Case1-1 人の心を支配する薬

 その白く透き通った液体は、人の神経系に作用する。人体に投与されると抗いがたい快楽が訪れる麻薬のような効能を持つ。しかし人の体そのものに依存症状は起きないため、心身ともに蝕む麻薬よりは幾分マシかもしれない。……いや。やはり麻薬より質が悪いかもしれない。何故ならこの液体は、快楽をもたらすと同時にその人物の思考を一時的に止めてしまうのだから。いや、どちらかというと、快楽を感じること以外の思考能力が著しく低下する、と言ったほうが正確だろうか? いずれにしても、この意識レベルが一時的に低下した状態で、命令や刷り込みが行われたとしたら……そして、それが繰り返されたとしたら……人は容易に、心動かされる。そう、思わないだろうか? その一例を見ていこう。



 静かで、しかし妙に耳障りな電子音が響く。薄暗い意識の中で、俺は自分が椅子に縛り付けられていることに気づいた。手足を動かそうとするが、まるで石になったかのように、びくともしない。視界がぼやけ、冷たい光が目に突き刺さる。ここがどこなのか、なぜ自分がここにいるのか、まるで思い出せない。ぼやけた視界で必死に状況をつかむために視界を動かし情報を集めていると、1枚の扉が開く瞬間を目撃する。そこから現れたのは俺もよく知るあの女だった。喉が枯れるほど叫び、唾を飛ばした。


「ユウナ、てめぇ、一体何を……!」


 扉から入ってきた女が、俺の目の前に立った。白い実験着を纏っている。……ユウナだ。本職は刑事だが、実質的にはこの街の女王として君臨する、少なくとも俺が取り扱っている歴史情報の中でも史上最悪の悪女だ。思い出した。俺がいつものように仕事としてクライアントと情報を取引していた、まさにその時だ。この女が現れたのは。そう、この女は突然現れ、不意打ち気味に手荒な一撃を俺にお見舞いしてきやがった。流石の俺でもそんな不意の一撃は避けられなかった。で、気を失ったんだ。いつもならいかにも刑事ですって主張する茶色いジャケットを愛用する女なのに、今日はまるで実験と言いたげだな、おい。いったい俺が何をしたというんだ! 俺の怒りを悟ったのか、目の前の悪女はその理由を淡々と話し始めた。


「貴方は、私の正義の邪魔をした。貴方がやり取りをしようとしたその情報は、個人情報。この街においては個人情報の売買は、『組織』が承認しない限り許されない。だから、貴方は罰せられなければならない。」


 おい待て。その内容なら普通は先に聴取だろうが。抑揚のない声色で淡々と、身勝手なことを言う。確かに個人情報の勝手な売買は違法だ。今回の件だってクライアントが必要だって言わなきゃ手を出さなかった品だ。違法行為をしているのは確かだ。そこは百歩譲って認めてやる。だがこのやり方は違法だろうが! 正式な契約の元にやり取りしてるんだったら適法なわけで、それを確認してから拘束、ってのが正規の手続きだろうが! 証拠があって逮捕って言うんなら納得もするが、こんな正式な手順を踏まえていない逮捕、拘束など無効だと、強く言わなければならない。


「ああ、そうだな、個人情報のやり取りはした。だがそれは契約に基づいたきちんとした取引だ。調べろよ。捕まえるなら調べてからきちんと証拠を出して捕まえろよ。それが刑事の仕事だろうが!」


 まあ、調べたら違法だってのはバレバレなんだがな! それでも今この場を乗り切ってとんずらすればいいだけの話だ。それに……俺がここまで強く言うのには理由があった。見て見ろこの女の感情が一切ないかのような完璧な無機質な顔を。この女はこうして小さな違反を見つけては自分が掌握した様々な組織を使って『更生』という名の取り締まりをするのが趣味なのだ。そしてその『更生』がろくでもないことを俺は知っている。俺と同じ仕事仲間たちが何人もこの女の『更生』の餌食となったからだ。


 この女の『更生』を受けた人間はこの女の奴隷と化す。それほどまでに痛烈で凶悪な拷問で人の体と心をずたずたに引き裂く。これを趣味としてやっている。こんな悪趣味な女がこの街の権力のほとんどを握ってしまっているのは悪夢でしかない。だが、この女にも弱みがある。この女は、『正義』にこだわる。これは、権力を握れた最大の強みなのかもしれないが、逆に弱みにもなっている。『正義』の枠組みでしか趣味を生かせない。だからこそ、今、この女の『正義』の枠組みの範囲内に自分を留める必要性があるのだ。

 だが、どうも、俺の『前提』が間違っていたようだ。悪女は悪びれるでもなく淡々と俺の『正論』に答えた。


「そうね。だからこそ、貴方を選びました。貴方の情報収集能力は、この街の秩序を保つ上で非常に価値がある。だから、私は貴方に特別な『更生』の機会を与えるためにここに連れてきたのよ。」


「……は?」


 いや待て。選んだ? 価値がある? 『更生』の機会? この女は会話をする気があるのか? 俺は調べて証拠を出してから捕まえろ、といった。その回答が選んだだの、価値があるだの、機会、だ? つまり、あれか? この女は、調べる能力も証拠を出す能力もないから価値ある俺を奴隷にしたい、と言っているのか? ……何をふざけたことを言っているんだ! 俺は、この頓珍漢な女にわかりやすく、声を荒げて怒鳴りつけた。


「いや! 証拠を出せって言ってるんだよ、わかんねぇのか!」


「証拠がいるという事は、貴方は罪を犯したという自覚はあるという事でしょう? なら、罰していい。違う?」


 噂には聞いていた。この女に話は通じないと。噂通りだった。自分に都合のいいようにしか解釈をしないタイプの、マジもんの悪女だ。この女は。

 更生。歪んだ楽園への招待状。拒絶すれば、死ぬ。いや、死よりも酷い地獄が待っている。だが、従えば、魂が食い潰される。人としての人生が終わる。俺の顔が歪んだ。他に、他に抗う術はないのか。その時、ユウナは電子音を響かせる機械の上に設置してあったトレイから、注射器を手に取った。その注射器には白く透き通った液体が入っているのが見えた。針の先端が、鈍く光る。嫌な予感が全身を駆け巡る。女の皮をかぶった悪魔が口を開く。


「今回は罰を軽めにしてあげるわ。『更生』後に貴方がしっかり働けるように。そのためにこの薬を使います。この薬は、貴方の心をしがらみから解放してくれるわ。最初は少し、戸惑うかもしれないけれど、すぐに私の言葉が、貴方にとっての真実となる。そして、私の支配が、何よりも甘美な快楽となる。考えるだけでも素敵でしょう?」


 不味い不味い不味い! 明らかにこの女の声のトーンが変わった! この時を楽しみにしてましたと言わんばかりの歓喜の色が透けて見える。この悪女は、最初から、俺にこの薬を試すために連れてきたのだ! 理由なんて何でもよかったのだ! いや、だが、ただこのまま、黙って受け入れるのは情報屋としてのプライドが許さなかった。


「待て待て待て! 罰だの更生だの俺は受け入れるなんて言った覚えはない! それに、俺だって知ってるんだぞ! お前がきちんと手続き踏んでやる女だってな! まずは『罰』だろ。その薬は、『更生』に使うもんじゃないのか? 『更生』は選択性だって聞いたんだがなぁ?」


 腕をつかまれつつも何とか逃れようと言葉を紡いだ。しかし、この悪女は無言のまま歪んだ笑顔を浮かべながらその掴んだ腕に加える力を強めた。血管が、皮膚の下で嫌なほど浮き出る。血管を、探してるのか? 次の瞬間、その愉悦に歪んだ唇が、動いた。


「貴方は特別って言ったでしょう? 『更生』の傍らできちんと『罰』を与えてあげるから安心しなさい。『罰』が甘く感じられるように『更生』を先行させてあげようって言うのよ? 私は、貴方の主人になるのにふさわしい優しい支配者よね?」


 ふざけやがって、という一言は、言えなかった。ユウナが躊躇なく針を突き刺す。冷たい薬液がゆっくりと、しかし確実に体内へと流し込まれる。心臓の鼓動が、脈打つ血管の流れがこんなにも憎らしいと思ったことは初めてだった。打ち込まれた薬が、全身に回るその感覚が、はっきりと感じられるほどその衝撃は激しかった。

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