第5話 不足なしの黒い字

補給荷目録に、靴は載らない。


そう思ったあとで、俺は自分の足元を見た。


王都の床を歩くための靴だ。雪道では何度も滑り、右だけ靴下を濡らし、文書庫に来てからは暖炉の前に足を出すたびに、革が少しずつ固くなっている。


小靴、十二足。


もう一度その文字を見て、俺は口を閉じた。


「まだです」


リゼットが言った。


「まだ?」


「先に、紙を見ます」


それだけ言って、彼女は補給荷目録の端を押さえた。意味を説明する気はないらしい。


俺も、聞かなかった。


聞けば、答えが欲しくなる。

それはまだ早い気がした。



北方補給隊の正規補給品目録は、同じ棚の下段にあった。


リゼットが引き出した箱は薄く、拍子抜けするほど軽い。中身は品目表の写しだった。麦、塩、乾き豆、毛布、薬草。見慣れた言葉が、同じような字で並んでいる。


靴もあった。


ただし、そこには小靴とは書かれていない。


兵用靴、一号。

兵用靴、二号。

補修革。

替え紐。


そういう書き方だった。


「軍の靴は、小靴とは書きません」


リゼットは短く言った。


「では、これは」


「補給隊の正規品ではありません」


それ以上は言わない。


俺は小靴の行へ戻りそうになった目を、いったん止めた。紙を見ているのか、紙の向こうを見ているのか、自分でも分からなくなる。


リゼットは来訪者名簿を取りに行った。


扉の横に吊られていた薄い帳面だ。俺が初日に自分の名を書いた時、ひとつ上にあった名前。


トマ・ベイル。

北方荷役組合。

補給荷一台。


「北方補給隊ではありませんね」


俺が言うと、リゼットは頷いた。


「荷受けの名義です」


「組合なんですか」


「今は、名前だけに近いです」


「名前だけ」


「荷が来た時に、誰が受けたかを残すための名です」


それは少し嫌な言い方だった。


けれど、リゼットは嫌なことを言った顔をしていなかった。たぶん、ただ事実を選んだだけだ。


「組合の控えは?」


「小屋にあるはずです」


「文書庫ではなく?」


「鍵はロアンが持っています」


その名前は、古橋の見回り役として聞いたことがある。


俺は来訪者名簿のトマの名をもう一度見た。


三年前に死んだ男。

文書庫の来訪者。

北方補給隊。

北方荷役組合。


名前は同じなのに、所属だけが紙ごとに違う。


紙が違えば、人も違うことになるのか。


そんなことを考えてから、俺は自分で嫌になった。



ロアンは、古橋へ続く道の途中で縄を張り直していた。


背は高くない。肩幅も、村の男たちの中では普通だと思う。ただ、立っている場所がいつも道の端らしく、体の向きに無駄がなかった。こちらに気づく前から、風の来る方へ顔を少し傾けている。


「リゼット様」


彼は縄を結び終えてから、こちらを向いた。


「組合小屋の鍵を借ります」


リゼットが言うと、ロアンはすぐに頷かなかった。


腰の鍵束へ手をやり、そこで一度止める。


「今からですか」


「今からです」


「日が落ちますよ」


「落ちる前に見ます」


ロアンは俺を見た。


王都の人間が一人増えたせいで、仕事が面倒になったという顔だった。たぶん、外れてはいない。


「組合ってほどのもんじゃありません」


鍵束を外しながら、ロアンは言った。


「荷が来た時に、誰かが開けるだけです」


「誰か、ですか」


「空いてる者です。村は、役を余らせてません」


鍵束には、似た鍵がいくつもついていた。ロアンは一本選びかけ、やめて、別の一本を抜いた。


「トマ・ベイルも、その誰かですか」


俺が聞くと、鍵束の音が止まった。


ほんの一瞬だった。


「さあ」


ロアンは短く答えた。


「俺が覚えてることと、紙に残ってることが同じとは限りません」


そう言って、鍵をリゼットへ渡した。


リゼットは受け取らなかった。


「一緒に来てください」


ロアンは空を見た。


雲は低い。雪にはならないかもしれないが、ならないと断言するには北方の空は不親切だった。


「すぐですか」


「すぐです」


ロアンは、小さく息を吐いた。


「鍵だけで済む話じゃなさそうですね」


「まだ分かりません」


「分からない話は、たいてい面倒です」


言いながら、彼は先に歩き出した。



北方荷役組合の小屋は、村の外れにあった。


小屋というより、半分崩れかけた荷置き場だった。屋根の片側が低く沈み、雪がそこだけ厚く積もっている。入口の横に看板が残っていた。


北方荷役組合。


黒ずんだ板に、白い字がかろうじて読める。


その下に、もう一枚小さな札があった。


名前が書かれていたらしい。


だが、そこだけ削られている。


俺は指を伸ばしかけたが、リゼットが先に首を振った。


「触らない方がいいです」


「読めますか」


「今は」


今は、という言い方をした。


ロアンは鍵を差し込んだ。


回らない。


彼は無言で鍵を抜き、息を吹きかけ、もう一度差し込んだ。今度は、鈍い音を立てて回った。


中は暗かった。


紙の匂いではない。


古い麻袋と、凍った泥と、鉄の錆びた匂いがした。


壁には荷鉤が何本か残っている。空の麻袋が丸められ、床の端に押し込まれていた。秤は片方の皿が傾いたままで、そこに雪の粒が少し入り込んでいる。


「本当に何もありませんよ」


ロアンが言った。


何もない、と言うには、物が多すぎる。


使われていないものは、ないものより邪魔だ。


リゼットは奥へ進んだ。


棚の下に、木箱があった。


ただの箱ではない。


蓋に、小さな木札が釘で留められている。


旧戦役文書庫管理。


リゼットの眉が、少しだけ動いた。


「知っていたんですか」


俺が聞くと、彼女は首を横に振った。


「いいえ」


ロアンも近づいて、札を見た。


「そんな札、ありましたか」


その反応は、作ったものには見えなかった。


俺は木札の字を見た。


文書庫の管理札がついている。


なら、ただの村の覚え書きではない。


指先が、少し冷たくなった。


寒さのせいだけではないと思う。



箱の中には、薄い紙束がいくつも入っていた。


湿気を吸った紙は、端だけが硬くなっている。無理にめくると割れそうだったので、俺は息を止めながら一枚ずつ外した。


ロアンは入口の方に立っている。


リゼットは俺の横で、紙束の端を押さえていた。


「第三荷馬車」


俺は小さく読んだ。


紙の上の字は、補給隊の控えより粗い。数字も、少し傾いている。急いで書いたのか、手が冷えていたのか。俺にはそこまで分からない。


支給外品。


小靴、十二足。


受領、十一足。


俺はそこで止まった。


十二。


十一。


数え直すほどの数ではない。


それでも、指が勝手に動いた。


一本、余る。


「どうしました」


リゼットが聞いた。


「数が」


そこまで言って、俺はもう一つ下の欄を見た。


備考。


不足なし。


紙の上では、そうなっていた。


俺はペンを持っていないのに、右手の指を握り込んでいた。爪の先が手のひらに当たる。


不足。


その二文字は、まだ黒くならない。


黒くなったのは、その後ろだった。


なし。


な、の縁から煤が浮く。


し、の払いがゆっくり太る。


二文字だけが、紙の奥から汚れていった。


ロアンが、鍵束を握り直した。


小さな金属音がした。


リゼットは何も言わなかった。


俺は、靴が一足足りない、と言おうとした。


言いかけて、やめた。


「一足、消えています」


リゼットが言った。


「靴が、ですか」


彼女は答えなかった。


俺は受領控えを見下ろした。


小靴、十二足。


受領、十一足。


備考、不足なし。


なし、の二文字だけが、黒く滲んでいた。

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