第5話 道具

 朝、クロイスは机から立ち上がった。


 四日かけて並べた押収帳簿は、机の三割しか開かれていない。残りは紐で束ねられたまま、机の右奥に積まれている。続きは夕方になる。指示書の束は左端、ペンはインク壺の縁に立てかけたまま、置いていく。装身具はない。事務官服の留め金が、襟元で一度だけ鳴った。


 扉が叩かれた。


 「俺は外まで送る。中には入れない」


 ガロウだった。扉が開く。ガロウは左肩を一度だけ回した。旧傷の側だ。今朝、痛んでいない。


 地下書庫の階段を上がる。三十六段ある。一段ごとに、紙とインクの匂いが薄くなっていく。地上に出る扉の前で、ガロウが先に立った。第二局の地上通路は窓がない。壁は石、灯りは燭台。地上の光は、その通路を抜けた先にある。


 ガロウは通路の出口で止まった。扉が一度だけ開閉した。


 馬車は無紋だった。御者も無言だった。


 車内にクロイスが持ち込んだものはない。手は膝の上で組まれている。袖口の事務官服の縫い目に、目を落とした。糸の端が一本、内側にほつれている。


 車輪が回る音だけが、車内に残った。


 ◇


 宮内省庶務局の客間は、装飾が質素だった。机と椅子の脚だけが王宮級だ。床の絨毯は、足音を吸い取る厚みがある。扉は内開き。閉まる時、ほとんど音を立てなかった。


 白髪の男が立っていた。五十代。穏やかな声を持つ男だった。目は冷たい。胸の銀の紋章は、左の鎖骨の下、心臓の上に正確に据えられていた。庶務局の官印ではない。王家直結の私紋だった。


 「クロイス・キリュー殿。お呼び立てして申し訳ない」


 一礼する。クロイスは座らない。長官も座らない。


 「あなたが見つけた書類について、確認したい」


 「ヴェロン・カスパル。出勤日は月の十三日と二十七日。査定者は当庶務部」


 長官の目が、一度だけ動いた。


 「あなたは王家の私的会計に手を伸ばしている」


 「業務上の指示があれば、伸ばします」


 「では、王家からの指示があれば?」


 答えない。長官も、続きを言わない。長官の指は、胸の前で組まれたままだった。


 数秒、誰も動かなかった。


 部屋の奥の扉が、静かに開いた。


 ◇


 銀髪の女が立っていた。


 二十八歳。青い瞳。堅実な装束に、装飾はない。


 クロイスは、髪の細さ、瞳の角度、襟元の縫い目を、別々に覚えた。


 「エレオノーラ・ヴェル・ヴァルハイム」


 「クロイス・キリュー。第二局・分析官三等」


 女が部屋に入ってから、扉は閉まらなかった。長官が手を添えたまま、開けたままにしている。


 女は扉から机まで、八歩で歩いてきた。一歩の幅が、揃っている。靴音はほとんど立たない。装束の裾は、床から指一本分浮いていた。


 「あなたは、私の道具になる気はある?」


 「業務上の指示と受け取ります」


 女の目尻が、わずかに細くなった。


 「業務上、と」


 繰り返す声に、抑揚はない。女の指先が、机の縁に一度だけ触れた。


 「ヴェロン・カスパルの動向は、宮内省で押さえてある。逃がさない。だが、手の打ち方は、あなたの指示書で決めなさい」


 「承知しました」


 「あなたが書庫で指示書を書く間、私はここで待つ。指示書を待つということが、どういうことなのか、知っておきたい」


 クロイスは、王女ではなく、自分の手を一度だけ見た。ペン胼胝のある親指の側面、その固い場所を、もう片方の手の親指でなぞる。なぞり終わってから、答えた。


 「夕方までには」


 「待ちます」


 女は窓辺の椅子に座った。両手を膝の上で重ねる。長官は、女の斜め後ろに立っていた。椅子の角度は、扉と窓の両方を視野に収められる位置にあった。


 ◇


 書庫に戻った。


 地下に降りる階段も三十六段。同じ匂いが、一段ごとに濃くなっていく。


 机の上は、朝に出たままだった。押収帳簿の角、指示書の束、ペン。誰も触っていない。インク壺の縁でペンが乾きかけていた。


 ライサが、机から少し離れた椅子に座っていた。


 「あんた、生きて帰ったのか」


 「指示書を書きます」


 ライサは立ち上がった。


 「読み上げてくれれば、私が書き取る。手が震えてるだろ」


 クロイスはペンを取った。震えていない。だが、ライサの申し出は断らない。インク壺の縁で、ペン先を整える。新しいインクが、ペン先の窪みに丸く溜まる。


 ライサが机の反対側に座った。羊皮紙を一枚、机の中央に置く。袖を肘までまくった。腕の内側に、薄い傷の跡が三本、平行に走っていた。インク壺を、自分の手の届く位置に引き寄せる。


 冒険者ギルド・ヴァルハイム支部関連の追徴税額、累計四千二百金貨。摘発件数二件。


 本部経理部に一枚。宮内省・庶務部に一枚。これから二枚の指示書を書く。


 クロイスは、紙の上にペンを近づけた。先端と紙の間に、まだ一指分の隙間がある。ライサが、紙を一度だけ押さえた。指が、クロイスの視線の先で、紙の左端を支えている。


 クロイスは、羊皮紙の最初の一行に書いた。


 〈第一指示書〉


 インクが紙の繊維に沈み込む。一筆目の縁が、わずかに滲んだ。


 ライサが、インクを足した。


 クロイスはペンを下ろした。次の一行は、まだ書かない。


 白い紙の上で、ペンが、止まっている。

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