第3話 影が形になる頃

 放課後の図書室は、夕陽が差し込むたびに棚の影がゆっくりと伸びていき、ページをめくる音だけが静かに響いていた。


 蓮は机に広げた地図とノートを前に、樹の足取りを追うように視線を走らせていた。地図には、事件当日の樹の行動範囲が細かく書き込まれている。


「あ、一ノ瀬くん。まだ調べてるの?」


 蓮は顔を上げ、美月の声にようやく気づいたように瞬きをした。


「あ、ごめん。ちょっと考え事してた。」


 掃除当番を終えた美月が近づいてきた。蓮は眼鏡の位置を直し、少し照れたように笑った。


「うん。佐々木さんが捕まったのは分かってるんだけど、どうしても気になる部分があってさ」


「気になる部分?」


 美月が椅子を引いて隣に座ると、蓮はノートの一部を指で示した。


「ほら、樹の靴に付いてた泥。河川敷の土と少し違う気がするんだ」


「え…それって、樹くん、どこか別の場所に寄ってたってこと?」


「かもしれない。工事現場とか、そういう場所の土に似てる気がして」


 蓮の声は落ち着いていて、その静けさが、どこか痛いしくも見えた。


「樹くん、あの日どこ行ってたんだろうね」


「わからない。でも六時十五分には僕は家にいたし──」


 美月はふと何かを思い出したように、軽く首を傾けた。


「あ、そういえばさ。事件の日に部活の買い出しで一ノ瀬くんの家の前を通ったんだけど、その時、部屋の窓開いてた気がして…風邪とかひいてない?」


 蓮は美月を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「ああ、それか。朝、換気したまま閉め忘れてたんだと思う。僕よくやるんだ。母さんにも、また忘れてるよって言われたし」


「そっか。なら、良かった。変なこと言ってごめんね」


「いや、気にしないで。気遣ってくれてありがとう」


 蓮は再びノートに視線を落とした。その横顔は、親友のために真実を追う少年そのものだった。


 美月はしばらく黙って蓮の手元を見つめ、やがて小さく息をついた。


「一ノ瀬くんって、本当に優しいよね。樹くんのこと、ずっと考えてて」


 蓮は手を止め、少しだけ寂しげに笑った。


「…僕は、ただ後悔したくないだけだよ。樹が何を思っていたのか、どこへ向かおうとしていたのか。それを知ることが、僕にできる唯一のことだから」


 美月は何も言わず、そっと頷いた。


 図書室の時計が静かに時を刻む。蓮はペンを握り直し、地図の上に新たな線を引いた。


 夕闇が迫る理科室は、窓の外の光が弱まり、蛍光灯の白い光だけが静かに机の上を照らしていた。


 蓮は顕微鏡を覗き込み、樹の靴底から採取した泥と、市内の土壌サンプルを並べて比較していた。机の上には、粒度を測るための簡易スケールや、理科部から借りた器具が整然と並んでいる。


「一ノ瀬くん、まだやってたんだな」


 白衣姿の蓮に声をかけたのは、佐藤刑事だった。理科室の扉の前で腕を組み、興味深そうに蓮の手元を覗き込む。


「あ、佐藤さん。例の泥の件なんですけど…」


 蓮はノートを開き、比較した粒度のメモを見せた。


「大げさな分析じゃないんですが。理科部の子に教えてもらった簡単な方法で、粒の大きさと混ざってる砂の種類を比べてみました。そうしたら、樹の靴の泥は河川敷のものと少し違って見えたんです」


 佐藤は感心したように頷いた。


「なるほどな。しかし、よくここまでやるな。普通の中学生じゃ思いつかないぞ」


 蓮は少しだけ照れたように笑った。


「樹のことだから…何か理由があったんじゃないかって。もし、どこか別の場所に寄っていたなら、その場所を特定できれば、事件の流れがもっとはっきりすると思って」


 佐藤は蓮のノートを見つめ、その几帳面な字と細かい観察に目を細めた。


「お前は本当に、樹くんのことをよく見ていたんだな」


 蓮は視線を落とし、静かに答えた。


「僕は…ただ、知りたいだけなんです。樹が最後に何を考えていたのか。どこへ向かおうとしていたのか。それを知ることが、僕にできる唯一のことだから」


 佐藤はしばらく黙って蓮を見つめ、やがて優しく肩に手を置いた。


「無理はするなよ。蓮くん。お前の気持ちはよく分かった。だが、これは警察の仕事だ。危ないことには首を突っ込むな」


 蓮は小さく頷いた。


「はい。分かっています」


 佐藤が理科室を出ていくと、蓮は再び顕微鏡に目を落とした。


 佐々木の起訴が正式に決定したという報せは、どんよりとした曇り空の下、放課後の生徒会室で届いた。


「一ノ瀬くん、聞いたよ。本当によかったね」


 生徒会長の言葉に、蓮は持っていた資料を机に置き、深く、長く吐息を漏らした。その姿は、憑き物が落ちたような安堵感に満ちていた。


「ありがとうございます。でも、よかったなんて、僕が言っていい言葉じゃないのかもしれません。樹は…もう戻ってこないんですから」


「そんなことないわ。君が執念で見つけたあの廃工場の証拠が、決定打になったんだって」


 蓮は力なく微笑み、窓の外を眺めた。


「僕はただ、あいつが最後に独りぼっちじゃなかったって証明したかっただけなんです」


 その日の帰り道、蓮は美月と一緒に事件現場となった河川敷へと向かった。


「ねえ、一ノ瀬くん。事件、本当に解決したんだよね」


 美月が、手向けられた花を整えながらポツリと呟いた。


「どうしたの? 佐々木さんは罪を認めてはいないけど、証拠はあんなに揃っている。警察も、検察も、疑いようがないって」


「ううん、そうなんだけど。ただ、時々思うの。あの日、私が樹くんからの電話に出られていたら、何て言われたのかなって。犯人の佐々木さんがかけたんだとしても、どうして私だったんだろうって」


 蓮は美月の隣にしゃがみ込み、静かに彼女の横顔を見つめた。


「浅倉さん。それはきっと、佐々木さんが君を揺さぶろうとしたんだよ。樹が大切に思っていた君に、わざと絶望を味わわせるために。卑劣な奴の考えることなんて、僕たちが理解する必要はないよ」


 蓮の手が、美月の震える拳を優しく包み込んだ。


「一ノ瀬くんは、本当に揺るがないね。私、一ノ瀬くんがいなかったら、今頃どうなっていたか分からない」


「僕もだよ、浅倉さん。君が僕を信じてくれたから、僕は最後まで樹のために動けたんだ」


 二人は夕闇に沈む川面を、いつまでも眺めていた。


「そろそろ行こうか。風が冷たくなってきた」


 蓮は立ち上がり、彼女を促した。その足元には、廃工場から持ち帰った泥が河川敷の土と混じり合うように踏みしめられていた。


 街灯が一つ、また一つと灯り始める。


「一ノ瀬くん、明日も学校行くよね?」


「もちろん。明日からは、少しだけ前を向いて歩ける気がするよ」


 蓮は、晴れやかな笑顔を彼女に向けた。

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