第三章 白蓮の鬼と月下の約束
第一話
最初の鬼は、かつて人であった。ただ一つ、人と決定的に違うものがあった。呪いを心から愛していた事だ。
人が憎しみ、争う姿こそが、最も正しい在り方だと信じていた。自らに呪いを掛けて、その跳ね返りは自らで受け止める。喉を掻きむしる苦しみが、甘く脳髄まで痺れる程の快楽となり、禍々しく歪んだ鬼へと自ら堕ちた。
鬼、といっても人と変わらない姿をしている。だが、呪いの象徴である漆黒で艶のある角が、二つ生えていた。
「……私の子供は、順調に育っているかい?」
猫を愛しそうに撫でるかのような、だが冷たい何かが含まれているような違和感が、肌をざわつかせる。しかし女は、夢見心地で低く魅惑的な声に、甘く心を痺れさせた。
うっとりとした表情で、瞳を濡らしている。
「蝶乱様、……人の肉をよく食べ、大きく育っております」
白蓮の甘さを含む爽やかな香りが、女の鼻腔を擽る。
貧しく、農民ですらない。姓もなく、泥水を啜り、人扱いされず生きていた女だ。
身寄りがない女は、味噌汁の具の足しにしかならない報酬で、男に抱かれていた。今は嬉々として呪いを孕ませた腹は、すでに人ならざる命を宿していた。美しい鬼・蝶乱が自分を利用していると知りながらも縋り、盲信していた。
「そうか、……それは喜ばしい事だ。お前は人間を妬み、己の不遇を恨み、呪いを愛している」
女を胸の中に抱き寄せると、蝶乱は耳元で甘く囁く。すると女は、軽く目を見開き、短く感嘆の声を上げた。
満足な食事が取れず、栄養が巡らない青白くこけた女の頬が、羞恥と悦びで桃色へと変わった。
ぴしゃり、ぴしゃり。身も凍るような不気味な水音がした。水溜まりを踏んでいる足音だ。しかし女にとっては、いつもの事だ。
獰猛な息子が人間を喰って、人里から家へと帰ってきたらしい。
(……誰もお前の帰りなど、待っていないのに)
女は腹を痛めて生んだ息子に対して、心の中で毒を吐いた。眉間に皺を寄せ、鋭く舌打ちをする。折角の蝶乱様との甘いひとときを邪魔するなど、と。
しかし、息子を拒絶する言葉を蝶乱の前で口に出してはいけないと、女は直感で分かっていた。
「……本当の鬼になるためには、この肉を喰え」
蝶乱は口元に笑みを湛えたまま、愛しい我が子に告げると、女の頭を無遠慮に鷲掴みにし、鬼の方へと投げた。
言葉を理解する間も、与えられない。
床へと叩きつけられ、痛みに視界が真っ赤になる。命の危険を感じ、恐ろしさで女は我に返った。
甘く酔った感覚が一気に冷め、死への恐怖や蝶乱へのおぞましさで、発狂したように叫んだ。
女の悲鳴を聞いて蝶乱は、口元にうっすらと笑みを滲ませる。
「最後の役目を果たす時が来た。さあ、存分に恨むがいい」
女の目の前が真っ赤に染まる。甘い時は一瞬に過ぎ去り、また用済みにされたのだと悟ると、女の目には涙が浮かんだ。
一度目は、両親に捨てられた時だった。山へと水を汲みに行った時、父の姿も母の姿もなかった。その時の絶望感を思い出すと、指先まで冷たくなった。
しかし、その涙が枯れ、心も潤いを失い、自分以外の人間を恨むようになった。愛をようやく手に入れた、と思った。それが錯覚だった。やはり、道具にしか過ぎなかったと悟った。
女は悲鳴を上げる気力がなかったが、息子は突然、癇癪を起こした。
「………ガァアア!!」
鬼は咆哮を上げると、生みの母である女を掴み、牙を立てた。そこで女の意識が途切れた。もう、戻ることはない。
人間の血肉を喰らい、母を喰らい、帰る場所である家を壊し、痩せこけた細い身体には肉があまりにも少なく、腹を満たさないもどかしさで目を血走らせ、飢えた声を上げた。
人間を恨んだ人間の肉は、呪力に満ちている。
それを言い換えるならば、栄養があった。
蝶乱は口元に笑みを滲ませた。心地よい光景だ。
目の前には、愛情というものがない。それが、愉快で堪らない。
蝶乱は、肩を震わせ笑った。
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