第48話「終わったと思いましたか?」
【6日目・潤視点】
事件は終結した。法廷の扉が閉まり、廊下を満たしていた騒音と緊張は、潮が引くように消えていった。伊藤直樹という人間が残した悪意の残滓が空気中に漂い、やがて消えていくようだった。弁護士として数多くの事件を扱ってきたが、今回ほど個人的な感情が絡み、依頼人の安全が脅かされたことはなかった。長く、そしてひどく消耗する戦いだった。
私はゆっくりと息を吐いた。肺を満たしているのは安堵ではなく、濃い疲労感だった。法廷で伊藤に吐いた言葉は、計算されたものではない。長年抑え込んできた、あるいは自分自身でも認識していなかった怒りの断片だったのかもしれない。彼を「寄生虫」と呼んだ瞬間、私は弁護士・竹山潤ではなく、一人の人間として彼を裁きたかっただけなのだ。
💭潤|「もう、すべてを元の場所に戻す時だ」
ネクタイを少し緩め、左右に立つ二人の女性を見た。長谷川恵。そして西原詩彩。本来なら何の接点もなかったはずの二人が、一人の男によって地獄を経験し、そしてその男によってこの場に並んで立っている。彼女たちの表情には様々な感情が交錯していた。虚脱感、解放感、そして私へ向けられる複雑な視線。
その意味を理解できないわけではない。事件の過程で、私たちは依頼人と弁護士という公的な関係を越えてしまった。命の危険を共に越え、互いの最も脆い部分を見てしまった。その積み重なりが、三人の間に重く沈んでいる。
しかし私は弁護士だ。感情に流され、依頼人との境界を曖昧にしてはならない。それは、長谷川に拒絶された後、自分に課した厳しい原則でもあった。事件が終わった以上、私は自分の場所へ戻らなければならない。
私は二人に軽く頭を下げた。
💬潤|「お二人とも、本当にお疲れさまでした。これで全ての裁判は終了です。詳細な今後の手続きについては、事務所で改めてご案内します」
事務的で、極めて公的な言葉。私は意識的に距離を置いた。彼女たちもそれぞれの日常に戻り、この厄介な事件の後遺症を癒し、新しい生活を始めるべきだ。そこに私が深く関わるべきではない。
💬潤|「私は先に事務所へ戻ります。気持ちを整理して、今日はゆっくり休んでください」
それ以上は言わず、二人に背を向けて廊下を歩き出した。コツ、コツ、と靴音だけが空虚な廊下に響く。背後から感じる視線が見えない糸のように背中を引いていたが、私はそれを振り切るように歩を進めた。過去の傷が私を強くしたように、彼女たちもまたこの試練で強くなるだろう。そう信じることにした。
私の役目はここまでだ。少なくとも、そうでなければならなかった。
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【6日目・詩彩視点】
コツ、コツ、コツ……
彼の靴音が、がらんとした廊下に冷たく響いた。遠ざかっていく背中が、まるで私たちの間に巨大な壁を築いていくように感じられた。「お疲れさまでした」「ゆっくり休んでください」。それは弁護士が依頼人にかける形式的な挨拶。ついさっきまで一緒に戦った仲間に、命を救ってくれた相手に向ける言葉としてはあまりにも乾いていて事務的だった。
💭詩彩|「線、引いてるわけ?」
呆れて、思わず笑いが漏れた。事件が終わったからもう用はないってこと?私たちが経験したことが、ただの書類上の「事件番号」に過ぎないって言うの?伊藤直樹というクズのせいで壊れかけた人生も、彼を救うために身を投げたことも、長谷川さんがトラックの前に飛び出したことも、全部「業務の一部」で片づけるつもりなの?
寂しさが波のように押し寄せた。でもその感情はすぐに意地へと変わった。そうだ、この人はそういう人だ。感情に流されず、公私を鋭く切り分ける冷徹な弁護士。でも竹山潤、あなたはまだ知らない。私は一度決めたことは絶対に諦めない女だということを。
私は遠ざかる背中に向かって、迷わず声を上げた。隣の長谷川さんの視線なんて気にしている余裕はなかった。ここで引いたら、すべて終わってしまう気がした。
💬詩彩|「お兄ちゃん!」
彼がぴたりと足を止めた。しかし振り返らない。私は彼へと歩み寄りながら言葉を続けた。これは私の意志の表明であり、新しい関係の始まりを告げる宣言だ。
💬詩彩|「私、工場辞めます。そしてお兄ちゃんの事務所で働きたいです。助手にしてください」
これは衝動じゃない。昨日の夜、伊藤直樹を追っていた時、そして今日の法廷で彼の戦いを見て決めたことだ。私はもう油の匂いのする工場でベルトコンベアを眺めて生きたくない。この人のように、不条理と戦い真実を守る人生を送りたい。そして何より、彼のそばにいたい。
私は彼のすぐ背後で立ち止まった。それでも振り向かない背中が少しだけ憎らしい。でも、引くつもりはなかった。
💬詩彩|「依頼人と弁護士の関係は終わりですよね。でも、これで終わりだなんて思ってません。これは新しい始まりです。返事、もらえるまで帰りません」
私は腕を組み、彼の返事を待った。ボールはもうあなたの方にあるよ、竹山潤。あなたが作ったその固い壁、私が一度越えてみせるから。
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【5日目・恵視点】
竹山潤の冷静な言葉と、遠ざかっていく背中に、胸がどくんと沈んだ。「これで全ての裁判は終わりました。」その言葉は、私たちの間にあった全ての繋がりを断ち切る判決のように聞こえた。そうだ、彼はもう私と関係のない人間になろうとしているのだ。依頼人と弁護士。その役割が終わったのだから、それぞれの人生に戻るべきだという無言の警告。私は彼が作った見えない壁の前で、何も言えないまま固まっていた。
その時だった。沈黙を破ったのは西原詩彩の鋭い声だった。
「お兄ちゃん!!」
私は驚いて彼女を見た。彼女は一切の迷いもなく竹山潤へと歩いていく。「工場を辞める」「アシスタントとして雇ってほしい」という彼女の宣言は、単なる就職の意思ではなく、強い意志の表明だった。私はその堂々とした姿から目を離せなかった。まるで一つのドラマを見ているように、全てが一瞬で動いていく。
💭恵|「すごい……あの人は……。」
嫉妬より先に、純粋な感嘆が浮かんだ。彼女は自分の欲しいものを正確に理解し、それを得るために行動できる人間だった。伊藤直樹に騙された時も、真実を暴くために自ら動いた。そして今、彼女は竹山潤という新しい目標に向かって再び踏み出している。
それに比べて私は?私はいつも誰かに選ばれることに慣れていた。伊藤直樹が近づいてきた時も、竹山潤が私を守ってくれた時も、私は与えられた状況の中で最善を尽くして反応するだけだった。自分から何かを掴みに行った記憶は、遥か遠くにある。
しかし……もう違う。
西原詩彩の真っ直ぐな宣言は、私の中で眠っていた何かを目覚めさせた。競争心。そして忘れていた一つの記憶。昔、桜が舞う校庭で、あどけない少年が照れながら告げた言葉。その時私はその気持ちに応えられなかった。でももし、今なら。十年の時を越えて、その時の答えを今返せるなら。
私はゆっくりと二人の方へ歩み出た。西原詩彩が彼の背中に答えを待っており、竹山潤はまだ振り返らずに立ち尽くしている。その緊張した対峙の中に、私が入る番だった。
私は竹山潤の横に立ち、西原詩彩と彼を正面に見る位置についた。そして彼の視線をまっすぐ見つめながら、人生で一番勇気を出した声で言った。
💬恵|「竹山君。昔……あなたが私に言ったこと、覚えてる?」
彼の肩がわずかに揺れたのが分かった。西原詩彩の視線が鋭く私に向けられる。
💬恵|「あの時は答えられなかったけど……今でもいいなら、その答えを返したい。」
それは過去への未練ではない。失われた時間を取り戻す愚かな試みでもない。彼を尊重し、自分を守ってくれたこの男性を、自分の力で掴みたいという、私にとって初めての能動的な宣言だった。西原詩彩が未来への宣戦布告をしたのなら、私は私たちが共に過ごした過去から続く縁の糸をもう一度掴み直すことで、この健全な恋の競争に踏み出すことにした。
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