第8話「外道」
【過去・直樹視点】
冷たい夜の空気が肺の奥まで入り込んで、ようやく息ができる気がした。
エレベーターが一階に着き、マンションの玄関を出た瞬間、俺はまるで別人になったような気分だった。
背後には、うんざりする現実。
子どもの泣き声。
そして、疲れきった恵の顔。
その代わり、目の前には高揚感と解放感、そして新しい可能性が広がっていた。
待ち合わせ場所の繁華街へ向かいながらタクシーを拾う。
ポケットの中で、恵から受け取った金が心地よく擦れる音を立てた。
この金で詩彩に少し洒落た夕食を奢ってやる。
それから、自分のしんどい事情を打ち明けて慰めてもらう。
これは裏切りなんかじゃない。
もっと大きく前に進むための、ほんの一時の休息だ。
俺は何度もそう自分に言い聞かせた。
待ち合わせのワインバーに着くと、詩彩が窓際の席でこちらに手を振っていた。
明るい照明の下で、青いショートヘアが妙に映えている。
工場で働いている女には見えないほど洗練されていて、生き生きとしていた。
家に置いてきた恵とは、何もかもが対照的だった。
💬詩彩|「直樹さん! こっちです! もう、けっこう待ったんですよ?」
その明るい声を聞いた瞬間、ここしばらく俺を押しつぶしていたストレスが、雪みたいに溶けていく気がした。
俺は気まずそうに笑いながら、彼女の向かいに腰を下ろした。
💬直樹|「ごめん、ごめん。ちょっと遅れたな。家出る前に少し用事があってさ。」
もちろん“用事”っていうのは、恵から金を引き出すことだった。
だが、詩彩にはただの“家のこと”くらいにぼかしておいた。
彼女は疑いもなく信じたようだった。
💬詩彩|「ううん、大丈夫です。……それより、何か大変なことあったんですか? メッセージ見て心配しちゃって。直樹さんみたいなすごい人が悩むなんて、想像つかないです。」
――これだ。
詩彩は俺を“すごい人”として見てくれる。
ちゃんと俺の本質をわかってる。
俺は待ってましたとばかりに、用意していた台詞を口にし始めた。
💬直樹|「はぁ……聞いてくれよ。最近、何やっても噛み合わなくてさ。世の中、俺以外は全部うまく回ってるみたいなんだよ。力を発揮したいのに、周りの環境が全然追いついてこない。誰も俺のこと理解しないし……ただ締めつけてくるだけで。」
できるだけ孤独で痛々しい表情を作った。
もちろん、妻や子どもの話は一切出さない。
今の俺はただ――
世間の無理解の中でもがく、不遇の天才だった。
💬詩彩|「やっぱり……。そんな気がしてました。直樹さんって、見ればわかりますもん。普通の人じゃないって。そういう人ほど、周りに妬まれたりするんですよね。大丈夫。私がいますから。今日は何も考えないで、全部吐き出してください。ちゃんと聞きます。」
そう言って、彼女は俺を優しく見つめながら、そっと俺の手の甲に自分の手を重ねた。
柔らかくて、温かい。
苛立ちと責任しか残っていない恵の手とは、まるで違った。
俺はそのぬくもりに酔うように、恵からもらった金で高いワインとステーキを注文した。
無駄遣いじゃない。
精神を安定させるための投資だ。
もっと大きな成功のための、必要経費。
俺はグラスを合わせて、この夜を楽しむことにした。
酒が回るにつれて、押し込めていた自信が戻ってくる。
――そうだ。
本来の俺はこういう人間だった。
高級なワイン。
落ち着いた照明。
そして、俺を憧れの目で見つめる綺麗な女。
忘れかけていた自分の価値を、取り戻した気分だった。
俺はワイングラスをくるりと回しながら、秘密を打ち明けるように声を潜めた。
💬直樹|「実はさ……今考えてる事業のアイデアがあるんだ。まだ詳しくは言えない。でもこれが動き出したら、日本の経済が一回揺れるくらいの話になる。……ただ、ほら。時代を先に行きすぎる人間って、いつだって孤独だろ? みんな理解できなくて、むしろ危ないって止めようとしてくる。」
もちろん、そんな事業なんて存在しない。
でも、詩彩の目が輝くのを見ると、
本当に何かある気がしてきた。
💬詩彩|「すごい……! やっぱり直樹さんって特別なんですね。みんなに見えないものが見えてるんだ。そんな人たち気にしなくていいですよ。絶対成功します。私、保証します。」
その言葉は、甘い蜜みたいに耳に染み込んだ。
家で恵から聞く小言とはまるで違う。
魂が癒やされる音だった。
俺はその勢いのまま、さらに話を大きくした。
海外投資家との極秘の接触。
俺を引き抜こうとする大企業。
それを断ってまで自分の道を行く孤高の天才。
俺は完璧な役者になっていた。
たった一人の観客――詩彩のために。
どれくらい時間が経っただろう。
ワインのボトルは空になり、
俺たちは頬を赤く染めながら向かい合っていた。
気づけば詩彩は隣に移っていて、
近くから香る淡い香水が理性を鈍らせる。
💬詩彩|「直樹さん……ほんとに素敵です。どうしてこんなに素敵な人が一人なんだろう。」
――一人。
その言葉が胸に刺さった。
そうだ。
少なくとも、彼女の前では俺は“ひとり”だった。
俺は苦く笑いながら、彼女の髪をそっと撫でた。
💬直樹|「……いい人はいたよ。でも少し前に別れた。あいつ、俺を縛ろうとしてたんだ。愛情って名前で、俺の羽を折ろうとしてた。だから……俺から手放した。」
恵のことを思い浮かべながらついた嘘だった。
だが口にすると、妙にしっくりきた。
――そうだ。
恵は俺の羽を折ろうとしてる。
俺の自由も可能性も、嫉妬してるんだ。
詩彩はすぐに感情移入したように眉を寄せた。
💬詩彩|「そんな……ひどい女。直樹さんの価値がわからなかったんですね。私なら……もっとちゃんとできるのに。」
言葉を濁しながら、彼女は俺の肩にそっと頭を預けた。
俺は待っていたように、その体を抱き寄せる。
柔らかな感触。
温かな体温。
疲れた俺へのご褒美だと思った。
そして耳元で囁く。
💬直樹|「詩彩……君なら、俺を理解してくれそうだ。」
これは浮気じゃない。
傷ついた魂同士の共鳴だ。
そう自分に言い聞かせながら、
俺は彼女の唇へ顔を寄せた。
外での俺は、まだ魅力があって、成功できて、
女に求められる男だった。
家の中の現実なんて――
この瞬間だけは、きれいに忘れられた。
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