第八話
「ならば、俺がお前の首を討ち取る!」
緒が、己の無力を思い知り絶望で目の前が真っ暗になった時、蓮司の力強い雄叫びが、緒の絶望で途切れそうだった意識を繋ぎ止めた。
声の主を突き止める間を一瞬も与えず、蓮司は白蓮の鬼の首めがけて一太刀を叩き込んだ。態勢を立て直すと、蓮司が緒の前を庇うように立っていた。
意表を突かれた鬼は、集中力がぶつり、と断ち切られ、練り上げていた呪いがガラス細工が壊れる寸前のようにひび割れて弾ける。
胡蝶が、屋敷の離れに泊まっていた蓮司を、ここへと導いたのだった。
「……お前らなど、いつでも呪える」
鬼が胡蝶の姿を目で捉えた途端に、思い出したくない不快な苦しみが胸を蝕み、奥歯を噛み締める。鋭い舌打ちと共に言葉を吐き捨て、闇に溶けるように鬼は一瞬のうちに姿を消した。
「……お姉ちゃん!」
知慧が力なく床に伏している。前屈みになって腹部を抑え込み、苦痛で低く唸る。緒は守れなかった事実を目の当たりにした。
「まもれなくて、ごめんなさい……」
声が潰れ、うまく呼吸が出来ない。泣いても事実は変わらない。泣いている自分が情けない。だけど涙が止まらなかった。
そして、誓った。もう、二度と涙を流さない。
あの鬼を絶対に許さない。この身がどうなってもいい。愛しい者をこの手で守る、と心の中で誓った。嗚咽を奥歯を食い縛り、強く噛み殺すと、誰かの声が聞こえた。
『我の名を呼ぶことを許す。我の力をそなたに貸そう。我は汝を、主だと認める』
緒は迷わず式神を呼んだ。いや、焔一族なら知っていた、この声の主を。
そして心の中で誓った――この力で、守られるべき者を自らの手で救う、と。自分の魂はどうなっても構わない。
「鶯鵺、姉上に掛けられた呪いの痛みが、少しでも和らぐようにして差し上げろ」
それに蓮司は驚く。まだ、焔一族の誰もが式神を呼べるまで、その領域に達していないのに。
「……いと、駄目よ! だめ……あなたは、どうして?」
知慧は悲痛な叫びを上げた。制止するが、緒の意思は固い。
始まりの式神・鶯鵺の主となること――それは、焔家の家督を継ぐ者としての宿命を背負うことを意味する。
死が訪れた時、焔家の当主は避けられぬ運命として式神へと転じる。
そしてその運命が、今、緒は当主である証、『倫』の名前を継いで、魂に契約が深く結ばれたのだ。
鶯鵺は翼を広げて錫杖を鳴らした。しゃりん、と涼やかな鈴の音。淡く柔らかな光が知慧の身体を包み込む。
禍々しい呪いの匂いは、すっと薄れ、知慧の胸の奥まで清らかな空気が巡る。命の危険が、数ヶ月先へと遠ざかった。しかし、知慧の意識は薄れ、糸が切れてしまった。
『……この者を、かの湖に……そっと委ねれば、呪いは完全に解かれる』
鶯鵺が役目を終え、主の影へと身を潜めた。
無言のまま、蓮司は知慧を抱き上げる。自身の一撃が、致命的にならなかったことへの後悔と、責任の重さが胸を締め付ける。二人は一言も言葉を交わさなかった。
倫の肩には、胡蝶がそっと寄り添うように羽を休めた。
朝日が昇る頃、三人は湖へ辿り着く。清廉な空気に包まれた知慧は、静かに湖に身を委ねた。魂と母胎に絡み付いた呪いは、ついに完全に解かれる。
だが――胎内の命は、救うことは叶わなかった。
我が子の鼓動が絶たれ、知慧は小さな命を手放してしまった自分の弱さを責めて、儚く涙を流した。雫は湖に落ちて、小さく波紋を広げる。
「……私は強くなり、あの鬼を終わらせる。式神となる」
あの鬼をこの手で倒したい。だが、倫は己の強さの極限を知っていた。鶯鵺が冷静な思考を与えてくれる。
残酷な、呪いと共に歩く運命の道を、倫が歩き始める。
蓮司は、倫の自己犠牲の思考を止める言葉を、まだ見つけられなかった。
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