第6話 偏屈な辺境伯と、面接代わりの帳簿
朝の冷たい空気が残る中、野宿の跡を片付けたアリシアたちは、最後の道のりを歩き終えようとしていた。
街道の脇に、長い風雨に晒されて角の取れた粗末な石碑が立っている。
そこには古い文字で、「グランベル領」と深く刻み込まれていた。
アリシアは石碑の冷たい表面にそっと手を触れ、これまでの長い緊張を吐き出すように、深く息を吐いた。
「ここから先は、王都の悪意が届かない場所よ」
振り返ると、エミルとリリィが新しい土地の空気に少し戸惑うように立ち尽くしていた。
王都周辺の柔らかく豊かな田園風景とはまるで違う。足元は岩がちで、吹き抜ける風には荒々しい土の匂いが混じっている。
だが、その広大な大地には村や畑、放牧地が力強く広がり、遠くの丘の上には、古いが堅牢な石造りの屋敷が城郭のようにそびえ立っていた。
* * *
太陽が頭上に昇る頃、アリシアたちは辺境伯邸の正門へと辿り着いた。
堅く閉ざされた鉄格子の前には、武装した無口で警戒心の強い門番が二人立っている。
アリシアは汚れた服の埃を手で払い、身なりを真っ直ぐに整え直すと、子どもたちを背中に庇うようにして進み出た。
「申し訳ありません。私は、グレイフェルト伯爵家を離れた者で、アリシア・ヴェルディーニと申します。こちらでお仕事を探しております。もし、ご当主様にお取次ぎいただけるなら、私の能力をご覧いただきたく存じます」
子連れで職を乞う女。当然のように、門番の一人が冷たい視線を向けてきた。
「子連れの女が、何の用だ。ここは辺境伯様の屋敷だぞ。物乞いなら別の場所へ行け」
だが、アリシアは怯まなかった。背筋を伸ばし、子どもたちを庇いながらも、その声は揺るぎなく落ち着いていた。同情を引こうとする涙や哀れみではなく、「能力を見ていただきたい」という実力勝負の言葉。
そのただならぬ姿勢に、門番の二人は顔を見合わせ、わずかな迷いを見せた。
エミルはアリシアの背後でリリィの小さな手を強く握りしめ、極度の緊張で顔を強張らせている。リリィはアリシアのスカートの裾に顔をすっぽりと埋めていた。
やがて、門番の一人が屋敷の奥へと消え、代わりに一人の男を連れて戻ってきた。
老齢の執事だった。痩せぎすで白髪が目立つが、その背筋は定規を当てたように真っ直ぐに伸びている。
「ハインツと申します」
老執事は、門の外に立つアリシアと子どもたちを一通り、冷静な目で観察した。
「門番からお話は伺いました。確かに、当家では雇い人を探しております」
ハインツの瞳の奥には、わずかな疑念が宿っていた。
「ですが、当主様は、決して感情で人をお選びになりません。哀れみや同情で屋敷に置くようなことはなさいません。あなたの『能力』とは、何ですか」
アリシアは正面からハインツの目を見据え、はっきりと答えた。
「家政管理、帳簿、使用人統率、商人との交渉、兵士用保存食の管理、屋敷の運営。これらすべてを、五年間、伯爵家で実務として担っておりました」
生きるための必死さはある。だが、決して媚びることはない。ただ、自分の手の中にある武器だけを淡々と並べた。
ハインツは興味深そうに、しかし極めて慎重に一度だけ頷いた。
「では、当主様にお目通りを願う前に、一つ試させていただきます」
彼は脇に控えていた門番の詰所から、分厚い一冊の束を持ち出してきた。
「こちらの帳簿をご覧ください」
* * *
門番詰所の脇に併設された小さな待合室で、アリシアは子どもたちを長椅子に座らせ、自らは木の机に広げられた帳簿と向き合っていた。
それは辺境伯邸の、最近三ヶ月間の支出記録だった。
アリシアの視線が、数字と項目の並びを滑るように追っていく。五年間、巨大な家計の矛盾を一人で正し続けてきた彼女にとって、数字は嘘をつかない明確な言語だ。
短時間で全頁に目を通したアリシアは、静かに顔を上げ、待機していたハインツに向き直った。
「三点、申し上げます」
ハインツが眉をわずかに動かした。
「第一に、こちらの薪の調達費ですが、月によって変動が大きすぎます。おそらく都度買いをしているのでしょうが、冬に向けてのまとめ買いの計画がないようです。
第二に、食料の調達。同じ商人から複数回、高い頻度で購入されています。競合の商人と相見積もりを取れば、おそらく一割は下げられます。
第三に、使用人の給金支払い日が月末に設定されていますが、これでは商人への支払い日と重なって、月末の現金不足が起きていませんか」
薪、食料、そして現金の流れ。
派手な指摘ではない。だが、実務に裏打ちされた的確すぎる分析だった。
ハインツの顔から、最初はあった警戒の色が消え去り、驚きと感心の入り混じった表情へと変わっていく。
彼は最後の指摘を聞き終えると、深く目を細めて頷いた。
「……興味深い。当主様にお取次ぎいたします」
* * *
屋敷の奥、重厚な扉の向こうにある応接間に通された。
古いが丁寧に磨き上げられたオーク材の家具が置かれ、装飾は最小限だが、品格がある。壁には広大な辺境の地図と、実戦で使い込まれたと思われる剣が一振りだけ飾られていた。
やがて、部屋の奥の扉が音もなく開き、一人の男が入ってきた。
ヴィルヘルム・グランベル。
三十二歳。背が高く、痩せ型だが服の上からでもわかるほど引き締まった筋肉質の体躯をしている。黒に近い濃い茶色の髪は、背中で簡素に一つに結わえられていた。
そして何より目を引くのは、その鋭い、灰色がかった青い瞳だった。
服装は豪華な貴族のそれではなく、動きやすさを重視した質素な執務着。歩き方は静かで、足音すら無駄がない。
顔立ちは整っている。だが、そこに微笑みなどの柔らかな表情は一切なく、ひたすらに近寄りがたい空気を纏っていた。
「ヴィルヘルム・グランベルだ」
挨拶も、長旅を労う言葉もない。切り詰めた、ただそれだけの一言だった。
彼はハインツから渡された帳簿の指摘メモを受け取ると、長椅子に座ることなく、立ったままそれに目を通し始めた。
部屋の中に、重苦しい沈黙が降りる。
やがて、ヴィルヘルムが顔を上げ、アリシアを見た。
その視線に、同情や男としての興味は欠片もない。ただ純粋に、目の前の人間が「信頼に値するかどうか」を測る、冷徹な観察者の視線だった。
「お前の指摘は、半分は正しい。あとの半分は、こちらの事情を知らないがゆえの誤りだ」
抑揚のない声が応接間に響く。
「だが、初対面でこの精度なら、悪くない」
ヴィルヘルムの鋭い視線が、アリシアの背後に隠れるように座る二人の子どもへと移った。だが、その目はすぐにアリシアへと戻された。
「子連れと聞いた。どういう事情だ」
雇用主として、屋敷に入れる人間のリスクを確認するのは当然のことだ。
アリシアは怯むことなく、鞄の中から大切に保管していた羊皮紙を取り出した。
「私が緊急保護者として、神殿と役所で正式に保護記録を取った子どもたちです。実母は別人で、現在、養育を放棄しております。私は彼らを、自分の労働で養うつもりです」
神殿の保護記録の控えを真っ直ぐに差し出す。
ヴィルヘルムはそれを受け取り、無言で、しかし非常に丁寧に隅々まで読み込んだ。彼は感情的な訴えよりも、この紙に記された公的な記録と証拠を重んじる男だった。
* * *
書類を返し、ヴィルヘルムはしばらくの間、静かに考え込んだ。
そして、明確な決定を下す。
「住み込みの家政婦として雇う。試用期間は一ヶ月。給金は規定通り。子どもたちには、屋敷の使用人棟の一室を割り当てる。食事は使用人と同じものを出す」
淡々と条件を並べた後、ヴィルヘルムの灰色がかった青い瞳が、アリシアを真っ直ぐに射抜いた。
「条件は二つ。第一に、私の領で嘘をつくな。第二に、私の領で他人の悪口を言うな」
嘘を嫌い、他者を貶める感情的な訴えを嫌う。この男の生き方が、その短い言葉に凝縮されていた。
「承知いたしました」
アリシアは短く、簡潔に答えた。余計な感謝も、媚びた笑みも浮かべない。ただ、契約を結ぶ対等な人間として、深く頭を下げた。
ヴィルヘルムはそれ以上何も言わず、小さく頷くと、後をハインツに任せて応接間の奥へと去っていった。
その背中が扉の向こうに消えるまで、彼は子どもたちに一切の視線を向けなかった。
残された部屋の中で、エミルがアリシアの服を軽く引き、小声で呟いた。
「アリシア様、怖い人ですね」
「ええ。でも、嘘をつかない人みたい」
アリシアが静かに答えると、スカートの陰から顔を出したリリィが、四歳児なりの素直な感想を口にした。
「あのおじちゃん、おこってる」
* * *
ハインツに案内され、中庭を抜けて使用人棟へと向かう。
「こちらが、あなた方のお部屋になります」
開かれた扉の先には、質素だが塵一つなく清潔に保たれた部屋があった。
大人用のベッドが一つ、子ども用の小さな寝床が二つ、そして壁際に小さな机と椅子が置かれている。
その光景を見た瞬間、エミルとリリィの口から、今まで堪えていた不安が溶け出すような、深い安心の吐息が漏れた。
リリィが短い足を精一杯動かし、初めて得た屋根のある「自分たちの場所」に向かって駆け込んでいく。
アリシアは部屋の中央に立ち、冷たい風を遮る壁と、雨を凌げる堅牢な天井を見上げ、深く息を吐き出した。
王都の屋敷を追放されてから、一週間。
土と埃に塗れ、冷たい雨に打たれながらも、ようやくこの屋根の下に、子どもたちと自分の居場所を、自らの力で勝ち取ったのだ。
まだ「試用期間の住み込み家政婦」という不安定な立場に過ぎない。偏屈な領主の信頼を得るための戦いは、むしろこれから本格的に始まる。
それでも、構わない。
彼女たちの新しい生活は、今、ここから始まるのだ。
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