6章
未保存
それから数日、透はまともに眠れなくなった。
学校へ行っても、授業は頭に入らない。
ノートPCを何度開いても、ファイルは壊れたままだった。
復旧ソフト。 バックアップ。
クラウド同期。
思いつく限り全部試した。
それでも、戻らなかった。
本文だけじゃない。
メモ。 設定。
下書き。
全部消えていた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
でも透は覚えている。
夜のホーム。 深夜三時。
紗奈の言葉。
あの一文。
それだけは、異様なほど鮮明だった。
透は机へ突っ伏す。 スマホ画面が暗い。
最近は投稿サイトも開いていない。
作品ページを見るのが怖かった。
もし本当に全部消えていたら。
自分が書いていた証拠すら失くなる。
そんな気がした。 窓の外で雨が降っていた。
あの日と同じ匂い。
透はゆっくり顔を上げる。
机の端に、ノートが置いてあった。
創作メモ。
普段はほとんど使わない。
思いついた台詞だけ書く程度のもの。
透は何気なくページを開いた。
そこに、一文だけ残っていた。
『人は、忘れたい夜ほど、正確に覚えてしまう。』
透は息を止める。
自分の字だった。
間違いない。
深夜三時に殴り書きした文字。
少し歪んでいる。
透はそのページを見つめたまま動けなかった。
「……残ってる」
声が震える。
その一文だけ。
本当に、それだけが残っていた。
透は急いでスマホを開く。
投稿サイト。 マイページ。
作品一覧。 空白。
作品は消えていた。
投稿履歴もない。
まるで最初から投稿していなかったみたいに。
透は唇を噛む。 心臓の音がうるさい。
「なんなんだよ……」
誰も覚えていない。 記録も残っていない。
なのに、自分だけが覚えている。
その感覚は、怖かった。
まるで世界から一人だけ置いていかれているみたいだった。
透はノートを閉じる。 そして、ふと思う。
もし。
もし本当に全部消えたなら。 どうしてこの一文だけ残った?
『その一文、絶対消さないで』
紗奈の声が頭をよぎる。 透はゆっくり顔を上げる。
雨音。 白い部屋。
暗い画面。
その瞬間、不意にスマホが震えた。
通知。
透は反射的に画面を見る。
知らないニュースアプリだった。
『第19回 新人文学賞、受賞作決定』
どうでもいいはずだった。
でも、なぜか指が止まった。
透はその記事を開く。
受賞作品一覧。
スクロール。 その瞬間。
透の呼吸が止まる。
『大賞受賞作
夜の底で、君を待つ
著:雨宮蓮』
世界の音が消えた。
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