第四話
背中に、暖かく柔らかなものが当たっている。
その下には固い床があるはずだが、その柔らかさのおかげで痛みは感じなかった。
ここに、寝たことがある。
その時は、優しい声とぬくもりがあった。
しかしそれは、もう冷たく動かなくなり、優しい声を発することもない。
「……お、……か、あ、さ……」
渇き、しゃがれた声。何年も聞いていなかった己の声に、鬼は驚いて瞳を見開いた。
夢うつつだった意識が、完全に覚醒する。酷く喉が渇いている、と自覚した。水を含み、喉を潤したい。
鬼は丁寧に掛けられていた布団を捲り、上半身を起こす。
くらり、と目眩に似た視界の揺れを感じた。
「おやおや……ようやく目が覚めましたねぇ。心配しておりましたよ」
襖が開き、こじんまりとした老婆が顔を覗かせた。
小さく、か細い声。だが弱々しい印象はない。まっすぐ、こちらを見ているからだ。恐れない。鬼を前にして、怯える気配がない。そのことに、鬼は驚いた。
この小さく弱々しい見た目で、実は恐ろしく強いのではないか。
皺に埋もれた小さな瞳から、得体の知れぬ威を感じ、鬼は無意識に身を固くした。
「恐がらなくて良いのですよ。わたくしはもう隠居の身。
それに、貴方様のような……人に害を与えぬ鬼やあやしを、虐めたりはしません」
ほっほっほっ、と特徴的な声で老婆は笑う。
――この老婆は、倫の祖母である。
心が狭く、自らを強いと思い込みたい人間ならば、彼女を見下すだろう。
鬼であればなおさら、何の躊躇もなく腹の足しにするはずだ。
それなのに、この鬼は、無意識のうちに、正座をしていた。背筋を伸ばし、従順な子供のように。
「……意識が戻ったか。私が未熟で、誠を見抜けなかった。申し訳ない」
襖が開く。
鬼が布団の上で正座している光景に、一瞬倫は目を丸くした。
だがすぐに表情を改め、鬼の前に正座すると、真摯に焔家の当主は頭を下げた。
殺意を向けてきた人間が、謝る。その光景に、鬼は戸惑う。どこにも居場所がない。自分という存在が、邪魔なのだ。この世に、必要ない。老婆やこの小さな人間がそばにいても、他の者は恐れ、嫌う。孤独が、辛い。
「……こ、ろ、せ……ころ、してくれ……」
ぽろぽろ、と鬼の目から涙が零れ落ちる。
赤い肌に獰猛な外見。
それでも、今はひどく小さく見えた。
「お前に掛けられた『呪い』を、私が解く」
倫は、鬼の涙を指先でそっと拭い、手を取る。
「血は繋がらずとも――側で、お前を助けると誓う」
懐かしい、ぬくもり。
母が与えてくれた温もりを、思い出した。
「鬼肌の呪いは、解けるだろう。お前の魂は、穢れてはいない」
人であった鬼が、人の血肉を喰らえば、核に埋め込まれた呪いは本格的に発動する。
怒りと憎しみに心が支配され、力を欲し、悪知恵を働かせ、残虐非道の限りを尽くす。
穢れが積み重なれば、肌は鎧のように変わる。鬼肌の呪い。肌を赤く、硬く、分厚くし、鎧のようにする呪い。
それが解ければ、人と見た目は変わらなくなる。
「お前……自分の名前は、覚えているか?」
「……」
記憶は霧のように朧だ。
答えられずにいる紫苑を、倫はまっすぐ見つめた。
倫の瞳が、わずかに煌めく。
相手の印象から名を当てる、ちょっとした特技。
「紫苑、だな」
「……し、お、ん」
呼ばれると、不思議だった。
心があたたかくなり、切なくなる。
「紫苑。私の名は、倫だ。倫と呼べ……呼べるか?」
子供をあやすような声。
涙に濡れた瞳で、紫苑は倫を見上げる。
睫毛に溜まった最後の雫が、静かに落ちた。
「……り、ん」
その名を呼ばれ、倫は安堵したように、緩く微笑んだ。
「泣いた後は、眠くなるものだ。今は、ゆっくり休め」
声が、次第に遠ざかる。紫苑は布団に仰向けになり――
そのまま、眠りに落ちた。
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