ぼちぼち、という嘘

春風あくび

第1話 ぼちぼち、という嘘



雨は、閉店後になると強くなる。


昼間より、 夜のほうが静かだからかもしれない。


商店街のシャッターは半分以上閉まっている。


古いアーケードの天井を叩く雨音だけが、 細く長く響いていた。


彼は店の鍵を閉める。


小さな古着屋だった。


駅から少し離れていて、 客は多くない。


それでも、 彼はこの店を好きだった。


好きな服を並べて、 好きな音楽を流して、 好きな空間を作る。


それだけで生きていけると思っていた。


少なくとも、 数年前までは。


「お疲れさま」


向かいの自販機の横で、 彼女が笑う。


白い傘を持っている。


「待ってたの?」


「ちょっとだけ」


彼女はそう言って、 コンビニの袋を持ち上げた。


「肉まん、まだあったから」


彼は少し笑う。


「ありがとう」


湯気が、 雨の中で白く消える。


二人はアーケードを並んで歩く。


肩は触れない。


付き合って三年。


触れなくても、 歩幅だけは自然に合う。


「今日、暇だった?」


彼女が聞く。


「まぁ……ぼちぼち」


その“ぼちぼち”が、 最近どれくらい危うい言葉なのか、 彼女は知っていた。


レジの金額。


家賃。


仕入れ。


光熱費。


彼が夜中に一人で電卓を叩いていることも。


知っている。


だから彼女は、 それ以上聞かない。


昔は、 夢を語る彼が好きだった。


小さくてもいいから、 自分の店を持ちたい。


誰かの流行じゃなく、 自分の好きなものを置きたい。


語るたび、 彼の目は少年みたいに光っていた。


彼女は、 その目を見るのが好きだった。


でも夢は、 生活になると形が変わる。


「ねえ」


信号待ちで、 彼女が前を向いたまま言う。


「ん?」


「最近さ」


赤信号が、 雨粒で滲んでいる。


「ちゃんと寝てる?」


彼は笑う。


「寝てるよ」


嘘だった。


彼女は気づいている。


でも、 見抜かないふりをした。


その優しさが、 最近は少し苦しい。


横断歩道を渡る。


コンビニの灯りが、 濡れた道路に伸びている。


彼は肉まんを半分に割る。


「はい」


「ありがと」


彼女は受け取る。


温かい。


その温度だけで、 泣きそうになる夜がある。


「……ねえ」


今度は、 彼のほうが口を開いた。


「もしさ」


彼女は黙って聞く。


「俺じゃなかったら、 もっと楽だったかな」


彼女の足が止まる。


雨音だけが続く。


彼は前を向いたまま、 小さく笑った。


「ごめん。 変なこと言った」


彼女はすぐに答えられない。


違う、 と言いたかった。


でも、 本当に違うのか、 分からなくなっていた。


好きだった。


今も好きだった。


だからこそ、 苦しかった。


彼が夢を諦める顔も見たくない。


でも、 このまま少しずつ削れていく彼も見たくない。


その両方を守る方法を、 彼女はもう思いつけなかった。


青信号になる。


でも二人とも、 しばらく動かなかった。

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