『ダメな人生くらい、せめて恋させてくれ』

黒宮 ノア

第1話 終電後のコンビニ


二十六歳。

貯金、二万三千円。


財布の中には、千円札が一枚と、小銭が少し。

スマホの通知は、母親からの「生きてる?」だけだった。


深夜一時過ぎ。


駅前のコンビニは、昼間より優しい光をしている気がする。


終電を逃したサラリーマン。

酔っ払い。

カップル。

何となく帰りたくなさそうな人間たち。


その中に、俺もいた。


コンビニのガラスに映った自分を見る。


安いスーツ。

伸びかけた髪。

隠しきれない疲れ。


三日前に会社を辞めた。


いや、辞めたというより逃げた。


毎日怒鳴られて、ミスして、謝って。

家に帰っても眠れなくなって。

朝が来るだけで吐き気がして。


ある日、会社の最寄り駅で動けなくなった。


そのまま上司に電話して、


「すみません、もう無理です」


と言って終わった。


たったそれだけで、俺の人生は簡単に壊れた。


「……終わってんな、俺」


思わず漏れた独り言。


「わかる」


横から返事が来た。


びくっとして振り向く。


知らない女が立っていた。


黒いパーカー。

長い黒髪。

眠そうな目。


年齢は多分、俺と同じくらい。


片手には缶コーヒー。


女は俺を見ながら言った。


「その顔、人生負けてる人の顔」


「初対面でそれ言います?」


「でも否定しないんだ」


言葉に詰まる。


女は小さく笑った。


「まあ、私も同じだけど」


そう言って、コンビニ前の縁石に座る。


妙な人だった。


普通なら関わらない。

関わっちゃいけないタイプだ。


でも、その日は誰かと話したかった。


一人でいると、自分が本当に空っぽになる気がしたから。


俺は缶チューハイを持ったまま、少し離れた場所に座った。


沈黙。


夜風だけが通り過ぎる。


女は空を見上げながら言った。


「仕事帰り?」


「……元、です」


「あー、辞めた人か」


「そんな分かりやすいですか」


「死んだ魚みたいな目してる」


「ひどいな……」


でも、否定できなかった。


女は缶コーヒーを飲みながら聞く。


「何系?」


「営業」


「地獄じゃん」


「はい、地獄でした」


即答だった。


女は少し笑う。


「私はイラスト関係」


「へえ、クリエイター?」


「元、ね」


その“元”の言い方が妙に重かった。


俺は何となく聞けなかった。


触れちゃいけない傷って、ある。


その空気だけは分かる。


「名前は?」


不意に聞かれる。


少し迷ってから答えた。


「藤崎。藤崎湊です」


「私は雨宮澪」


澪。


綺麗な名前だと思った。


彼女は俺をじっと見る。


「藤崎くんってさ」


「はい?」


「優しそう」


「よく言われます」


「でも、生きるの下手そう」


「……それもよく言われます」


澪は吹き出した。


初めてちゃんと笑った顔を見た。


その瞬間、少しだけ心臓が跳ねた。


綺麗だった。


びっくりするくらい。


でも同時に、壊れそうな笑い方だった。


「彼女いる?」


「いません」


「いつから?」


「二年くらい」


「長」


「そっちは?」


「秘密」


ずるい。


そう思ったが、少し嬉しかった。


こんな風に誰かと話したの、いつぶりだろう。


会社を辞めてから、まともに人と会話してなかった。


友達にも連絡してない。


情けない自分を見せたくなくて。


澪は足元を見ながらぽつりと言う。


「ねえ」


「はい」


「今、帰りたくない感じ?」


図星だった。


俺は苦笑する。


「……まあ」


「だよね」


澪は立ち上がった。


黒いパーカーの袖を引っ張りながら言う。


「海行かない?」


「……は?」


「終わってる人間って、たまに海見たくなるじゃん」


意味が分からなかった。


でも。


なぜか断れなかった。


深夜一時半。


人生終わりかけの俺は、

知らない女と海へ向かうことになった。

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