#21 なくなったと思ってた

 蓮は病室で病衣に着替えさせられて眠っていた。着ていたものは丁寧に畳まれているが、血痕や汚れが酷く律は思わず目を背けた。備え付けの簡素な椅子をベッドの脇に引き寄せ、消灯後の暗い病室に読書灯だけが灯る中で腰を下ろしてしばらくじっと蓮の寝顔を見ていた。

 体の至る所に包帯やガーゼの処置さえなければ、いつもと同じく眠っているように見える。痛みに苦しんでいる様子も、悪夢にうなされている様子もない。──でも、蓮は目を覚ましたらどんな反応をするだろう? 律にはそれが気がかりだ。

 父は荒い気性ゆえに蓮を殴って目を覚まさせろだなどと言う。律にも今回ばかりは一発くらいは殴ってしまいたい気持ちはある。けれど、生来の乱暴を好まない性質と、いまだ自責してしまう不器用さが簡単に手を上げる判断に至らない。そもそも、殴るという暴力を行使してもなんの解決にもならない。状態の悪化すら考えられる。好きなのに、手を上げるなんておかしい。

 ふと、思いついて律は蓮の片手を布団からそっと出すと、背中を丸めて両手で包んだ。

 まだ、蓮が黒瀬家に引き取られたばかりの頃、よく手を繋いだまま同じ布団で眠っていた。一人寝に慣れていないのは蓮の方だったのだ。六歳とはいえ母を亡くしたばかりで、表面上の悲壮感は薄かったが、夜になると寂しさで押し潰されそうになり「りつ……」と枕を抱えて布団に潜り込んできていた。そんなことを律は思い出した。

 家の者たちから追いかけられ、逃げ回った蓮の本意はわからない。だが、蓮は大きな勘違いをしたままだということだけは確かだ。自分に対して疑心暗鬼のまま。その内側は不安と寂しさに満ちているのだろう。蓮はもう、律を受け入れないかもしれないが、律にも譲れない気持ちがある。だから、目が覚めるまででも伝う温度が少しでも蓮の心を癒せばいい。

「蓮が、怖くない場所を僕が作れたら、まだここにいてくれるかな」

 ぽつりと律は呟く。

 暗い病室で読書灯だけが頼りの中、呟いた声はやけに大きく響いたように感じた。頼りない明かりに浮かぶ蓮は眠ったままで律の独り言には返事をしない。

 ──優しい場所。そんな風に律は初めて自分の家のことを認識した。粗暴さはあっても、理不尽な暴力はない。蓮が出て行くといって飛び出したと知れば、理由など聞く前に誰もが探すことに必死になる。困っている、弱い立場の人間に無尽蔵に手を伸ばしてしまう。そんな性質のせいか、暴力団という看板を掲げているにも関わらず町の人たちの信頼もなぜか厚い。乱暴な手段を行使するときには、必ず理由がある。少なくとも、一般的な暴力団とは違う。そして、女性や子どもに理不尽な虐待を強いる蓮の父とも。

「もしさ、蓮が本当に僕に手を上げたら……僕だって怒るし、抵抗くらいはするよ。殴り返すのは、難しそうかな。でも、蓮が思ったようなことにはならないよ……」

 幼い蓮が体験したことを、律が追体験することはない。そう思うと、律はくすりと笑った。六歳からずっと一緒に過ごしていても、律は蓮と同じではない。だから、蓮の最悪の思い込みを否定できる。

 生きているのだから、誤解を解く努力はできると修治は言った。それさえも放棄するのなら、律がこの十一年の間、蓮と一緒に育って抱いた初めての感情をも投げ出すのと同意になるだろう。律にはその選択はない。

 蓮の病室に入るまで律の中に居座っていた不安と緊張が、本人には届かない独り言と触れて伝う温度に次第に溶けていった。ただ、ずっと一緒にいて当然だと漠然と慢心していた気持ちが否定されただけだった。

「蓮。大丈夫だよ」

 くったりと律は蓮の眠るベッドに手を包んだまま突っ伏して柔く零した。律の真ん中にあるまっさらなままの好きという気持ちは、まだ仕舞っておく。ただ、蓮が本当にいなくなってしまうかもしれないという恐怖でようやく剝き出しになって、自分の気持ちだと認められただけだ。いきなりそんな気持ちを蓮に渡してしまうよりも、歪な誤解を解くのが先で、優先順位の問題に過ぎない。それにいまは、律も、蓮の温度に触れて一時の安堵を得ている。


*****


 過度の緊張が続いていた律はそのまま浅い眠りに飲み込まれていた。夢現の堺で幼い頃の夢を見ていた。小さい律は言葉数が少なく、感情表現も乏しい大人しい子どもだった。父が楽観的だったせいか、過度な心配はされなかったが、六歳で蓮と出会い、四六時中一緒に過ごしているうちに活発な蓮に引きずられるように律の言葉と感情表現が増え、大人たちが安心したような顔をしたのを不思議に思っていた。律は、蓮の存在に救われているのだ。

 浅い眠りから目が覚めると、薄いカーテンの外は夜が明け始めていた。夏の夜明けは早い。蓮は、まだ眠っている。

 怪我のせいだけではないかもしれない。散々追い回され、逃げ回り、いくら体力が有り余っているとはいえ疲労が蓄積されているだろう。それに、心も摩耗しきっているはずだ。

「早く起きろよ、蓮。あんなのじゃなくて、ちゃんと喧嘩しよ。なにも我慢しなくていいからさ」

 ふと、思い立って律は両手で包んでいた蓮の片手に唇でそっと触れた。いつかの仕返しだ。あの時は蓮にキスという認識はなかったようだが、律は自覚して蓮の手の甲にキスをした。

「……ん」

 寝言か呻き声かわからない程度の蓮の掠れた声が聞こえて、律は慌てて顔を上げた。蓮がまだぼんやりとした目を薄く開けている。明るい茶色の目が次第に焦点を結んでいく。律は少しだけ緊張したが、蓮の手は離さないままでいた。

「ここ、どこ」

「病院」

 掠れた蓮の声が独り言のように言って、律は静かに答えた。律に手を包まれている感覚までは認知できていなかったのか、短く答えた声に蓮は跳ね起きてベッドの隅に後ずさってから遅れてきた傷の痛みに小さく呻き、体を丸くした。

「蓮。大丈夫?」

 距離を取る蓮に律はベッドに上がり、手を伸ばす。頭から撫でてしまったら怖がらせてしまうかもしれない。伸ばした手が一瞬行き先に迷ったけれど、少しでも蓮の心を落ち着かせられる選択に賭けた。律は隅にうずくまる蓮をゆるく抱き締める。

「……なん、で、律がいるん……。病院って、なんで。だって、俺」

 状況が呑み込めてないまま、蓮は戸惑ったような怯えたような声を出している。

「だって……なに? 蓮が思ってたこと、ちゃんと僕にも教えてよ。僕がわかることなら、全部説明するから」

 蓮をゆるく抱いたまま頭の後ろをそっと撫でて静かに言うと、律は腕を解いてそのまま蓮の向かいに座り込んだ。体を丸くしたままの蓮は、まだ顔を上げない。抱いていた腕に震えが伝わっていた。

「俺、なんかみんながへんなの、俺が知らん間に律に手え上げたからだと思ってた。でも、みんな……親父もさ、俺んことあのクソ野郎の血ィ入ってっからって……ガキだし……同情されて、見なかった振りしてくれてんのかと思ってて。そんでも、俺が律に手え上げたんなら、俺が一番俺にムカつくし、んなことしたら……クソ野郎と一緒で、大事な場所ぶっ壊すから……俺はいちゃいけねえって思って出たのに、なんか兄貴たちめっちゃ追っかけてくるし、俺んこと捕まえようとするし……意味わかんなくて」

「バカ」

 蓮のくぐもった声に、ふう、と息をついて律は一言言った。

「蓮は本当に僕に手なんか上げてない。だから、蓮が思ってたこと、全部蓮の最悪の想像。……でも、僕が蓮に嘘ついてたことは本当。蓮が僕に怒ったのは当然だよ。僕が嘘ついてたから、蓮が僕の言うこと信じてくれなかったのも、僕の自業自得だし。あのさ、蓮が覚えてない時のことの説明はできる……けど、僕もうまく説明できるかわからないし、また蓮を傷付けつかもしれない」

 律の語尾にはまだ迷いと自信のなさが混ざっていた。

 覚えていないことを自然と思いだすまで待つ方がいいのかもしれない。わざわざ説明することで、嫌な記憶を他人から注がれるのは気分のいいものではないだろう。しかし、蓮の抜け落ちている記憶の部分から辿らないと、恐らく根本的な解決にはならなく、言葉で宥めすかしているのと同じになってしまう。

 先ほど全部説明すると言ったからには、律が誤魔化してはなにも前へ進めない。また、蓮が壊れてしまったら、と律の中に恐怖が芽吹きそうになる。その時。

 頭を抱えて丸く小さくなっていた蓮が、ゆっくりと体を解いて布団のカバーを握りしめる律の手を握った。

「律の言うことなら、聞く」

 なにか覚悟できたわけでもない、まだ怯えと不安が残る捨てられた犬のような顔で、それでも蓮は律の手を離さない。


******


 律は途中で言葉に詰まりながら違法薬物の売人に遭遇した日のことから順を追って蓮に話した。蓮が覚えていないこと、父や修治、それから老院長に説明された、蓮自身は覚えていないだろうことも。自分自身の蓮に対する不安定さえもそこで話さなければ筋がとらないと曝け出した分、客観性は薄くなった部分もある。それでも、律はできるだけあるがままに伝えようと苦心した。

 話を聞き終えた蓮はくったりと律の肩に頭を乗せた。

「……結局、俺がバカだったんじゃん……」

「蓮に、最初に酷いことをしたのは、僕だよ」

 長く話したせいでかさかさになった声で律は答えた。そのことだけは、事故のような偶然でも変えられない事実だ。いくら大事に思っていても、好きと言う感情を自覚しても深い傷を抉ってしまったことと差し引きできない。

「……俺さ、まだ、律と一緒にいていい?」

「うん。いてくれないと嫌だ」

「まだ、親父や修治や兄貴たちと一緒にいてもいい?」

「……なんのためにみんなが蓮のこと連れ戻そうとしたと思ってんの?」

 子どものような確認の言葉に律はくすりと笑った。

「だって、なんかわけわかんなくてさ。俺、いない方がいいのになんで兄貴たち追っかけてくんだよって……だから、いまでも、あんま、わかってねえかも。律が怒鳴るなんて確かになかったけど、親父が怒鳴ってうっせえのなんて、いつものことだし」

「……うん……」

 肩に頭を預けたまま戸惑いを口にする蓮に、律は静かに頷いて背中に手を回し、ゆるりと撫でた。口で説明されても感情が追い付かない、理解しきれない、気持ちの整理がつかないことは律にもわかる。

「でもさ、蓮。たぶんなんだけど、帰ったら父さんにこっぴどくお説教されるから。凄くキレてたし。そしたら、少しは現実感湧くんじゃない?」

 父が怒涛の説教をしてくるのは間違いないだろうな、と律が気付くとぐったりしていた蓮が頭を上げた。

「……マジ? 親父そんなバチギレなん? えー……それ、俺が逃げたから? 逃走犯なの?」

 蓮の声は子どもが親に小言を言われる予告をされ、嫌がる様子と同じだった。叱られることはわかっていても、叱られることの本質を理解していない。どうしてそれが悪かったのかがわからないから、逃げ出してしまいたいといった雰囲気だ。

「それもあるけど、別の理由も、あるかもしれない」

 更に律は付け加えたが、それは律にも上手く言い表せない直感に近かった。蓮が袋叩きのように発見された時の父の怒り方を律は初めて見たと思う。

「こえー」

「僕が、一緒にいる」

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