第五話
子守唄のような旋律と懐かしい柔らかな声が聞こえた。紫苑がそちらに意識を向けた。
何処か懐かしく、それを確実に知っている。だが、なくしてしまった事だけが分かった。
切なさと苦しさ、喪失感で紫苑の胸が、締め付けられる。
切実にそれに触れたくて、失くした温もりを感じられる唄声をもっと近くで聴きたい、という思いに駆られて紫苑は温かい布団から抜け出した。
屋敷の中は、しん、と静まり返っている。だからこそ、その声は優しく包み込むように響いた。
その声の主の前では鬼であっても身を隠す必要はない、と思わせる歌声であった。ここに、居てもいいと、許すように歌っているようだ。擽ったくもあたたかい。
廊下を微かにきしり、と驚かせないよう、遠慮がちに軋ませて、裸足で紫苑は歩く。ひんやりとした感覚が足裏に伝わり心地よい。
緊張して震える手で、紫苑はほんのりと灯りで染めた障子を静かに開けた。そこには髪が腰まで長く儚げな女性が座椅子に座っていた。
障子が開く音に女性が歌うのを止めた。どうしよう、と紫苑は狼狽えた。
「……迷子、ですか?」
ん、と首を傾げて、女性は柔らかく瞳を細め紫苑を見つめた。そして、静かな優しい声で紫苑に声を掛けた。
その声には、長く静寂を生き抜いた者だけが宿す、深く柔らかな落ち着きがあった。
やはり、怒られたりしないと紫苑は安堵した。
紫苑が、声を出すのに臆病で話したい気持ちがあるが、答えられずにいると、後ろから声がした。その声は紫苑にとって安堵するものだった。思わず後ろを振り向くと、予想通り倫の顔があった。
「姉上、……紫苑です。私がこの屋敷まで、背負ってきました。半日以上は掛かりました」
紫苑が姉の部屋に入っていくのが見え、姉に紫苑を、紫苑に姉を紹介するのに丁度いい、と倫は考えて姿を現したのだ。
姉と紫苑が、二人きりで会話する、それは喜ばしい。邪魔をする気は倫にはなかった。
「……まあ、倫はそんなに力持ちなの?」
「ええ、力持ちです。姉上なら5人は運べるでしょうね」
倫は姉の言葉を認めると、少し得意気な顔で頷いて、袖を捲って力こぶを作っておどけた。姉はまあ、と口元を手で隠し、目を見開いて驚いて見せるが、やがてくすくす、と楽しそうに笑った。
その笑い声に釣られて来たのか、ふわり、と蝶が寄り添うように姉の肩に止まる。
「紫苑、こちらは私の姉上の知慧だ」
「……ち、え」
紫苑が知慧に触れようと手を伸ばすが、己の鋭く長い爪が恐ろしく引っ込めてしまう。その時、知慧の肩に止まっていた蝶は静かに羽ばたき、紫苑の頭上で一度旋回してから肩に音もなく舞い降りた。
「この子は、胡蝶……私にいつも寄り添ってくれる。あなたの心にも」
知慧はそっと紫苑の手を取って、優しく両手で包み込んだ。紫苑は嬉しくなり、口元を僅かに緩めた。こんな穏やかな気持ちになる自分が不思議だった。この優しい空間が、とても心地がいい。
「明日の朝、湖に参ります。屋敷を空けます……姉上、白蓮の香りに気をつけて下さい」
倫の瞳の奥が不安で揺れる。それを知慧は見逃さなかった。
「……そう、お婆様が、侵入を許さないはずよ」
知慧は胡蝶を呼び、白く美しい指先に止まらせる。
知慧と倫の祖母は、隠居した身だが、侮れない。焔家の中でもかなりの力を持つ能力者だ。
「わたしは、大丈夫よ……倫。あなたも、自分を大切にしてね。心配しているんだから」
不安を抱える倫の心を、知慧はそっと抱き寄せるように包んだ。屋敷を空けるたび、いつもこうして安心させてくれる姉の温もりだった。倫も姉の背中に手を回して抱擁を返した。
その愛しく、微笑ましい光景は、紫苑にも覚えがあったが、記憶は霧の中にあった。それをもどかしく思った。
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