り、夜に数学を解いた。
彼の成績は上がった。
日本語も上達した。
ただし、優等生らしい優等生ではなかった。
教師の言うことに従うが、信じ切らない。
集団行事には参加するが、熱狂しない。
帝国の理念文を暗唱できるが、作文には必ず余計な一文を入れる。
たとえば、学校で「大東亜共栄圏の未来」という作文が出た時、彼はこう書いた。
共栄圏が本当に共栄であるなら、宇宙から見た時、どの島の灯も同じように大切に見えるはずである。
ただし、宇宙から見えることと、地上で同じ重さに扱われることは同じではない。
教師はその一文に赤線を引いた。
呼び出しは受けなかった。
ただ、森川が図書室でその作文を読み、少しだけ笑った。
「君は長生きしたいなら、余計なことを少し柔らかく書け」
「間違っていますか」
「間違っていないことと、今それを書くべきかどうかは別だ」
「先生は歴史の先生みたいなことを言いますね」
「数学でも同じだ。正しい式を、間違った場所に置けば、全体が壊れる」
星舟はその言葉をノートの端に書いた。
正しい式を、間違った場所に置けば、全体が壊れる。
それもまた、彼の人生に長く残る言葉になった。
一九七六年、陳星舟は台湾南部の高等学校を首席に近い成績で卒業した。
卒業式の日、校庭には強い日差しが降っていた。上海の雨とは違う、白く乾いた光だった。父は古い背広を着ていた。母は薄い青の上着を羽織っていた。森川も来ていた。彼は相変わらず眠そうな顔で、星舟に一冊の本を渡した。
『ローマ共和政衰亡史』
「先生、これは宇宙と関係ありますか」
「ある」
「どこがです」
「人間が組織を作り、組織が人間を裏切るところだ」
星舟は顔をしかめた。
「卒業祝いにしては暗くないですか」
「宇宙へ行くなら、暗い場所には慣れておけ」
森川はそう言って、初めて少しだけ真面目な顔をした。
「陳。覚えておけ。技術は人を遠くへ運ぶ。だが、どこへ運ぶかを決めるのは技術ではない」
星舟は本を抱えた。
「はい」
「返事が軽い」
「重く返事すればいいですか」
「君は口が減らなくなったな」
森川はため息をついた。
「まあいい。行ってこい」
父は、空港へ向かう前に星舟を港へ連れて行った。
台湾の港は、彼が最初に着いた時よりさらに大きくなっていた。海上幹線計画の看板が立ち、工事用クレーンが並び、遠くに新しい貨物埠頭が見えた。
海を線路に。
南方は終点ではない。
赤道から宇宙へ。
標語はどれも大きく、明るく、少し嘘くさかった。
だが、嘘くさい標語の下で、本当に人が働いていた。クレーンは動き、鉄骨は積まれ、測量技師は汗を拭い、若い作業員たちは泥のついた靴で弁当を食べていた。
「また港ですね」
星舟が言うと、父は頷いた。
「人間は、遠くへ行く時、たいてい港から始める」
「宇宙港も港ですか」
「名前だけはな」
「父さん」
「何だ」
「僕が宇宙へ行けたら、上海を見るよ」
父はしばらく黙っていた。
「まだ覚えていたのか」
「友達と約束した」
「そうか」
父は海を見ていた。
「上海は、上から見れば綺麗かもしれんな」
「地上では?」
「地上では、綺麗なものも汚いものも近すぎる」
星舟は何も言えなかった。
空港で、母は彼の襟を直した。
「体に気をつけて」
「うん」
「偉くならなくていいから、生きて帰ってきなさい」
「大学へ行くだけだよ」
母は笑わなかった。
「遠くへ行く子供には、何度でも言うものなの」
星舟は母を抱きしめた。
父は手を差し出した。星舟はその手を握った。機械油の匂いは、もうほとんどしなかった。父は台湾で通信機器工場の技術主任になり、昔より安定した生活を得ていた。けれど、その手の硬さは上海の頃と同じだった。
「帳簿を読め」
父は言った。
「はい」
「人の嘘を覚えておけ」
「はい」
「だが、嘘ばかり見るな」
星舟は父を見た。
父は少し照れたように目を逸らした。
「それでは宇宙まで行く意味がない」
搭乗案内が流れた。
行き先は昭南経由、ジャカルタ。
その先に、インドネシア諸島の新興都市と、赤道宇宙開発大学があった。まだ伝統も実績も浅く、校舎の一部は建設中で、教官は本國、台湾、満洲、南方、旧ドイツ系技術者の弟子筋まで寄せ集められているという。
完成された名門ではなかった。
だが、そこにはまだ何もない場所に何かを作ろうとする熱があった。
星舟は振り返った。
父と母が立っていた。森川は少し離れた場所で煙草を吸おうとして、空港職員に注意されていた。台湾の空は明るかった。硝子越しに見える滑走路の向こうで、銀色の機体が陽を反射していた。
彼は歩き出した。
上海の雨から、台湾の星へ。
台湾の星から、赤道の空へ。
まだ彼は知らなかった。
自分が憧れた宇宙が、やがて帝国の槍と呼ばれるものに繋がることを。
自分が学ぶ技術が、地上の争いを越えるどころか、地上を縛る鎖にもなりうることを。
自分が帝国から与えられる栄光が、いずれ帝国によって奪われることを。
そして、上海を上から見るという少年時代の約束が、彼の人生を最後まで追いかけてくることを。
その時の陳星舟は、ただ十八歳だった。
手荷物の底には、古い紙片が入っていた。
白黒の宇宙服を着た少年が、まだ存在しない赤道宇宙港の前で笑っている。
紙はもう黄ばんでいた。
それでも、星はまだ消えていなかった。
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