第10話「見えない力」
翌朝、ハルトはいつもより少し早く目を覚ました。
仕事のある日とは違い、今日はあらかじめやるべきことが決まっている。
まずは家賃の支払いだ。
体を起こしてしばらくぼんやりしていると、昨日の出来事がゆっくりと頭の中に戻ってくる。
キャラバンの帰還、荷降ろし、ダンテから渡された800リン、そして夜の街での食事。
どれも特別なことではないが、確実に自分の生活がこの世界に根付き始めていることを感じさせるものだった。
ハルトは軽く息を吐き、机の上に手を伸ばす。
袋から硬貨を取り出し、改めて並べていく。
往路で受け取った800リンから50リンを使い、復路でさらに800リン。
そこに、初日の倉庫での賃金30リンと、日本から持ってきた5000円がこの世界で変化した5000リンが加わる。
合計は6580リン。
数字として見れば、それなりの額だ。
だが、これがどれだけ持つのか、どこまで使っていいのかは、まだ完全には分かっていない。
しばらくその金額を眺めたあと、ハルトは一枚の紙を手に取る。
借家の支払い用紙だ。
以前軽く目は通していたが、改めて見ると、記載されている住所と金額がはっきりと目に入る。
家賃、3000リン。
少々高い気もするが、少なくとも今の手持ちなら問題なく払える額だ。
ハルトは軽くうなずき、硬貨を袋に戻すと、身支度を整え、外へ出る。
朝の街は、夜とはまったく違う顔を見せていた。
屋台はまだ準備中で、人通りも少なく、静かに一日が始まろうとしている空気が漂っている。
その中を歩きながら、支払い用紙に書かれた住所を頼りに進んでいく。
やがて辿り着いたのは、少し古びたがしっかりとした造りの家だった。
扉の前で一度だけ確認し、間違いがないことを確かめてから軽くノックする。
中からすぐに足音が近づき、扉が開く。
「はいはい、どちら様?」
現れたのは年配の女性だった。
柔らかい口調だが、しっかりとした目つきをしている。
ハルトは一歩下がり、軽く頭を下げる。
「借家の支払いに来ました」
そう言って紙を差し出すと、女性はそれを受け取り、目を通してからうなずく。
「あぁ、あんたね。じゃあ3000リン」
簡潔なやり取りだった。
ハルトは用意していた硬貨を取り出し、そのまま手渡す。
女性はそれを手際よく確認し、問題がないことを確かめると、家の中から一枚のカードを持ってくる。
差し出されたそれは、いくつかの枠が並んだスタンプカードのようなものだった。
女性はそこに一つ印を押し、ハルトへ見せる。
「これで今期は済みね」
その言葉に、ハルトはカードを見下ろす。
どうやら支払いは先払いで、このスタンプが期間の証明になっているらしい。
さらによく見ると、枠は全部で四つに分かれており、一年分の区切りのようにも見える。
既に前期分の一つが押されていて、これでスタンプは二つになった。
ただ、一つ気になる点がある。
ハルトは少しだけ迷い、それでもそのまま口を開く。
「次は、いつ持ってくればいいですか?」
恥をかくより、分からないままにする方が問題だと判断した。
女性はその質問を聞いて、特に不思議がる様子もなく答える。
「次は三か月後でいいよ。今払ってもいいけどね」
あっさりとした説明だったが、それで十分だった。
三か月で一枠。
つまり一年は十二か月。
この世界の時間の流れは、少なくともそこは同じらしい。
ハルトは小さくうなずく。
「じゃあ、また三か月後に持ってきます」
「はいよ」
短いやり取りで話は終わる。
女性はスタンプカードをしまい、ハルトは軽く頭を下げてその場を離れる。
朝の空気の中で、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
生活の仕組みが、一つ分かった。
3000リンを家賃として支払ったため、残りは3580リン。
数字として並べてみると、思っていたよりも余裕がある。
この世界の物価はまだ完全には把握できていないが、屋台での食事や昨日の店の値段を思い出す限り、無計画に使わなければしばらく困ることはなさそうだと判断できる。
だが同時に、手元にすべてを持っておくことへの不安も残る。
もし何かあったとき、この金をそのまま失う可能性があると考えると、どこかに預けておく方が安全だという考えが自然と浮かぶ。
ハルトは足を止め、軽く周囲を見渡す。
大家の女性が言っていた言葉を思い出す。
――銀行なら、この先の通りを曲がったところ。
その方向を確認し、ハルトは歩き出す。
しばらく進むと、他の建物とは少し雰囲気の違う建物が見えてくる。
派手さはないが、入口の造りがしっかりしており、人の出入りも一定数あることから、目的の場所であることはすぐに分かった。
中へ入ると、想像していたよりも整然とした空間が広がっている。
カウンターが並び、何人かの人間が順番に対応を受けている様子は、市民ギルドとも似ているが、扱っている内容が違うのか、全体的に落ち着いた雰囲気だった。
ハルトは列に加わり、順番を待つ。
やがて自分の番が回ってくると、カウンターの向こうにいる職員に声をかける。
「預け入れってできますか?」
簡潔に用件を伝えると、職員は特に驚く様子もなくうなずく。
「できますよ。Citizen Cardはお持ちですか?」
その言葉に、ハルトはポケットからカードを取り出して差し出す。
職員はそれを受け取り、軽く確認してから続ける。
「こちらに紐づけて管理しますので、出し入れも簡単にできます」
説明は短いが、仕組みは分かりやすい。
カードが身分証明であり、そのまま口座の役割も兼ねているらしい。
ハルトは小さくうなずき、手元の袋から硬貨を取り出す。
全部を預けるつもりはない。
当面の生活費としてある程度は手元に残し、それ以外を預けるのが現実的だと判断する。
「3000リン、お願いします」
そう言って差し出すと、職員はその金額を確認し、手際よく処理を進めていく。
特別なやり取りはなく、数分もかからずに手続きは終わった。
「これで完了です。残高はカードで確認できますので」
そう言ってカードを返される。
ハルトはそれを受け取りながら、小さく息を吐く。
手元に残ったのは580リン。
だが、不思議と不安はなかった。
預けた3000リンがあるという事実が、目に見えない安心感として残る。
ハルトはカードをポケットにしまい、そのままカウンターを離れる。
生活の基盤が、少しずつ形になっていく。
その実感を抱えながら、ハルトは次の場所へ向かうため、銀行の外へと足を踏み出した。
ハルトはゆっくりと歩き出しながら、頭の中で次にやるべきことを整理する。
生活の仕組みは、ひと通り見えてきた。
家賃の支払い、金の管理、日々の食事。
このままキャラバンの仕事を続ければ、少なくとも困ることはない。
むしろ、他と比べれば条件はいい方だということも分かっている。
だが、それだけでは終わらないという感覚も、はっきりと残っていた。
レベッカの言葉が思い出される。
――代われるなら代わってほしい。
あの一言には、ただの愚痴以上の意味があった。
自分が立っている場所は、簡単に手に入るものではない。
だが同時に、その場所にいる限り見えないものがあるのも確かだ。
ハルトは軽く息を吐き、顔を上げる。
次に向かう場所は、もう決まっている。
冒険者ギルド。
街の中でも比較的目立つ建物だと聞いていたが、実際に目にしたそれは、想像していたものとは少し違っていた。
酒場のような騒がしさはなく、むしろ市民ギルドに近い、事務的な雰囲気の建物だ。
出入りしている人間も、騒いでいる様子はなく、それぞれが用件を済ませに来ているだけに見える。
ハルトはそのまま中へ入り、周囲を見渡す。
受付があり、いくつかの机が並び、奥には書類や資料が置かれているらしい棚が見える。
ハルトは一番手前の受付へと向かう。
「すみません」
声をかけると、受付の女性が顔を上げる。
「はい、どうされました?」
穏やかな対応だった。
ハルトは少しだけ言葉を選び、それから率直に聞く。
「冒険者になるには、どうしたらいいですか?」
その質問に、女性は特に驚く様子もなく答える。
「見習いからであれば、どなたでも登録はできますよ」
あっさりとした答えだった。
思っていたよりも敷居は低い。
だが、女性はそのまま言葉を続ける。
「ただ、仕事にありつけるかどうかは別ですけどね」
その一言で、話の重さが変わる。
ハルトは小さくうなずき、さらに踏み込む。
「例えば、薬草採取みたいな仕事ってありますか?」
よくある話として聞いたことのある内容だった。
だが、女性は首をかしげる。
「薬草採取、ですか?」
少しだけ考えたあと、はっきりと答える。
「普通の薬草でしたら、ほとんど栽培されていますから、わざわざ外に取りに行くことはありませんね」
予想外の返答だった。
「珍しいものなら価値はありますが、見習いの方が簡単に手に入れられるものではありません」
現実的な説明だった。
ハルトは一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を巡らせる。
ここには、思っていたような“簡単な仕事”はない。
その前提が、静かに崩れていく。
ハルトは軽く息を吐き、別の角度から考えるために、次の質問を探していた。
ハルトは受付から少し離れ、視線を館内の奥へと向ける。
仕事の掲示らしきものはあるが、自由に選んでそのまま受けるという雰囲気ではなく、あくまで情報が整理されているだけに見える。
その構造が、これまで想像していた冒険者の姿とずれていることに、改めて違和感を覚えた。
思い直すように、ハルトは再び受付の女性に向き直る。
「地図って、ありますか?」
そう尋ねると、女性はすぐに奥の壁を指差した。
「広域のものでしたら、あちらにありますよ」
その方向へ歩いていくと、大きく広げられた地図が壁に固定されているのが見える。
かなり広い範囲が描かれており、街や道の位置関係が一目で分かるようになっている。
ハルトはその前に立ち、じっと見つめる。
受付の女性も後ろから近づき、指で一点を示す。
「ここがこの街で、こちらが隣町です」
その説明を聞いた瞬間、ハルトはわずかに目を見開く。
思っていたよりも近い。
往復にかかった時間の感覚から、もっと遠い場所だと勝手に思い込んでいたが、地図で見るとそこまで離れているわけではない。
つまり、自分が感じていた距離は、移動手段や環境によって大きく変わっていたということになる。
ハルトは視線をさらに外側へと移す。
地図の端に近づくほど、描かれている情報は少なくなっていく。
道が途切れ、地名もまばらになり、空白に近い領域が広がっている。
女性はその視線の動きを追うように言葉を続ける。
「この地図に載っている場所は、だいたい探索されています。もし珍しいものを探すのであれば、ここに載っていない場所まで行く必要がありますね」
その言葉に、ハルトは小さく息を吐く。
簡単な話ではない。
この地図の外側がどれほど広いのかは分からないが、少なくとも、軽い気持ちで踏み込める距離ではないことだけは直感的に理解できる。
頭の中で、距離の感覚を無理やり当てはめる。
ここから外縁までは、おそらく1000km前後。
徒歩や馬車での移動を考えれば、現実的な範囲ではない。
ハルトは思わず苦笑する。
……冗談じゃない。
そう思いながらも、視線は地図から離れない。
未知の場所に価値があるという構造は分かる。
だが、それに見合うだけの手段も準備も、自分にはまだない。
そこでふと、別の方向から可能性を探ろうと考える。
「じゃあ、例えばドブさらいとかは?」
半ばやけ気味に出た言葉だったが、女性はあっさりと答える。
「それでしたら市民ギルドの管轄になりますね。冒険者の仕事ではありません」
迷いのない返答だった。
つまり、単純な作業であればあるほど、冒険者の領域からは外れていく。
ハルトは小さく肩を落とし、視線を地図から外す。
やれることはない。
そんな現実が、少しずつ形を持って見えてきていた。
ハルトは地図に視線を戻し、ゆっくりと息を吐いた。
思っていたよりも世界は広く、そして同時に、既に人の手が届いている範囲もはっきりしている。
簡単に踏み込める場所と、そうでない場所の境界が見えたことで、やるべきことと、まだ手を出せないことの差も明確になった。
そのまま立ち尽くしていても仕方がないと考え、ハルトは女性に質問する。
「魔法って、使える人はいるんですか?」
少しだけ考えた末に出た質問だった。
女性は特に驚く様子もなく、軽くうなずく。
「ええ、いますよ。ただ、魔法は習得するのが難しいですね」
あっさりとした答えだったが、その中に重要な前提が含まれている。
習得。
どこかの魔法学校にでも通う必要があるのだろうか?
「適正があれば、早く習得できます」
ハルトはその言葉を頭の中で反芻しながら、さらに踏み込む。
「その適正って、どうやって分かるんですか?」
女性は一瞬だけハルトの顔を見て、それから手を差し出す。
「Citizen Cardをお持ちでしたら、お預かりしてもいいですか?」
その流れに従い、ハルトはカードを取り出して渡す。
女性はそれを受け取ると、受付の奥にある箱のような装置の上にカードを置き、いくつか操作を行う。
動作は手慣れており、特別な儀式のような雰囲気はない。
しばらくして、女性が小さく声を上げる。
「あら、あなた……既に魔法を習得されてますね」
予想していなかった言葉に、ハルトは一瞬だけ言葉を失う。
「本当ですか?」
「ええ。ただ、内容が少し変わっていますね」
そう言いながら、女性は画面のようなものを見て読み上げる。
「フォークリフト……技能? 大型自動車、床上操作式クレーン技能、玉掛け技能、スタッカークレーン、電気基礎講座修了証、それと英検2級……」
彼女にとってどれも聞き慣れない単語ばかりだったが、ハルトにとってはすべて覚えがあるものだった。
日本で働いていた倉庫で使っていた技術や、高校生の時に取った英検。
そのまま、この世界では“魔法適正”として表示されている。
ハルトはゆっくりと息を吐く。
……なるほどな。
あの力の正体が、少しだけ見えてくる。
フォークリフトで重い荷を扱えていたのは、単なる作業スキルだと思っていた。
だが今こうして表示された内容を見る限り、それはこの世界では“魔法適正の一種”として扱われているらしい。
つまり、自分がやっていたのはただの作業ではなく、この世界の理屈で言えば魔法に近いものだったということになる。
そう考えると、他の技能にも何かしらの意味があるはずだと自然に思える。
まずは分かりやすい動きから確かめるべきだと、ハルトは考えを切り替える。
頭の中でそう考えた瞬間、ハルトは無意識に視線を館内へと向けていた。
少し離れた場所に置かれているテーブルが目に入る。
今度は、ただ持ち上げるのではなく、“離れた場所から動かす”という意識を持つ。
床上操作式クレーン。
あれは、離れた位置から荷を操作し、吊り上げて移動させるための機械だ。
そのイメージを、そのまま重ねる。
ハルトは静かに意識を集中させる。
動かす。
そう思った瞬間、テーブルがわずかに軋み、ゆっくりと床から浮き上がる。
ほんの数センチ。
だが、確かに浮いている。
そのまま、わずかに横へとずれる。
次の瞬間、力が抜けたようにテーブルは元の位置へと戻り、小さく音を立てて床に触れた。
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