第5話 不足なしの黒い字
補給荷目録に、靴は載らない。
そう思ったあとで、俺は自分の足元を見た。
王都の床を歩くための靴だ。雪道では何度も滑り、右だけ靴下を濡らし、文書庫に来てからは暖炉の前に足を出すたびに、革が少しずつ固くなっている。
小靴、十二足。
もう一度その文字を見て、俺は口を閉じた。
「まだです」
リゼットが言った。
「まだ?」
「先に、紙を見ます」
それだけ言って、彼女は補給荷目録の端を押さえた。意味を説明する気はないらしい。
俺も、聞かなかった。
聞けば、答えが欲しくなる。
それはまだ早い気がした。
◇
北方補給隊の正規補給品目録は、同じ棚の下段にあった。
リゼットが引き出した箱は薄く、拍子抜けするほど軽い。中身は品目表の写しだった。麦、塩、乾き豆、毛布、薬草。見慣れた言葉が、同じような字で並んでいる。
靴もあった。
ただし、そこには小靴とは書かれていない。
兵用靴、一号。
兵用靴、二号。
補修革。
替え紐。
そういう書き方だった。
「軍の靴は、小靴とは書きません」
リゼットは短く言った。
「では、これは」
「補給隊の正規品ではありません」
それ以上は言わない。
俺は小靴の行へ戻りそうになった目を、いったん止めた。紙を見ているのか、紙の向こうを見ているのか、自分でも分からなくなる。
リゼットは来訪者名簿を取りに行った。
扉の横に吊られていた薄い帳面だ。俺が初日に自分の名を書いた時、ひとつ上にあった名前。
トマ・ベイル。
北方荷役組合。
補給荷一台。
「北方補給隊ではありませんね」
俺が言うと、リゼットは頷いた。
「荷受けの名義です」
「組合なんですか」
「今は、名前だけに近いです」
「名前だけ」
「荷が来た時に、誰が受けたかを残すための名です」
それは少し嫌な言い方だった。
けれど、リゼットは嫌なことを言った顔をしていなかった。たぶん、ただ事実を選んだだけだ。
「組合の控えは?」
「小屋にあるはずです」
「文書庫ではなく?」
「鍵はロアンが持っています」
その名前は、古橋の見回り役として聞いたことがある。
俺は来訪者名簿のトマの名をもう一度見た。
三年前に死んだ男。
文書庫の来訪者。
北方補給隊。
北方荷役組合。
名前は同じなのに、所属だけが紙ごとに違う。
紙が違えば、人も違うことになるのか。
そんなことを考えてから、俺は自分で嫌になった。
◇
ロアンは、古橋へ続く道の途中で縄を張り直していた。
背は高くない。肩幅も、村の男たちの中では普通だと思う。ただ、立っている場所がいつも道の端らしく、体の向きに無駄がなかった。こちらに気づく前から、風の来る方へ顔を少し傾けている。
「リゼット様」
彼は縄を結び終えてから、こちらを向いた。
「組合小屋の鍵を借ります」
リゼットが言うと、ロアンはすぐに頷かなかった。
腰の鍵束へ手をやり、そこで一度止める。
「今からですか」
「今からです」
「日が落ちますよ」
「落ちる前に見ます」
ロアンは俺を見た。
王都の人間が一人増えたせいで、仕事が面倒になったという顔だった。たぶん、外れてはいない。
「組合ってほどのもんじゃありません」
鍵束を外しながら、ロアンは言った。
「荷が来た時に、誰かが開けるだけです」
「誰か、ですか」
「空いてる者です。村は、役を余らせてません」
鍵束には、似た鍵がいくつもついていた。ロアンは一本選びかけ、やめて、別の一本を抜いた。
「トマ・ベイルも、その誰かですか」
俺が聞くと、鍵束の音が止まった。
ほんの一瞬だった。
「さあ」
ロアンは短く答えた。
「俺が覚えてることと、紙に残ってることが同じとは限りません」
そう言って、鍵をリゼットへ渡した。
リゼットは受け取らなかった。
「一緒に来てください」
ロアンは空を見た。
雲は低い。雪にはならないかもしれないが、ならないと断言するには北方の空は不親切だった。
「すぐですか」
「すぐです」
ロアンは、小さく息を吐いた。
「鍵だけで済む話じゃなさそうですね」
「まだ分かりません」
「分からない話は、たいてい面倒です」
言いながら、彼は先に歩き出した。
◇
北方荷役組合の小屋は、村の外れにあった。
小屋というより、半分崩れかけた荷置き場だった。屋根の片側が低く沈み、雪がそこだけ厚く積もっている。入口の横に看板が残っていた。
北方荷役組合。
黒ずんだ板に、白い字がかろうじて読める。
その下に、もう一枚小さな札があった。
名前が書かれていたらしい。
だが、そこだけ削られている。
俺は指を伸ばしかけたが、リゼットが先に首を振った。
「触らない方がいいです」
「読めますか」
「今は」
今は、という言い方をした。
ロアンは鍵を差し込んだ。
回らない。
彼は無言で鍵を抜き、息を吹きかけ、もう一度差し込んだ。今度は、鈍い音を立てて回った。
中は暗かった。
紙の匂いではない。
古い麻袋と、凍った泥と、鉄の錆びた匂いがした。
壁には荷鉤が何本か残っている。空の麻袋が丸められ、床の端に押し込まれていた。秤は片方の皿が傾いたままで、そこに雪の粒が少し入り込んでいる。
「本当に何もありませんよ」
ロアンが言った。
何もない、と言うには、物が多すぎる。
使われていないものは、ないものより邪魔だ。
リゼットは奥へ進んだ。
棚の下に、木箱があった。
ただの箱ではない。
蓋に、小さな木札が釘で留められている。
旧戦役文書庫管理。
リゼットの眉が、少しだけ動いた。
「知っていたんですか」
俺が聞くと、彼女は首を横に振った。
「いいえ」
ロアンも近づいて、札を見た。
「そんな札、ありましたか」
その反応は、作ったものには見えなかった。
俺は木札の字を見た。
文書庫の管理札がついている。
なら、ただの村の覚え書きではない。
指先が、少し冷たくなった。
寒さのせいだけではないと思う。
◇
箱の中には、薄い紙束がいくつも入っていた。
湿気を吸った紙は、端だけが硬くなっている。無理にめくると割れそうだったので、俺は息を止めながら一枚ずつ外した。
ロアンは入口の方に立っている。
リゼットは俺の横で、紙束の端を押さえていた。
「第三荷馬車」
俺は小さく読んだ。
紙の上の字は、補給隊の控えより粗い。数字も、少し傾いている。急いで書いたのか、手が冷えていたのか。俺にはそこまで分からない。
支給外品。
小靴、十二足。
受領、十一足。
俺はそこで止まった。
十二。
十一。
数え直すほどの数ではない。
それでも、指が勝手に動いた。
一本、余る。
「どうしました」
リゼットが聞いた。
「数が」
そこまで言って、俺はもう一つ下の欄を見た。
備考。
不足なし。
紙の上では、そうなっていた。
俺はペンを持っていないのに、右手の指を握り込んでいた。爪の先が手のひらに当たる。
不足。
その二文字は、まだ黒くならない。
黒くなったのは、その後ろだった。
なし。
な、の縁から煤が浮く。
し、の払いがゆっくり太る。
二文字だけが、紙の奥から汚れていった。
ロアンが、鍵束を握り直した。
小さな金属音がした。
リゼットは何も言わなかった。
俺は、靴が一足足りない、と言おうとした。
言いかけて、やめた。
「一足、消えています」
リゼットが言った。
「靴が、ですか」
彼女は答えなかった。
俺は受領控えを見下ろした。
小靴、十二足。
受領、十一足。
備考、不足なし。
なし、の二文字だけが、黒く滲んでいた。
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