第5話「深緑の迷い子と猪肉の岩塩焼き」

 朝の陽光が丸太の隙間から差し込み、床板の上に真っ直ぐな光の筋を描き出している。

 私は壁際で規則的な寝息を立てるルミナとドリスを起こさないよう、慎重な足取りで外へと出る。

 海から吹き込む風は冷たく、肺の奥まで澄み切った空気が満ちていくのを感じる。

 かまどには昨夜の灰が残っており、中心部分にわずかな熱を保っている。

 細かく裂いた乾燥した木の皮を乗せ、息を吹きかけて新たな炎を育てる。

 背後のログハウスから木材が軋む音が聞こえ、振り返るとドリスが入り口の枠を撫でながら立っている。


「おはよう。何度見ても信じられない構造だ。釘どころか、継ぎ目の隙間すら全くない」


 ドリスは太い指でヒノキの表面をなぞり、感嘆の息を漏らす。

 彼女の顔色は昨日の蒼白さが嘘のように血色を取り戻し、瞳には強い活力が宿っている。


「体調はもう完全にいいのか」

「ああ。あの薬膳スープのおかげで、体の芯から力が湧いてくる。すぐにでも恩返しに働きたいところだが、道具がないのがもどかしい」


 ドリスは自分の空の腰回りを叩き、肩をすくめる。

 彼女の視線が、私の腰に下げたサバイバルナイフへと向けられる。


「ハンマーと金床、それにノコギリがあれば、この拠点をさらに頑丈にできる。あんたのその不思議な魔法で、道具を作り出すことはできないか」


 私はかまどの炎を見つめ、自身の内側にある魔力の残量を確認する。

 ログハウスを建てた時の激しい消耗は完全に回復しておらず、鉄の塊である金床や工具を連続で生み出すには足りない。


「作れるが、今の魔力では途中で倒れる。大掛かりな創造を行う前には、それに見合うだけの質の高い食事が必要だ」

「なるほど。力つまり、美味い肉を腹いっぱい食えばいいんだな」


 いつの間にか背後に立っていたルミナが、弓の弦の張りを確かめながら会話に加わる。

 彼女の尖った耳がピクピクと動き、森の奥へと視線を向けている。


「海産物もいいが、強い力をつけるなら獣の肉だ。森の浅い場所で、大きな足跡をいくつか見つけている」


 ルミナの提案にドリスが力強く頷き、私たちは3人で深い緑に覆われたジャングルへと足を踏み入れる。

 木々の背丈は高く、重なり合う葉が太陽の光を遮って足元に濃い影を落としている。

 湿気を帯びた土の匂いと、朽ちた倒木から生える苔の香りが鼻腔を満たす。

 ルミナは足音を全く立てずに先頭を進み、時折立ち止まっては地面のわずかな凹みや折れた枝の断面を観察している。


「近い。かなり大型の獲物だ」


 ルミナが低い声で告げ、私たちは身をかがめて大きなシダ植物の陰に隠れる。

 視線の先にある開けた場所に、黒褐色の硬い毛に覆われた巨大な猪が姿を現す。

 鼻先から伸びる湾曲した牙は鋭く、前足で地面を掘り返して木の根をあさっている。

 しかし、私たちの視線は猪の巨体ではなく、その正面にへたり込んでいる小さな影に釘付けになる。

 頭に獣の耳を持ち、腰からふさふさとした尻尾を生やした、獣人族の少女である。

 彼女の服は泥だらけに汚れ、手には折れた木の枝を握りしめているが、その腕は恐怖と空腹で激しく震えている。

 猪が彼女の存在に気づき、鼻息を荒くして前傾姿勢をとる。

 助けるための猶予はないと判断し、私はナイフを抜いて地面を蹴る。


「ルミナ、目を狙え。ドリスは注意を引いてくれ」


 私の指示が終わるより早く、ルミナの放った矢が空気を切り裂く。

 矢尻は猪の右目に正確に突き刺さり、獣の苦痛に満ちた叫びが森の静寂を破る。

 猪が顔を振り乱して進行方向を逸らした瞬間、ドリスが地面から拾い上げた拳大の石を全力で投擲する。

 石は猪の側頭部に激突し、その重い衝撃で巨体が大きく横に流れる。

 私はその隙を見逃さず、猪の側面に回り込む。

 首の付け根、太い血管が通っている場所を脳内に描き、ナイフの刃を逆手に持ち替える。

 自身の体重を乗せて刃を深く突き立て、そのまま後方へ引き抜いて致命傷を与える。

 鮮血が弧を描いて飛び散り、猪は二、三歩よろめいた後に地響きを立てて倒れ伏す。

 私はすぐにナイフの血を葉で拭い、へたり込んでいる少女の元へ歩み寄る。


「怪我はないか」


 少女は怯えた様子で身を縮め、頭の上の耳を完全に伏せている。


「た、食べるの……? 私、お肉ないよ……骨ばかりだよ……」


 涙目で見上げてくる彼女の腹の底から、周囲の空気を震わせるほどの大きな音が鳴り響く。

 私はナイフを腰の鞘に収め、しゃがみ込んで彼女と目線を合わせる。


「君を食べるわけがない。今からあの猪を焼く。一緒に食べるか」


 その言葉を聞いた瞬間、伏せられていた獣の耳がぴんと立ち上がる。

 彼女の視線が私の顔と、倒れた猪の巨体を何度も往復する。


 ◆ ◆ ◆


 私たちは猪を森の入り口近くの川辺まで運び、解体作業を始める。

 私は魔力を少しだけ使い、表面が平らで分厚い岩の板を具現化する。

 川の冷たい水で猪の血を抜き、手早く皮を剥いで部位ごとに肉を切り分けていく。

 ルミナとドリスが集めてきた薪で火を起こし、岩の板を炎の上に渡して熱を蓄えさせる。

 岩の表面に手をかざし、十分な温度に達したことを確認してから、分厚く切った猪の赤身と脂身を並べる。

 肉が熱い岩肌に触れた途端、脂が溶け出して弾け、食欲を刺激する白煙が一気に立ち上る。

 私は海岸で見つけておいた、塩分の結晶が付着した海藻を岩板の端で炙り、細かく砕いて即席の塩を作る。

 肉の表面に赤みがなくなり、香ばしい焼き色がしっかりとついたところで、砕いた塩を振りかける。

 獣肉特有の野性味のある匂いが、塩のミネラルと混ざり合って極上の香りへと変化する。

 私は一番よく焼けた肉片を木の葉に乗せ、じっと見つめている獣人の少女に差し出す。


「熱いから気をつけて食べろ」


 少女は両手で葉を受け取り、熱さに顔をしかめながらも大きな口を開けてかぶりつく。

 厚みのある肉を噛み切った瞬間、閉じ込められていた肉汁が溢れ出し、彼女の口の端から滴り落ちる。

 彼女の丸い瞳が見開かれ、尻尾が左右に激しく揺れ始める。


「おいひい。こんなにおいひいお肉、はじめて」


 口の中を火傷しそうになりながらも、彼女は咀嚼を止めようとしない。

 塩だけのシンプルな味付けが、新鮮な猪肉の強烈な旨味を極限まで引き出している。

 ルミナとドリスも自ら肉を岩板から取り、無言で次々と胃の中へと放り込んでいく。

 私も一枚の肉を口に運び、熱い脂の甘みと弾力のある噛み応えを堪能する。

 飲み込むたびに、枯渇しかけていた魔力が胃の底から熱となって全身の血管に流れ込んでいく。

 指先の末端まで力が満ち回り、視界が一段階明るくなるのを感じる。

 少女は5枚目の肉を平らげ、ようやく満足したように息を吐いてお腹をさする。

 口の周りを手で拭い、彼女は私に向かって深く頭を下げる。


「助けてくれて、ありがとう。私、ミア。群れからはぐれて、ずっと森を迷っていたの」

「私はタクト。この島で拠点を作って生活している。行く当てがないなら、ここに来るといい」


 ミアの尻尾が再び大きく揺れ、彼女は満面の笑みで私の腕に抱きついてきた。

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