第5話 靴と、銀貨と、握り飯
王都を出てから、三日が過ぎていた。
ガタガタと車輪を鳴らして進む乗合馬車の中は、農夫や行商人たちで混み合っていた。
アリシアの膝の上で、リリィが規則正しい寝息を立てている。その小さな足には、宿屋の女将から譲り受けた古い麻布が、簀子状に何重にも巻かれていた。片方しかなかった靴の代わりとなる、臨時の足覆いだ。
隣に座るエミルは、乗車した直後は怯えたようにアリシアの袖を強く握りしめていた。だが、単調な馬車の揺れと妹の穏やかな寝息に少しずつ警戒を解き、今は窓の外を流れる田園風景や、遠くの山並みを興味深そうに眺めている。
アリシアは正面を見据えたまま、乗客たちが交わす他愛のない世間話に静かに耳を澄ませていた。
「グランベル辺境伯領は、最近また一段と王都との関係が冷え込んでいるらしいぜ」
「ああ、辺境伯様はひどく嘘嫌いで有名だからな。王都の貴族どもの腹の探り合いに嫌気が差したんだろ」
「おかげで向こうは人手不足らしい。流れ者でも、まともに働けるなら仕事があるって噂だ」
断片的な情報が、アリシアの頭の中で帳簿の項目のように整理されていく。
辺境伯領。まだ見ぬその土地の領主について、彼女が持つ情報は「偏屈」と「嘘嫌い」ということくらいだ。だが、王都の権力が及びにくく、仕事があるという事実は、今の彼女たちにとって何よりの希望だった。
* * *
昼下がり、馬車は中継地点である大きめの宿場町で長時間の休憩に入った。
アリシアは子どもたちを連れて馬車を降り、活気のある市場の通りをゆっくりと歩く。
鞄の奥で鳴る硬貨の音は軽い。手持ちの金は銀貨が数枚と、わずかな銅貨のみ。ここから先の馬車代と、数日分の食費で消えてしまう額だ。
市場の端にある古着屋の前で、アリシアは足を止めた。
店先に並ぶ中古の品々の中から、リリィの足のサイズに合いそうな小さな革靴を見つけ出す。
店主が提示した値段を聞き、アリシアは靴を手に取って裏返した。
「靴底の踵のすり減りが深いですね。それに、右足の側面の縫い目が少し粗くなっています。おそらく前の持ち主が一度修繕を試みて、失敗した痕でしょう。この状態なら、市場の相場を考えても、提示された銀貨一枚は高すぎます。銅貨五枚でいかがですか」
穏やかだが、微塵も隙のない理路整然とした指摘。相手の目を真っ直ぐに見据えた静かな交渉に、恰幅の良い店主は目を丸くし、やがて苦笑して両手を挙げた。
「参ったな。あんた、ただの旅の奥さんじゃないね。商人筋かい?」
「子どもの頃、家業の手伝いを少し」
アリシアは短く答え、銅貨五枚で小さな靴を受け取った。
魔法のような能力などない。ただ、裕福な商家系の子爵家に生まれ、幼い頃から物の価値と交渉の駆け引きを見て育った経験が、彼女の血肉となっているだけだった。
* * *
市場の片隅で、日持ちのする安い黒パンと固い干し肉、そして少しの果物を買い求めた。
街道沿いの木陰にあるベンチに座り、三人で簡素な昼食をとる。
アリシアは固い黒パンを引きちぎり、間に干し肉を挟んで、子どもたちの小さな手でも持ちやすい握り飯のような塊にして手渡した。
隣で、リリィが新しい靴を履いた両足を嬉しそうにぶらぶらと揺らしている。
「リリィ、くつ、あったかい」
ぽつりとこぼれたその一言に、アリシアの胸の奥がじんわりと温かくなった。
たった一足の中古靴。それでも、二日間の雨の宿場で泥水に浸かり、凍えていた小さな足が、ようやく温もりに包まれたのだ。
エミルは黙々と、黒パンの塊を小さな口で頬張っていた。
その横顔からは、以前のような張り詰めた緊張が抜け落ち、わずかな安らぎが見て取れる。
ふと、エミルがパンを口から離し、アリシアに向けて小さく頭を下げた。
「アリシア様、ありがとうございます」
その控えめな言葉に、八歳の少年の心がほんの少しだけ解け始めたのを感じる。
だが、まだ呼称は「アリシア様」のままだ。彼の中の壁は、そう簡単には崩れない。アリシアは小さく微笑み返し、自分の分の黒パンを飲み込んだ。
* * *
休憩を終え、再び乗合馬車に揺られる。
夕暮れが近づくにつれ、窓の外の景色は次第に険しさを増し、王都の周辺とは違う荒々しい山並みが姿を現し始めた。
「お嬢さん、お子さんたちと、どこまで行くんだい?」
向かいの席に座っていた中年の行商人が、気さくな声で話しかけてきた。
「グランベル領まで」
「ほう。辺境までかい。なら、もう一日もすれば領境だ」
「そうですか」
「あんなとこ、何しに行くんだい。辺境伯様は偏屈で有名だぜ」
「……仕事を探しに」
もう一日。
行商人の言葉に、アリシアは静かに息を吸い込んだ。ついに、王都の悪意が届かない場所の入り口まで来たのだ。
偏屈だという噂の辺境伯がどのような人物であれ、働く場所さえあれば、彼女は自分の力でこの子たちを養っていける。
* * *
その日の夜。
最後の宿場町の手前で馬車を降りたアリシアたちは、街道沿いの風を避けられる岩陰で野宿をすることにした。わずかな所持金を少しでも節約するための判断だった。
アリシアが手際よく拾い集めた枝で焚き火を起こすと、パチパチとはぜる炎の温もりに安心したのか、リリィはアリシアの上着に包まって早々に眠りに落ちた。
夜の闇の中、焚き火のオレンジ色の光だけが二人の顔を照らしている。
炎を見つめていたエミルが、小さな声でぽつりと呟いた。
「アリシア様、僕、父さまのことを、忘れたくないんです」
それは、亡き父への深い愛情と、実母に捨てられ、血の繋がらないアリシアの温もりに縋ろうとしている自分自身に対する、八歳の少年の切実な葛藤だった。
母の代わりにアリシアを慕えば、大好きな父との記憶まで裏切ることになるのではないか。そんな恐怖が、彼を縛り付けていたのだ。
アリシアは枝をくべる手を止め、エミルの震える肩を見つめた。
「忘れなくていいの」
穏やかで、しかし確かな重みを持った声だった。
「お父さまのことは、ずっと、覚えていていい。私は、お父さまの代わりにはならないわ。お父さまの場所を奪うつもりもない」
アリシアはエミルの隣に腰を下ろし、その小さな背中にそっと手を添えた。
「ただ、あなたたちが安全に暮らせる場所を、一緒に作りたいだけよ」
エミルは目を伏せ、焚き火の炎に照らされた顔を歪めて、小さく頷いた。
「……はい」
その瞳から一粒の涙が零れ落ち、乾いた土に吸い込まれていった。
* * *
焚き火が小さく爆ぜる音だけが、静かな夜の街道に響いている。
アリシアは、寄り添うように眠る二人の子どもの寝顔を見つめながら、暗闇の先にある東の空に思いを馳せた。
明日になれば、グランベル辺境伯領の境界を越える。
偏屈だと噂される領主。見知らぬ土地。そこで何が待っているのか、彼女にはまだ分からない。
手持ちの金は少なく、子どもたちの着の身着のままの服は汚れ切っている。
だが、進むしかない。
自らの足で歩き、働き、子どもたちを守る。そう決めたのだ。
進めば、必ず何かが変わる。
アリシアは古びた鞄を引き寄せると、わずかな希望を胸に抱きながら、冷たい夜風から子どもたちを守るようにその身を屈めた。
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