第25話「詩彩ちゃん」

【3日目・潤視点】


アスファルトの冷たい感触が、背中越しに伝わってきた。数秒前まで何事もなく立っていたはずの場所。視界に入ったのは、荒い息を吐きながら私を見下ろす西原詩彩の顔、そしてその向こうに破片のように散らばった赤いレンガの欠片だった。耳の奥では、まだ「ドン」という鈍い破裂音が反響している。


一瞬の衝撃で停止していた思考回路が、再び接続されていく。状況は明白だった。誰かが私を殺そうとし、彼女がそれを止めた。昨夜、「殺してやる」と低劣な文面を送ってきた“伊藤直樹”の顔が浮かぶ。それは単なる脅迫ではなかった。彼の狂気はすでに理性の領域を逸脱し、現実の殺意へと変質している。


私の上で荒い呼吸を繰り返す彼女の肩が、小刻みに震えていた。恐怖に染まった瞳。しかしその奥には、それだけではない感情があった。私を守れなかったかもしれないという安堵と怒りが混ざり合っている。彼女は自分の依頼人を守るため、一切の迷いなく身を投げ出した。昨夜「勇気」について語ったのは私だったが、今朝その言葉を体現したのは彼女の方だった。


私は上体を起こし、彼女の腕を取った。まだ温もりの残るレンガの破片が、朝の光の中で不気味に光っている。


💬潤|「……大丈夫ですか、西原詩彩さん。」


声は思ったより掠れていた。彼女はそれに首を振り、むしろ私の状態を気にしているようだった。


💬詩彩|「オッパの方こそ……大丈夫ですか? 頭、打ってないですか? もう少し遅かったら……!」


声の端が震えている。「オッパ」。昨夜のメッセージでの「弁護士先生」とは明確に違う呼称だった。その一言に含まれる距離の変化と感情の揺れは、決して軽いものではない。彼女は単なる依頼人ではなく、この理不尽な戦いの最前線に立つ同志となったのだ。ならば私もまた、彼女への向き合い方を変える必要がある。それは彼女の信頼と勇気への応答だった。


💭潤|「西原さんじゃないな……もう。」


私は彼女の肩に手を添え、軽く支えながら立たせた。彼女の身体はまだわずかに震えている。これは単なる慰めではない。死の境界線から共に戻ってきた者としての連帯感、そして彼女を必ず守るという弁護士として、人としての新たな責任の自覚だった。


💬潤|「私は大丈夫です。あなたのおかげで。」


彼女の背を軽く叩きながら続ける。


💬潤|「大丈夫ですよ、詩彩ちゃん。もう大丈夫です。」


彼女を支えながら立ち上がると、砕けたレンガと静まり返った屋上を見渡した。怒りは不要だ。今必要なのは冷静な判断と迅速な対応だ。伊藤直樹はもはや法廷の相手ではない。我々に直接的な危害を加える明白な犯罪者である。この事件は、すでに新たな局面へと移行していた。


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【2日目・詩彩視点】


私を支えて立たせる彼の手からは、確かな力が伝わってきた。高鳴っていた心臓が少しずつ落ち着いていくかと思えば、耳元で低く響いた彼の声に、また激しく反応してしまう。


「詩彩ちゃん」


その一言が、まるで呪いのように私のすべての感覚を奪っていった。西原さん。いつも距離を置き、公私を明確に分けていた彼が、私を……詩彩ちゃんと呼んだ。昨夜のメッセージで得た勇気とはまた違う、もっと熱くて強い何かが胸の奥から込み上げてくる。単なる呼び方の変化ではない。これは私を、ただの依頼人ではなく、共に危険に向き合う対等な存在として認めてくれた証だ。私の勇気ある行動への返答だった。


さっきまで私を押し潰していた死の恐怖は消え、その代わりに熱い決意が満ちていく。もう後には引けない。あのクズ野郎は、もはや法廷で相手にするだけの存在ではない。オッパを、私に唯一手を差し伸べてくれたこの人を傷つけようとした怪物だ。ならば、私が守らなければならない。


💬詩彩「……オッパ、それは絶対あいつの仕業です。伊藤直樹……! 昨日私にしたことを考えれば、間違いありません!」


私は震える声を押さえ込みながら、彼の腕を掴んだ。証拠はない。屋上で見たのは一瞬の黒い影だけ。しかし直感と全身の細胞が叫んでいた。これは直樹の狂気だと。感情のゴミ箱として扱ってきた相手から、今度は自分の前に立つものすべてを物理的に排除しようとする狂人の暴走だと。


💬詩彩「警察に……通報を……!」


しかし言いかけて、気づく。証拠がない。屋上での出来事など、悪戯や事故だと片づけられてしまうだろう。直樹はきっとまた言い逃れる。怒りで唇が乾く。その時、彼が私の肩を軽く押さえ、落ち着かせた。その目は恐怖でも怒りでもなく、氷のように冷たい理性で満ちていた。


💬潤「落ち着いてください、詩彩ちゃん。今通報しても状況証拠だけだ。むしろ奴に警戒されるだけです」


冷たい言葉なのに、不思議と安心した。


私は彼の目を見て決意する。今日は工場には行けない。いや、行ってはいけない。あの狂人がまた何をするかわからない状況で、彼を一人にするわけにはいかない。私がそばにいなければ。


💬詩彩「オッパ、今日工場行きません。いや、行けません。あいつがまたオッパを狙うかもしれない。今日は私、オッパのそばにいます。私が守ります」


それはもう、弁護士と依頼人の関係ではなかった。命がかかった問題だ。


私は、私の人生を救ってくれたこの人を、今度はすべてを懸けて守ると誓った。

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