#22 ただいま

 朝になって蓮は院長から簡単な問診を受けると、帰宅の許可が下りた。その後、修治が蓮の着替えを持ってきた。普段と変わらない様子で着替えの入った袋を渡し「準備ができたら帰りますよ」とだけ言った修治に、蓮は少し迷ったように俯いて唇を噛んでいたが、思い切ったのか勢いよく頭を上げた。

「修治! 昨日は……ごめん」

 バツの悪そうな顔をしている蓮を振り返った修治は、顔色一つ変えずにあっさりと返事した。

「私は仕事を遂行しただけです。謝罪する相手が違うでしょう、蓮」

 それだけ言い残して修治は病室を出ていった。恐らく、廊下で蓮の帰り支度を待っているだろう。

「……修治、こえー……」

 受け取った袋を抱えて蓮はぐったりとへたりこんだ。律は蓮の様子に笑いそうになってしまう。いままでも、律や蓮が一般的に叱られるようなことをしても修治は一切の謝罪を受け取らない。窘められることはあっても「ごめんなさい」を受け入れてもらえない。蓮も修治の態度にはなれているはずだが、今回はさすがに近くで修治の実務を見ていた分、律は少しだけ修治も根に持っているだろうなと邪推してしまう。

「ほら、蓮。着替えて帰ろ」

「帰ったら、親父にも説教されんだろ? いーやーだー……」

「連も、ちゃんと父さんに言ったらいいよ。僕に言ったのと同じこと。父さんだって理由もなく頭ごなしにお説教しないし」

 律がフォローのつもりで蓮を促すと、ベッドに座ってぐったりとしていた蓮が恨みがましそうな目で見上げてきた。

「それさー、俺がなんか言っても火に油じゃん? バカか、って言われて余計説長くなんじゃん」

 それも確かにそうだ、と律は思ったが、口にした言葉は違った。

「でもさ、やっぱ言った方がいいんじゃないかな。僕は蓮がちゃんと話してくれたから納得したし、いま蓮がまだ少し怖がってんじゃないかなって思うけど、言わないとわかんないよ。父さんなんてただでさえ勢いだけで生きてるような人なんだから、話さないと伝わんないよ。だから、親子喧嘩、すればいいじゃん」

 ふふ、と律は笑う。律は蓮の本当の父親を知らない。知りたいとも思わないが、六歳から一緒に育って蓮の方がよほど父の子と言われても不思議ではないほど似ているところがあると思う。直情的で勢い任せなところ、声が大きいところ、不器用なところ。上げたらきりがない。修治の言うように、蓮が母親似の部分はたくさんあるのだろうが表面的な部分では律よりも蓮は父に似ている。

「あー……今更、変えらんないと思うけどさ、俺が親父のこと親父って言わんくなったらブチギレされるやつ?」

「それはそうだと思う」

 思わず律は真顔で答えた。なにを言い出すのかと思ったのだ。

「蓮は、父さんのこと嫌になったの?」

「違う。けど、俺が勝手に勘違いして家出てったから……怒られっかな、どっちかなって。だって、血ィ繋がってねえし。いままでもだけど」

「そんなこと気にしてるの? じゃあ、うちにいるみんなほとんど血、繋がってないよ。父さんと僕くらいじゃないの? でも、みんな蓮のこと心配して連れ戻そうとしたじゃん。そういうの、血とか関係なくない?」

 改めて口に出すと、男ばかりの大所帯にも関わらず血縁関係にあるのが父子だけとはおかしな話だが、律にとってはそれが当然で普通とは違ったとしても当たり前の環境なのだ。だから、蓮がいまさら血縁関係を持ち出すことの方が不思議だった。

「だってさー……俺、じゃあ出てけやって言われてもおかしくないんじゃね?」

「蓮は父さんに一回拳骨もらった方がいいよ」

 ふう、と溜息をついて律は呟いた。

「え!? なんで!?」

「僕が言っても納得しないなら、父さんに拳骨もらうしかないと思う。流石にいま、蓮が言ったの聞いたら僕だって父さんに同情するもん。ほら、蓮。さっさと着替えて」

 真顔になった律はそのままベッドの空いている端に座り込んだ。想像以上に蓮が臆病になっているのはわからないでもないが、恐らくこれ以上宥めても効果は見られない。それならば、さっさと説教と拳骨をセットでもらった方が蓮にとってはわかりやすいだろうと判断した。

 唯一の助け舟を失った蓮は渋々着替え、病衣を畳み、汚れた制服を代わりに袋に入れ、簡単にベッドを整えると「よし」と小さく言った。


*****


「そういえばさ、父さんなんで病院来なかったの?」

 帰りの車中で律はふと、修治に訊ねた。父ならやることが済んだらすっ飛んできそうなものなのに、と単純に疑問に思ったのだ。

「竜一さんが来てたらどうなってたと思います、若。入院病棟のある夜中の病院ですよ。ただでさえ竜一さんは声が大きいんです。院長に小言を言われるのは私ですから、朝には連れて帰るので家で大人しくしててくださいと」

「ああー……それは」

 律には夜中の病室で勢いのままに蓮に怒鳴り散らす父が容易に想像できて、諦めの声を出した。

 隣で蓮が少し緊張した様子が伝わる。自宅までそんなに遠くない距離、律は窓の外を眺めたまま、蓮の片手に手を重ねた。余計なことを言ってしまったかもしれないが、どうせ帰宅すれば同じことになるのだろうから夜中の病院で迷惑をかけ、老院長にまで説教されるよりはましだろう。

 律の手の下で蓮の緊張が少し和らいだのがわかるが、力み過ぎていた力が抜けきらない。父の声が大きく、怒鳴ることなど日常茶飯事だが、その怒りが律や蓮に向けられたことはほとんどない。子どもの愚かさを半分揶揄いながら叱るくらいが精々だったのだ。しかし、どういい方向に想像しようと試行錯誤を重ねても、今回ばかりは父の説教は免れられそうにない。

 門前に車を止め、先に中に入っているように修治に指示され、律は先に車から降りて蓮に手を伸ばした。蓮の怪我は打撲、内出血、それから裂傷、擦り傷で身動きがままならないほどではない。けれど、これから父に説教をくらうことを考えれば、気休めでもそばにいたほうがいいだろう。

「蓮」

 短く声をかけると、蓮は「ん」と言って躊躇いなく律の手を取った。たったそれだけでも、律はほんのりと安心する。もう蓮に隠し事をなくしてしまい、蓮も理解や感情は追い付かないものの納得はしている。律にずっとまとわりついていた不安は薄くなった。

 そのまま手を繋いで、玄関まで歩く短い距離、蓮が律よりも半歩後ろからついてきていたのは父の説教が憂鬱なのだろう。逃げはしないが、普段のように律の前を歩くまでに至らない。多少の気まずさもあるかもしれない。

 それならば、いっそ普段と変わらないように玄関を開けた方がいいのではないかと律がからりと引き戸を開けて「ただいま」と言った。特に声を大きくしたわけでもない、普段通りの声で。なのに。

 家のあちこちから疲れて眠そうな顔の男たちが玄関に集まってきて「おかえりなさい、若」だの「バカ蓮! ただいまくらい言えや!」だのと様々な声が飛び交う。律が蓮を振り返ると、まだ戸惑ったような顔をしていてらしくない。

「蓮。ほら、ただいまは?」

「……ただいま」

 律に促されてぎこちない声でようやく蓮が言ったかと思うと、家の奥の方ですぱーん! と勢いよく障子の開いた音がした。その後には表廊下をどすどすと物凄い勢いで早足で歩く足音。思わず律は眉間を押さえた。男たちに囲まれて碌に「ただいま」さえ蓮は言えていないのに、大丈夫なのかと頭が痛くなる。

「蓮ッ!! このアホタレがぁっ!!」

 父の姿が見えたのと、怒号が飛んできたのが同時だった。あまりにも大きな声に耳を塞ぎたくなる。さすがの周囲の男たちも父の怒鳴り声に驚いて散っていった。蓮がびくりとして身を固くし、繋いだ手の力が強くなった。

「律も! 蓮連れて俺んとこ来い!」

 馬鹿でかい怒号を浴びせただけで、父はさっさと廊下を戻っていった。さすがに玄関先で説教を始める気はないようだ。律まで蓮と一緒に来いと言われるとは思っていなかったが、どちらにせよ同席しようとしていたのだからちょうどいい。

「蓮。さっさと行って終わらせよ。父さんのことだからうるさくてもどうせネチネチしないだろうし」

「……律」

「大丈夫だよ。僕も呼ばれちゃったし、一緒にいる」

「うん」

 蓮が頷いた後、二人して靴を脱いで玄関を上がると表廊下から父の居間に入った。庭に面した方の障子は開け放したままになっていて、律と蓮はそれぞれ普段通り大きな座卓の父の対面に腰を下ろした。しばらくすると襖が開いて、車を止めてきた修治が仲裁のようなポジションに座った。とはいえ、修治にも言い分はあるだろう。蓮はいっそう小さくなる。律と繋いだ片手だけが頼りのようだ。

 いつ父の説教が始まるかと律も緊張してしまい、息を詰めていると、父は修治が座ったのを確認して先に修治に声をかけた。

「おう、修治。メシの準備させときや。あいつら碌に寝とらんし、メシも食っとらんやろ」

「では、緊急事態モードは全面解除で全員疲労回復シフトで」

 そんな先ほどの怒号とは違う淡々としたやりとりに、律も蓮もうっかり油断してしまった。

「そんでな、蓮。お前、生存本能どこ置いてきた」

 普段とさして変わらない父の問いかけに、蓮は気が抜けたような返事をした。

「は? セイゾンホンノー?」

「せや。お前、普段どんだけ鍛えてっと思っとんのや! なに一方的にボコられとんじゃ、ボケェ!! 反撃も防御もしないたぁどういう了見だ!! てめえが自棄になって一緒に命までどうでもよくなったか!?」

 父の怒鳴り声に、蓮が言葉を失った。律も唇を噛んだ。

 蓮が誰かに一方的に攻撃され、反撃も防御の跡もないということは、例えその時だけだったとしても自分の命を軽んじていたことになるのだ、と初めて律は気付いた。無意識のうちに蓮の手を握った手が強くなってしまう。

「蓮、返事せえや。訊いとんのや! お前があのくそったれのこと嫌がってんはわかっとる! んなもんどうやったって変えられんわ!! でも、お前、そんなくそったれと一緒にお前ん中の沙世まで雑にしおったんか!?」

 追い打ちのように返事をしない蓮に詰め寄る父の言葉に、律まで心が痛んだ。蓮が握り返してくる手が強くなり、痛いほどだが律にはなにも言えない。

「……なにも、考えてなかった……。だって、もう……どこにも、いていい場所がねえって、思ってて……」

「こんのアホ蓮がぁっ!! お前がどう思ってようと、十八んなるまでどこでぶっ倒れてようと野垂れ死にかけてようと未成年なんざ所詮俺んとこに連絡入る仕組みんなっとんだわ! ガキが後先考えねえで飛び出したところで保護者っつーもんが居場所なんざ保証してんだ、バカか!」

 ばぁん! と父が座卓の表面を叩いた。あまりに大きな音に律は重厚な艶のある座卓の表が割れるのではないかと思った。蓮も音の大きさに反射でびくりとした。けれど、

「でも、俺、律のこと……殴ったんだろーなって思ってたから、したら……親父でも俺のことなんか……」

 蓮は自分のことをぼそぼそとした声でだが、なんとか口にしている。隣で聞いている律がはらはらするが、口を挟む隙もない。そして、蓮の言葉が父の逆鱗に触れた。ごっ! と鈍い音がしていつの間にか座卓の対面から身を乗り出していた父が蓮の脳天に拳骨を落としていた。──脳震盪の疑いがあるから、一週間は安静にって言われてたんじゃなかったっけ。脳震盪だから、脳天に拳骨はやばいんじゃない? そんなことを一瞬で考えて、律は青くなった。

 確かに、拳骨もらえばとは言ったが、父が力加減なしに落とすとは思っていなかったのだ。蓮は空いている方の手で頭を押さえている。

「だからバカタレっつってんだこのバカ蓮!! お前が律を殴るようなガキに育ってたらとっくに俺が殴り飛ばしてんだよ! キョーイクテキシドーっていうだろうが! あのくそったれと同じ轍なんざ踏ませねえんだよ、俺が! 血ィなんぞ繋がってなくても親っつのはそういうもんだろうが、アホ!! 息子が道ィ踏み外すの黙って見てる親があるかっつの! わかったか、バカ息子!!」

 父はまだ言い足りないようだったが、息を荒くして蓮の返事を待っている。蓮は片手で頭を押さえたままだったが、力任せに握られていた手の力が次第に緩んでいった。

「親父、ごめん」

 まだ顔は上げられないようだったが、蓮はぼそりと言った。律は蓮の言葉にほっとした。どうしてだか、明確な理由はないがもう大丈夫だという確信があった。

「だいたいなぁ、蓮。お前、ここんとこイライラしおったりうじうじしおったりしとんの、吐き出さんからや! お前、友達の一人もおらんのか? 高校生なんざ青春真っただ中やろ。そういう思春期の悩みとかなあ、ガキ同士で健全にあーだこーだ言ってろや」

「……友達とか、要らんもん。律、いれば、いいと思ってたんだもん……」

 蓮の主張は律にとっては何度も聞いた言葉で驚きもしなかったが、父にとっては違ったらしい。

「律!! お前か!」

「は? 待って? なにが」

「お前がそうやって蓮甘やかすからあかんのや! いっつもべったりなんは知ってったがなぁ! お前が蓮甘やかして外に目え向けさせんから!! こいつの不安がお前に向かったら詰みやろが!」

「ええ……」

 さすがにそれはとばっちりだろうと、律が不服な声を上げると、蓮の握る手が少し強くなり、視線だけ蓮に向けると情けなさそうな顔が「ごめん」と言いたげだった。律は父に気付かれないように溜息をついて、大人しく説教に巻き込まれることにした。

「蓮も! イライラしおって糖分足りんのや!」

「竜一さん、イライラに糖分は関係ありません」

「なんや、じゃあ牛乳か!? 蓮、牛乳飲んどっか!?」

「蓮はよく牛乳飲んでるよ」

「律! お前は!?」

「僕は……あまり」

 次第に巻き込まれたと思った説教が迷走し始め、父の説教も初めの二点が言いたいだけだったのだろうと律は気が抜ける。ただ、父の言った二つのことだけは律にも重くのしかかった。

 隣の蓮は頭を押さえていた手を降ろして、ぽかんとしている。律の方を見て首を傾げ「なにこれ」という顔をしてきた。それは律も聞きたい。父に父親らしい説教など無理なのはわかっていたが、こうも早く崩壊するとは。うっかり笑ってしまいそうになる。

「もうええ!! メシにすんぞ、メシ! お前らも昨日から食ってねえやろ。腹いっぱいにして寝ろや、青春小僧」

 強引に説教を食事にすり替え、父は部屋を出て行った。

 父の居間に、律と蓮、それから修治が残された。

「……まあ、竜一さんの説教にしては上出来でしょう。大事なことだけはちゃんと言っていきましたからね。命を大事にすること、竜一さんが保護者の責任を全うしようとしてること、……それからあなたたちはもう少し交友関係を外にも向けた方がいいこと」

 修治が溜息をついたのは、律が蓮に好意を持っていることを知っているからだ、と気付いた。それはまだ、蓮に伝えていない。律と修治しか知らない。

「このままじゃ、駄目なの?」

「さっき、珍しく竜一さんがまともなことを言ったでしょう。悩んでしまう根源が互いにあるのなら、どこにも吐き出せずに詰みだ、と」

 律の問いに修治は普段通りに答えて立ち上がった。

「二人とも食堂にいらっしゃい。食事をおろそかにすると判断力も低下しますよ」


*****


 凄く、久しぶりな気がする。

 そんなことを思いながら律は朝から簡単ながらも朝食と言うにはボリュームのある食事を食べていた。隣の蓮が豪快に勢いよくアジフライを口に運んでいる。律は温かい味噌汁を啜りながら、昨日は昼以降なにも食べていないんだったと気付く。食卓を囲む父や修治をはじめとした他の男たちは合間になにか口にしていたかもしれないが、それでもゆっくりと食事をする暇はなかっただろう。

 夕食時のような賑やかさが、律をほっとさせる。ここしばらく不安と緊張でただでさえ少ない食事量が減って、食欲も碌に機能していなかった律にも、ようやく食事の味と温かさが戻ってくる。

「律」

 ふと、蓮に呼ばれて律が味噌汁の椀を置くと、隣から律の皿に唐揚げが二つ乗せられた。

「ありがと、蓮」

 律はくすりと笑う。大皿に盛られた料理の中から蓮に無言でおかずを取られるのも久しぶりだ。

 急ごしらえのボリュームたっぷりの朝食は、山盛りのアジフライと唐揚げ、昨日の夕食になるはずだったと思われる肉じゃが、切るだけで済むレタスやトマトなどのサラダ、漬物などが並んでおり、昨日の疲労からか物凄い勢いで減っていっている。律も、普段より多く食べた。簡単にできる冷凍食品や手間の少ないサラダなど、普段と比べると腹を満たすことを最優先にされている献立だが、賑やかな日常の方が律の気持ちを底上げした。

「ごちそうさま」

 律が食事を終えると、蓮も満足したのかしばらくして手を合わせて「ごちそうさま」と言った。いつもより言葉が崩れていないな、と律が思ってると先に立った蓮が真っ直ぐな目で父や修治をはじめとした食堂に集まった全員を見回してから深々と頭を下げた。

「昨日は、すみませんでした」

 初めて聞く蓮の真剣な声に、律は驚く。けれど、その謝罪はここにいる全員が昨晩蓮を探そうと一生懸命になっていたことへの蓮なりのけじめなのだろう。律と蓮が揃って帰宅して、誰一人として蓮を責めなかったが、そのまま大人の優しさに甘えてはいけないという。

 なかなか頭を上げない蓮に、どこからか笑い声が湧いてくる。

「バカ蓮、頭上げろよ。お前、鍛え直しな。しばらく先制禁止」

「あー、それな! ったく、なに袋にされてんだよ情けねえ」

「また逃げ出されたら俺ら体力そろそろ負けんぞ? 走り込みでもすっか?」

 揶揄い半分の声が賑やかしく上がりだして、律もつられて笑った。恐る恐るといった風情で頭を上げた蓮は「え?」とまた戸惑っている。完全に蓮の逃走劇を笑いのネタにしかしない男たちを前に固まる蓮を見て、律は立ち上がり袖を引いた。

「蓮、行こ」

「う、ん」

 不器用な返事をして蓮は律にされるがままに食堂を後にして離れに引き上げた。律は少しだけ迷って、いつも通り蓮の部屋に落ち着く。自分の部屋は少し抵抗があった。このところ、律の自室は不安と緊張と戸惑いなどの負の感情が渦巻いていた場所であり、蓮が出てくと言った場所そのものでもあるため、まだ落ち着いていられる場所ではなかった。

 並んでベッドを背にして座ると蓮が力が抜けたように律に寄りかかってきた。

「なあ、律。……あんなんで俺、許されていいん?」

「いいよ。みんな蓮が大事だと思ってるんだもん。蓮がちゃんと受け取んなきゃ、また同じことになるよ」

「なんか、こうさー反省文? とか」

「蓮、小学生なの?」

「そうじゃなくて。イメージの話だって」

「蓮がさ、無理しないで普通にしてればいいと思う」

「普通ってなんだよー……」

 とても単純なことに蓮は理解不能と言った声を上げて弱音を吐く。放り投げた足の膝はくっつくのに、足先はつかずに律は新鮮な気持ちで自分と蓮の身長差を実感した。

「親父もさー、なんで糖分? 牛乳?」

「まあ……父さんだし」

「牛乳、めっちゃ飲んでるっつの。そーじゃねえだろーがよー親父ィ」

 父からの初めての説教が迷走して終わったことに蓮は更にぐったりして、律に張り付く。

「でも、拳骨痛かった。律、撫でて」

 子どものような要求に、律はくすくすと笑って張り付いたままの蓮の頭を緩く撫でた。蓮が体を寄せている部分から、蓮の温度が伝って律は足りなかったものが満たされていく。大型犬のようで、時々ライオンのように獰猛で、でもその奥に臆病さを隠していた。まだ、知らないことがあるんだろうな、と気付いた律はどきりとする。こんなに近くにいてずっと一緒にいたのに、十一年かけて初めて気付いた蓮の臆病さ。ほかにもどんな律の知らない蓮の側面があるだろう。

 そんなことを考えていると、律に張り付いていた蓮が頭を撫でる手の下ですん、と鼻を鳴らした。

「蓮? どっか痛い?」

「違くて。……なんか、嬉しかった? 安心した? みたいに思ったら……」

 初めて泣いた時とは違い、声を殺してなにも言わないのではなく、不器用ながらも言葉で伝えながら蓮は泣いた。

「律のことも、たくさん泣かせたの、俺なのに」

「僕は、大丈夫だよ。いま、蓮がいるから」

 自分でも自覚しないうちに泣いていたことを今になって言われるかと律は焦ったが、泣きはらした目元を誤魔化せるはずもなく素直に答えた。

 その後、律はゆっくりと蓮を撫でているとすべての緊張と不安がほどけてしまってとろとろとした眠気に誘われた。律の手の下で蓮はすぐに泣き止んで、撫でる手に気持ちよさそうにしている。やっぱり大型犬と似ていた。一晩、ずっと張りつめたままだった神経がようやく緩んで、腹も満たされていて眠くならない方がおかしい。

「蓮、眠い。寝よ」

 律が誘うと、蓮は頷いてそのまま蓮のベッドでくっついて、触れた温度に安心して疲労に引きずり込まれるように久しぶりの無防備な眠気に飲み込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る