第7話「合理」

【過去・直樹視点】


……くそ。頭が割れそうだ。


昨夜飲みすぎた酒が、まだ胃の中で揺れているようだった。酒と煙草のこもった臭いをまとったまま玄関の扉を開ける。外で朝まで飲んで騒ぐのは楽しかったのに、この忌々しい家に帰った瞬間、また全部が地獄に戻る。


案の定、やつれた顔の恵がこちらを睨んでいた。


💭直樹|「……あぁ、また始まった。」


恵の口から出る言葉は予想どおりだった。子どもの具合が悪かっただの、どこへ行ってたのだの。


本当にうんざりする。


赤ん坊が熱を出したくらいで、何をそんなに騒ぐんだ。病院に連れて行けば済む話じゃないか。なんで全部俺の責任みたいな顔をするのか、理解できなかった。


💬直樹|「子どもが具合悪いの、俺のせいなのか? 病院に連れて行けばいいだろ。家に閉じこもってると息が詰まるんだよ。お前と子どもの泣き声のせいでストレス溜まって、仕事だってうまくいかねぇんだよ!」


苛立ちが頭の先まで込み上げて、思わず声を荒げた。


別に間違ったことは言ってない。


俺が今どれだけ苦労してると思ってるんだ。


この狭い家で、赤ん坊の泣き声と妻の小言を聞きながら、成功の準備をしなきゃいけない俺の身にもなってほしい。


外に出て人と会って、人脈を作って、情報を集める。大きなことを成すには必要なことだ。


なのに恵は何も分かってない。


金、金、金。


子ども、子ども、子ども。


息が詰まりそうだった。


恵はショックを受けたような顔をしていた。


……なんでだよ。


俺、間違ったこと言ったか?


結婚前の恵は素直だった。俺の言うことを信じて、ちゃんとついてきた。


だから楽だったし、だから結婚した。


妻っていうのは、夫が外で大きなことをするために、静かに支えて安心できる場所を作るものじゃないのか。


なのに今のこの家は安らぎじゃない。


牢獄だ。


俺はもう相手にする価値もないというように部屋へ入り、ベッドに体を投げ出した。


リビングから恵が静かに泣いている気配がしたけど、知ったことじゃない。


今は自分のことで手一杯だ。


この焦りも不安も、俺のせいじゃない。


力を発揮する機会すら与えない社会と、俺を理解しない妻のせいだ。


そうして横になっていると、不意に強い倦怠感が押し寄せた。


恵の顔。


恵の体。


この家の空気。


全部がうんざりするほど重かった。


付き合っていた頃の高揚感なんて、どこへ行ったんだろう。


毎日同じ景色、同じ小言。


こんな生活なら、男なら誰だって浮気したくなる。


……そうだ。


これは俺が悪いんじゃない。


生きるための本能みたいなものだ。


新しい刺激。


俺を尊敬して、ちゃんと話を聞いてくれる女。


俺を慰めて、この最悪な現実から少しだけ逃がしてくれる存在。


その時、ふと一人の女の顔が浮かんだ。


この前、友達との飲み会で偶然知り合った工場勤めの女。


……詩彩、だったか。


明るく笑って、俺の話にもよく笑ってくれた。


今の恵とは全部が違った。


生き生きしていて、まるで俺を“大した男”みたいに見てくれた。


……詩彩。


あいつなら、俺を分かってくれるかもしれない。


俺は布団の中でこっそりスマホを取り出し、詩彩の番号を探した。


『詩彩さん、この前会った直樹です。もし今日の夜時間あったら会えませんか? ちょっとしんどいことがあって……慰めてほしくて。』


迷わず送信を押した。


これは浮気じゃない。


ただ……成功のための小さな活力だ。


家庭を壊すつもりなんてない。


恵に埋められないものを、外で埋めるだけ。


俺はちゃんと理性的な男だ。


スマホを布団の下に隠してじっとしていると、心臓が妙に速く鳴っていた。


罪悪感?


違う。


これは、期待だ。


閉じた世界に小さな窓が開いたような気分だった。


すぐにスマホが短く震えた。


詩彩からだった。


📱詩彩|「はい、直樹さん! 私は大丈夫ですよ。ちょうど今日は早く終わるので。どこで会いましょうか? 大変なことって……心配です。私でよければちゃんと聞きますよ。」


画面を見た瞬間、自然と口元が緩んだ。


やっぱり詩彩は違う。


ちゃんと心配してくれる。


話を聞こうとしてくれる。


恵みたいに責めたりしない。


……これだ。


俺が欲しかったのは。


そのままの俺を認めて、慰めてくれる存在。


俺は勢いよく起き上がってクローゼットを開けた。


数少ない服の中から、一番まともなシャツを引っ張り出す。


……でも問題があった。


金だ。


詩彩に会うなら金が要る。


せめてそれなりの店で飯くらい奢って、まだ俺はやれるって見せたい。


でも財布は空だった。


方法は一つしかない。


俺はできるだけ疲れた顔を作ってリビングへ戻った。


恵は相変わらずソファでぼんやり座っていた。


子どもは眠ったらしい。


💭直樹|「……タイミングいいな。」


俺はそっと隣に腰を下ろし、大きくため息を吐いた。


💬直樹|「はぁ……ほんと、何もうまくいかねぇな。」


恵がゆっくり顔を向けた。


その目にはもう期待も責める色もなかった。


でも関係ない。


今必要なのは感情じゃない。


財布の中身だ。


💬恵|「……どうしたの。また何かあったの?」


声に力がなかった。


俺は待っていたように続けた。


💬直樹|「明日、大事な面接が入ったんだ。ヘッドハンターから連絡来てさ、かなりいい会社で。でも……この格好じゃどうにもならないだろ。人に会って情報集めるにも飯の一つくらい奢らないとだし……財布には何も入ってなくて。」


俺は視線を落として古びたズボンを見た。


演技だった。


でも悔しさは本物だった。


本来なら、俺はもっと評価されるべき人間なんだ。


全部、噛み合ってないだけだ。


少し沈黙が流れた。


恵は黙って俺を見て、それから立ち上がって部屋へ入った。


しばらくして財布から数枚の札を取り出し、俺に差し出した。


💬恵|「……これしかないです。必要なもの買ってください。面接……頑張ってきて。」


俺は金を受け取った。


想定どおりだった。


でも、少しだけ妙な気分になった。


罪悪感?


……いや、違う。


これは当然のことだ。


俺が成功すれば全部返せる。


これは俺への投資であり、この家庭への投資でもある。


そう自分に言い聞かせながら、札をポケットに押し込んだ。


💬直樹|「……あぁ。ありがとな。絶対成功して、お前の苦労も終わらせるから。」


気まずさをごまかすように恵の肩を軽く叩いて、そのまま玄関へ向かった。


後ろで恵が何か言いかけた気がした。


でも聞きたくなかった。


頭の中はもう詩彩のことでいっぱいだった。


この息苦しい家を出て。


俺を慰めてくれる彼女のところへ。


扉を閉めた瞬間、胸の奥に深い解放感が広がった。

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