Case1-3 人の心を支配する薬
ひんやりとした空気で目が覚めた。体が鉛のように重い。まぶたが張り付いたかのように開かない。無理やりこじ開けると、薄暗い部屋の天井が視界に飛び込んできた。体を何とか起こし、自分が今どこにいるのかを確認する。特徴的な電子機器が、目に入る。昨日と、同じ部屋だ。しかし、昨日は全身を縛られていたはずなのに、今は何の拘束もない。ただ、手足の関節が軋むように痛む。俺は、何をしていたんだ……? その瞬間、昨夜の出来事が、フラッシュバックする。白い実験着の女。ユウナ。注射器。血管に突き刺さる冷たい針。身体中に駆け巡った、あの甘美な痺れと、抗いがたい高揚感……。俺の、主人……。そう思考が結論づけようとした、その瞬間だった。
「ぐっ……」
こめかみに鋭い痛みが走り、思わず呻き声が漏れる。違う。この思考は、俺のものじゃない。無理やり植え付けられた、偽りの感情だ。しかし、あれは、夢だったのか? いや、あまりにも生々しい。あの強烈な快感は、夢ではありえない。だが、同時に、強い違和感が胸の奥に湧き上がっていた。ユウナの言葉が、頭の中でこだましている。「貴方のご主人様は私よ」。あの時は、それが真実だと信じて疑わなかった。だが、今はどうだ? 主人? 主人だと? この、俺に?
(まさか、洗脳……?)
じりじりと、恐怖が這い上がってくる。あの甘美な快感は、薬の作用だったのか。俺は、まんまとあの女の術中にはまったというのか。あの悪女は、俺に何をさせようとしているのか。想像するだけで、背筋が凍る。逃げ出すことは状況的にできるだろう。しかし、体が言う事をきかない。薬による副作用なのか、それとも「愛情の証」を身体に受けすぎたからなのか。体が言う事をきくようになるまで大人しくしているほかなかった。時間を追うごとに、身体中の倦怠感は抜けていった。しかしそれと同時に、胸の奥に漠然とした物足りなさが募っていく感覚に襲われ始めた。何かが足りない。強烈な快感が、熱狂が、どこかへ消え失せてしまったかのような虚無感。
(これだ……これがあの薬の作用だ!)
唐突に、全身に悪寒が走る。この物足りなさこそが、あの薬が俺の心に植え付けたものだ。この渇望を埋めるために、俺は再びあの快感を求め、そして、あの女の支配を求めるようになる。このままでは、俺は完全に彼女の下僕と化してしまう。意識が鮮明になるにつれて、危機感が募っていく。抗わなければ。逃げなければ。
その時、ガチャリとドアの開く音がした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、ユウナだった。白い実験着姿の彼女は、微笑みを浮かべ、トレイの上に置かれた注射器を手にしている。その瞳は、まるで獲物を見つめる捕食者のように、冷たく、そして、狂気に満ちていた。
「あら、お目覚めね。体の調子はどうかしら? そろそろ欲しいと思って持ってきたわよ。」
そういい、ユウナは、ゆっくりと俺に近づいてくる。その手には、あの注射器。抗わなければ。逃げなければ。そう強く願うのに、身体は言うことをきかない。いや、それどころか、細胞の一つ一つが、あの液体がもたらす甘美な快楽を求めて熱く疼いている。まるで、渇望する獣のように。俺の理性は抗いたいのに、俺の身体は歓喜している。ユウナが俺の腕を握る。振り解きたいのに、体は腕の力を抜いてしまう。彼女が、打ちやすいようにと。それだけではない。心臓の鼓動が一気に早くなる。まるで、薬を早く全身に届けたいと言わんばかりに。
「あら、抵抗しないの? その胸の高鳴りは緊張、ではないわね。この薬欲しさ? 早く薬の効果を味わいたいの? 本当、素直ないい子ね、私の忠実な犬。ご褒美にいい事、教えてあげるわね。この薬はね、体への依存症状はないの。だけど、効果が切れてからしばらくの間は精神的に求めずにはいられない精神状態になってしまうようなのよ。一番ピークの時間はちょうど、今ぐらいよ?」
彼女の声が、耳元で響く。冷たい言葉なはずなのに、何故か優しく響く声。オカシイ。俺はこうして嫌だという意識を持っている。にも拘らず、体への依存症状がない、だと? じゃあなんで動かないんだ、俺の体は? なんで抵抗しようとしないんだ、俺の体は! これじゃ、まるで、俺が、俺の深層意識が、まるでこの薬を欲しがっているみたいじゃないか! ……抵抗はそこまでだった。
針が、再び俺の腕に突き刺さる。ひゅっと、息を飲む音が漏れた。冷たい薬液が、体内に流れ込んでくる。昨日よりも、はるかに強い衝撃が全身を襲った。脳が焼き焦げられるような激痛。だが、その痛みが、すぐに全身を貫く、昨日以上の、強烈な快感へと変容していく。意識が、快楽の波に飲み込まれていく。逃げようとしていた足から力が抜けていく。立っていられず、その場にへたり込んでしまう。そんな俺の体をユウナは支えるように抱き、座らせる。そして、昨日と同じように優しい手つきで俺の顎に、頬に手を滑らせ、俺の視界にその美しい顔を、冷徹に俺を支配してくださる狂気の瞳が見えるよう、固定してくださる。
「まずは復習よ。私が、貴方の主人です。私の言葉こそが、貴方にとっての唯一の真実。貴方の意志は、私の意志。貴方の思考は、私の思考。わかるわね? さあ、復唱してみなさい。」
彼女の声が、脳の奥深くに直接響き渡る。抗うどころか、その言葉の全てが、俺の心に深く刻み込まれていく。ああ、そうだ。この方こそが、俺の全て。俺の唯一の存在理由。俺はその言葉を復唱しようとした。だが、声を出すとはどうすればよかっただろうか……? 脳髄を貫くほどの快楽が、体の動かし方すら忘れさせていた。俺はぼんやりとした意識の中、こうして声を出すはずだったと探りながら、声を紡ぐ。
「貴方が、ご主人様、です。貴方の言葉、が唯一の、真実。貴方の意志は、私の、意志。貴方の思考は、私の、思考、です。」
思ったよりはきちんと声に出せた。途切れ途切れになりながらも、しっかりと復唱ができた。主人の命令を達成できた喜びに胸が躍る。段々、快楽に包み込まれる体の感覚に慣れてきたのかもしれない……早く、次の命令が欲しい……そんな私の思考を主人はすぐに察してくださる。
「よくできたわ、忠実な犬。さあ、もう一度言ってごらんなさい。そろそろ体も慣れてくるでしょう? 上手く言えるかしら?」
「貴方が、私のご主人様、です。貴方の言葉こそが、唯一の真実。貴方のご意志こそ、私の意志。貴方の思考は、私の思考です。」
さっきよりもすらすらと言えた。ああ、そうだ。この方のご命令なのだから応えなければ。この方にお伝えしなくては。この方は私の主人。私はこの方の犬なのだから。はやく、早く私に命令を。そんな私の思考をやはり主人であるユウナ様はすぐに察してくださった。
「よくできました。声もしっかり出せるようになったようね。でも、昨日のことをはっきり覚えているかしら? ちょっと不安もあるから、改めて言うわね。貴方の情報網を、私のために差し出しなさい。それが貴方の至福につながる第一歩。誰と繋がり、どんな情報を扱っているのか。私に捧げなさい。」
ああ、そうだった。昨日は声が出せず、お伝え出来なかったことがあったのだった。私は昨日走馬灯のように駆け巡った記憶を再度思い出す。それだけではない。今日は今まで誰にも明かしたことのない、最深部の情報網が鮮明に浮かび上がる。まるで、それらを差し出すことが、この上ない喜びであるかのように、私の心は高揚したのだ。言葉にならない肯定の声を上げ、私は必死に、その全ての情報を主人に伝えようと頭を働かせた。だが、どこか朦朧とした私の頭は全てを正しく明瞭に、主人にお伝えすることができなかった。しかし、主人は優しかった。
「素晴らしいわ、よくできました。今はそれでいいの。まだ、貴方の体も心も完全ではないから当然なのよ。忠実な貴方には次がある。私の期待に応え続ける限り貴方には次がある。これを続けることで、完全な私の犬になり、私の手足として動く喜びを得ることができる。だから今日は、きちんと約束と命令を聞けたご褒美をあげましょう。」
主人の声が、甘く響く。その声に、全身が震える。ご褒美。彼女が与えるものは、すべてが至福。壁によりかけられた私の体に強い一撃が加わる。苦痛よりも快楽を感じた。それを優しく歪んだ顔でご主人様が肯定する。
「貴方が感じる苦痛は、すべて私からの愛情。貴方に与えられる痛みは、すべてが貴方への快楽となる。覚えておきなさい。」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、また身体に衝撃が走った。視界が真っ白になり、意識が遠のく。強烈な痛みが、一瞬にして全身を駆け巡る。だが、それは痛みではない。今まで感じたことのない、途方もない快楽。脳が痺れ、全身の細胞が歓喜に震える。ああ、もっと。もっと、この快感を……。
意識が、そこで途切れた。
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