成長

滋賀 唯一

第1話

英語に自信がないままでも海外留学すると、ある日突然話せるようになる日がくるらしい。



「あれってよく聞くけど、ほんまなんかなぁ?」


昼休みにお弁当を突きながら、友達に聞いた。

彼女は私の知る限り、最も英語を流暢に話せる人だった。


「さあ、ほんまなんちゃう?なんとなく分かる気するよ。似たような感覚。単語覚えたらあるやん。」


彼女はさもないように答えながら、「ない?」と首を傾げた。私はそれを見て、彼女たちとは人種が違うに違いないと肩を落とした。


「全っ然わからへん。」


私が項垂れるのを見て、彼女は愉快そうに笑った。


「ハハハ、頑張って勉強しぃ〜。」


「無理やってー。絶対一生わかれへんってー。」



あの日、生涯知ることはないと思ったその感覚を、母親になってから味わうことになるなんて、予想できるはずもなかった。




…ん?


おかしい。



料理をする手をピタリと止める。



絶対におかしい。


こんなに簡単にできなかった。



初めてそう感じたのは、母になって1年経った頃だ。



私は料理が大嫌い。


結婚前から、恋人にはまず料理ができないことを伝えていた。


「代わりに、できるように頑張ることは生涯続けるから。」


私の言葉を馬鹿にする人は少なかった。


なにせ、1年に1度のバレンタインで、どうにもこうにも失敗をする。毎年毎年、懲りずにする。毎回毎回、違う失敗をする。


実家に暮らしていた頃は、母がリカバリーしてくれていた。「まだ食べられるから泣かんでよろし!」と言ってくれた母のおかげか、毎年懲りずに失敗できた。


一人暮らしを始めてからは、自分でリカバリーするしかない。失敗したくないのに、失敗したときの転び方のほうが、どんどん上手くなった。



ある年は、しなしなのクッキー。


「もしかして、しっとりクッキー目指して焼いた?」


「そうだよって言えたらよかったんだけどね。愛情かな。愛情がクッキーを柔らかくしたのかも。」



ある年は、想定外の生チョコ。


「これならできそうだって、見せてくれてた写真とは随分様子が違うくない?」


「湯煎って知ってる?それができなかったんだよ。軌道修正はもちろん母で、私がやったのはラッピング。まさか、チョコレートを溶かすだけがこんなに難しいとはね。」



ある年は、生焼けのシフォンケーキ。


「ガトーショコラ作るって言ってなかったっけ?」


「よく覚えてたね。20mlでいい生クリームを、200ml入れちゃったんだ。捨てるのは忍びなくて、ホットケーキミックスを入れて焼いてみた。大丈夫。食べられるものしか入れてない。」



もうエピソードには事欠かないので、いかに料理が苦手であるかを力説して、理解してもらう。


私にできるのは、上手く転ぶことだけだった。



理解を得て、今の夫と結婚した。


結婚後は、「料理をしなくてごめん」と毎日謝りながら生活した。「できるように頑張るを生涯続ける」と言った手前、頑張れもしない自分がどんどん嫌になった。


バレンタインで頑張れていたのは、あれが1年に1度のイベントだったからで、毎日3食なんて、頑張れるはずがなかった。難易度が段違いだ。



やらなくちゃ、やらなくちゃと、焦ると、もっとできなくなる。


見るに見かねた夫が、残業後に包丁を握るのを見て、明日こそは私がやらなくちゃと毎日思った。


どうすれば料理ができるようになるのかと、たくさん検索して、この時間に包丁を握ればできるのだと何度も思った。


現実逃避にInstagramを眺めながら、料理好きアカウントを恨めしく思った。


私だって、好きだったらきっとできたさ。



そんな毎日が続いたある日のこと。夫は私に、「洗濯大臣を任命する。」と言った。


「謝らなくていい。料理ができないのは知っている。」と、そう笑いながら茶化すように言ってくれた。


私は彼に甘えた。


謝らなくなった。

無理に毎日料理をしようとしなくなった。


「じぃや、今夜のメニューは何?」


毎日残業する彼の部屋に行って、「君の作るご飯が食べたいな〜」と愛嬌を振りまく。


本当に時々、「今日は仕事を頑張る君のために、私が頑張りたい。」と言って料理を引き受けるのが精一杯だった。




だから産後の、離乳食ってやつは強敵だった。



2ヶ月の育休を終えた夫は仕事に戻って行った。

私に託された仕事は、子どもを守り育てること。


離乳食だけは、なにが嫌でも作らないと仕方がなかった。



離乳食の本を買ってきて、その通りにする。


一番売れている、子どものためを考え尽くされた華やかなやつではない。

栄養のバランスとはどういうもので、なにが揃っていれば必要最低限大丈夫だと説明された、最も親側に寄り添って書かれた本だ。


冷凍を駆使して、なるべく毎食作らなくて済むように工夫する。


初めの頃はよかった。

量は少ないし、種類もない。

これならできそう…


なんて言ってる間に、食べる量も種類もどんどん増えていく。

やっと慣れたと思ったら、息つく間もなくステップアップ。



食事回数が増えれば、当然ストックはすぐ切れる。


ブレンダーで潰せばよかっただけの野菜は、微塵切りまでは自動だったが、1cm角なんて刻まざるを得ない。


食べたことがない食材もなるべく与えなくては。

インゲンも里芋も鶏肝もイワシも初めて買った。他にもたくさん、調理法知らんねんけど〜…と思いながらとりあえず買った。買ったからには、使うしかない。


子どもの好き嫌いも出てくる。

あれは潰して、とろみをつけて、好物と混ぜて、味付けを工夫して…



文句をぶーたら吠えながら必死に作った。

必死に作った皿をひっくり返された日には絶叫した。


「なんで!なんでそんなことできるん?!」


言葉も通じない0歳児相手に必死に言葉をかけた。


「ブロッコリーは木っ端微塵にしたやんか。好きなさつまいも味にしたやんか。新しい食材は食べへんでも仕方ないけど、昨日食べてたもんは今日もちゃんとたべてよ!」


息子は余計に嫌がって机の上にあるものを全部床に投げ落とした後、のけぞった。


私の両腕は力無く落ちた。



本当に嫌なのに。

本当に嫌いなのに。

私には向いてないのに。

それでも投げ出さないでなんとかやってるじゃん。

もう誰か早く私をお母さんにしてよ。



“簡単”という文字を見るたびに、縋り付いては落胆した。


どれもこれも全部全然簡単じゃない。

私には調理道具を持ち上げる時点で簡単じゃない。



だから言ったんだ、子どもなんて要らないって。

私には無理だって。


子どもを作る前にした夫との大喧嘩を、料理をしながら何度も思い出した。



「ほんまにどうしようもなくなったら、私は子どもを殺してまう前に施設に入れるからな!それを承諾してくれへんねやったら、子どもなんて絶対作らへん!」


私が言った言葉に、夫は激怒した。


「そうならないようにしようって話を今してるんだって。なんでそんなこと言うの??」


私に言わせてみれば、できないことから逃げられる保証もなく、挑戦できるはずもない。



まだ子どもを生かそうとしている私は、母親でいても大丈夫だ。



世界に対する呪詛を唱えながら料理を作った。


愛情なんてこれっぽっちも込めていなかったけど、息子のお腹は一度も壊れなかったから、たぶん料理に愛情は関係ない。



子どもの食事で手一杯の私は、大人用の食事なんて当然作れなかった。


夫は、「頑張ってくれてありがとう」と根気強く言った。


本当に勘弁して欲しかった。


人間がよくできすぎだ。


コントラストが効きすぎて、自分がダメ人間に思えてとても凹んだ。



子どもの食事のバランスを毎日考えていると、自分たちが食べているものが到底食事とは思えなくなってきて、大人の分もときたま作るようになった。



そんなことを続けて1年。


料理をする腕が軽くなった日があった。



絶対におかしい。


すんなりできる。


昨日以前よりも絶対にスムーズになった。


考えなくても動ける感じ。



脳裏に駆け抜けたのはあの言葉。


“ある日突然、話せるようになる”



わー!

ある日突然の今日だー!



びっくりしすぎて母に電話した。

夫にも報告した。

子どもにも自慢した。


「私お母さんレベルが2になったよ!“冷倉庫にあるものでなんか適当に作る”ができるようになったみたい!」


大喜びで私が言うのを、棒読みで祝福される。


そんなこと気にもならなかった。



続けているとある日突然できるようになる日はくるんだ。

本当だったんだ。


私は高校生の私が、ある日を待たずに英語を諦めたことをほんの少しだけ悔いた。



現時点では、“毎日欠かさず夕食を作る”までができる。


大人の食事と幼児食。

主食が白米に、汁物と主菜。


子どもが生野菜を食べてくれるようになれば、副菜も作れそうな気がしている。


朝食と昼食は時間さえあればできるんだけど、なかなか時間が取れなくて苦労している。



最近は、4日に1回くらいの頻度で息子のレベルアップを目の当たりにしている。


まだ拙い言葉遣いはそのままに、発音がやや明瞭になった…気がする。


駆け足の速度が、ほんの少し上がった…と思う。


スプーンを使う精度が、明らかに昨日までと違う…はず。



私1人が大騒ぎをして、皆に温かい目をされる。



絶対に違うんだよ。


ほんの少しだけ。



今日は滑り台の登り方が良くなった。



駆け足でハシゴを登って行く子どもの背中に、いつ落ちてきてもいいように手をかざす。


この手ももうそろそろ要らなくなりそうだ。



ある日突然が4日に1回も来る息子の急成長に、目頭が熱くなって笑う。


公園で泣く母と遊ぶ息子なんて、絵面が可笑しすぎる。



滑ろうとする息子に手を差し出すと、「いない」と拒否された。


もう手を繋がなくても上手に滑れるようになった。



自分でできるのが楽しいんだと言う息子の背中が言っていた。


私も料理が楽しくなるのが楽しみだ。


今はまだ、大っ嫌い。

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