第2話 影が伸びる頃
警察署の廊下は、放課後の校舎よりも冷え切っていた。佐藤刑事が、難しい顔で資料をめくりながら二人の前に現れた。
「蓮くん、それに浅倉さん。急にどうしたんだ」
「佐藤さん、これを見てください」
蓮は美月から預かったメモを差し出した。雨に濡れた指先が、わずかに震えている。
「樹の机の下で見つけたんです。彼は、誰かに怯えていた。浅倉さんも一緒に見てくれました」
佐藤はメモに目を落とし、鋭く目を細めた。
「『あいつが来る』、か。浅倉さん、君もこれを見たんだね」
「はい。樹くん、最近ずっと様子がおかしかったから。私、もっと早く気づいてあげられれば」
美月が俯き、肩を震わせる。蓮はその横であえて少し迷うような素振りを見せてから、意を決したように口を開いた。
「佐藤さん。実は、言えていなかったことがあります。事件の日の夜、僕は佐々木さんが、樹と似た格好の誰かと駅の裏で言い合っているのを見ました。確信が持てなくて黙っていたんですけど、このメモを見て…もう、黙っていられなくなりました」
佐藤の表情が、これまでにないほど険しくなった。
「蓮くん、それは重大な証言だ。よし、わかった。二人とも、詳しく話を聞かせてくれ」
別々の部屋で事情聴取が行われた後、蓮はロビーのベンチで美月を待っていた。しばらくして出てきた彼女は、ひどく疲れ切った顔をしていた。
「一ノ瀬くん、大丈夫だった?」
「うん。ありのままを話したよ。浅倉さんは?」
「私も。でも、警察の人佐々木さんの名前を出した瞬間に顔色が変わった気がする。本当に、佐々木さんがやったのかな」
「わからない。でも、証拠がこれだけ揃っているんだ。警察も動かざるを得ないと思う。樹のためにも、真実が明らかになってほしい」
蓮は自販機で買った温かいココアを美月に手渡した。
「ありがとう。一ノ瀬くんって、本当に優しいね。樹くんがあなたのことを『最高の友達だ』って言ってた理由、わかる気がする」
「最高の友達、か」
蓮はココアの缶を見つめ、寂しげに目を細めた。
「あいつには、もっと色んな景色を見せてあげたかった。勉強ばっかりの僕を、いつも外に連れ出してくれたのは樹だったから」
その言葉に、美月は再び涙を浮かべた。
「行こう。送っていくよ。もう暗いから」
蓮は立ち上がり、美月の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。その背中は、亡き親友への正義を背負った少年の気高さを湛えていた。
放課後の廊下を歩く蓮の耳に、静かなざわめきが届いた。
「佐々木さん、本当に捕まったんだ」
「今朝、陸上部の更衣室から連行されるのを見たやつがいるって」
蓮は歩みを止めることなく、ただ俯いて、大切そうに抱えた樹の形見の本を強く握りしめた。その姿は、あまりにも痛々しく、ようやく仇が捕まったという安堵に耐えているように見えた。
「一ノ瀬くん!」
背後から駆け寄ってきたのは、美月だった。彼女の顔には、この数日間にはなかった高揚感と、それ以上に複雑な色が混じっていた。
「聞いた、佐々木さんのこと。一ノ瀬くんが勇気を出して証言してくれたおかげだね」
「僕のおかげじゃないよ。樹が、あのメモを残してくれていたからだ」
蓮は静かに美月を見つめ、少しだけ困ったような、寂しげな笑みを浮かべた。
「でも、これで本当に良かったのかな。佐々木さんが捕まっても、樹はもう戻ってこない。僕昨日の夜、ずっと考えてたんだ。もし僕がもっと早くあのメモを見つけてあげていれば、あいつはまだ隣で居眠りしてたんじゃないかって」
「そんなこと言わないで。一ノ瀬くんは、誰よりも樹くんのために動いてた。それは私が一番よく知ってるよ」
美月は、自分よりも深く傷ついているはずの蓮を励まそうと必死に言葉を紡いだ。蓮はその言葉を一つ一つ噛みしめるように頷き、窓の外を見つめた。
「ありがとう。ねえ、浅倉さん。今日、これから一緒に樹の家に行かないかな。あいつの両親に報告してあげたいんだ。犯人が捕まったこと、そして。あいつが最期まで、正義を信じて戦っていたことを」
「うん。そうだね。行こう」
樹の家に向かう道中、二人は思い出話を語り合った。
「樹くん、言ってたよ。一ノ瀬は頭が良すぎて、時々遠くに行っちゃいそうに見えるけど、一番優しいんだって」
「あいつ、そんな勝手なことを。僕の方こそ、あいつの純粋さに救われてたんだ。あいつといる時だけは、難しいことを考えずに済んだから」
蓮のその言葉は、初夏の風に溶けて、どこまでも誠実に響いた。
その夕方、樹の仏壇の前で、蓮は深く、長く頭を下げた。肩が小刻みに震えている。樹の両親は、そんな蓮の背中を涙を流しながら何度もさすった。
「蓮くん、本当にありがとう。あなたがいてくれて、樹も報われるわ」
「いえ。僕は、やるべきことをやっただけですから」
蓮が顔を上げたとき、その瞳は涙で潤んでいた。
帰り際、蓮は玄関先で樹の父親に呼び止められた。
「蓮くん、これ。樹の部屋を整理していたら出てきたんだ。君に渡してくれって、あいつの机の裏に貼り付けてあった」
手渡されたのは、小さな封筒だった。蓮は、それを震える手で受け取った。
「開けてもいいですか」
「ああ。あいつから、君へのメッセージだろう」
蓮が封筒を開けると、中には一枚の紙が入っていた。そこには、樹の筆跡で、たった一行。
『一ノ瀬、お前だけは、俺を裏切らないって信じてる。』
蓮はその紙を見つめたまま、凍りついたように動かなくなった。美月が隣からその内容を覗き込み、声を詰まらせて泣き出した。
「樹、バカだな。裏切るわけないだろ。僕たちがずっと友達だってこと、忘れたのかよ…」
蓮の声は掠れ、紙の上に一滴の涙が落ちた。彼はその紙を大切そうに畳み、胸のポケットにしまった。
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