第4話 戻らない第三荷馬車
トマ・ベイルが消えたあと、俺は馬車置き場の陰を見ていた。
消えた、と言っていいのかは分からない。
角を曲がった。
ただそれだけかもしれない。
けれど、屋根から落ちる水の音が三つ、四つと数えられるくらい待っても、足音は戻らなかった。
「トマさん」
呼んでみた。
返事はない。
馬車置き場は、文書庫の裏手にある。今はもう使われていないらしく、柱の下の方が黒く湿り、片側の屋根板は浮いていた。雪解けの水が、その隙間から落ちている。
俺は奥へ踏み込んだ。
古い車輪の跡が、土に薄く残っている。三年前のものではないだろう。そう思いたい程度には、新しかった。
柱の根元に、荷縄が掛かっていた。
それ自体は珍しいものではない。古い馬車置き場なら、縄の一本や二本は残っていてもおかしくない。
ただ、その結び目だけが変だった。
縄は古い。毛羽立ち、ところどころ色が抜けている。
なのに結び目の内側だけ、乾いていた。
雨が吹き込む場所だ。屋根板の隙間から水も落ちている。縄の表は湿っている。それなのに、締め直されたところだけ、水を弾いたように色が違った。
俺は指をかけて、ほどこうとした。
ほどけない。
もう一度、別の輪に指を入れる。
今度は、かえって締まった。
「……何をやってるんだ、俺は」
自分で小さく言った。
あの古い橋のたもとで、トマが荷馬車の荷を縛っていた時の手を思い出した。
早かった。
力任せではない。
縄の向きと、荷の癖を知っている手だった。
目の前の結び方は、それに似ていた。
補給隊の結び方に、似ていた。
けれど俺は、まだそれを結べなかった。
土の端に、泥の跡がひとつだけ残っていた。
片足分。
それもすぐに、屋根から落ちた水に崩された。
◇
文書庫へ戻ると、リゼットは閲覧台のそばに立っていた。
椅子は引かれていない。
俺が出て行った時から、たぶん座っていない。
「追いつきましたか」
「いいえ」
「そうですか」
彼女はそれ以上聞かなかった。
それが少し腹立たしかった。俺が何を見たのか、何を見なかったのか、聞いてほしかったのかもしれない。自分でも面倒な期待だと思う。
俺は濡れた指を袖で拭いた。
「リゼット様は、トマ・ベイルが生きていると知っていたんですか」
リゼットは、すぐには答えなかった。
窓の方を見た。
閉じた窓だ。外の水音だけが、少し遅れて聞こえる。
「分かりません」
「分からない、ですか」
「はい」
平らな返事だった。
けれど、突き放す声ではなかった。自分でも何度かそこへ戻って、同じところで止まっている人の声だった。
「俺は見ました」
「見たことは、書けます」
「なら」
「書いた後のことは、別です」
俺は黙った。
リゼットは閲覧台の端に置いた紙束をそろえた。角を二度、軽く叩く。癖なのだろう。王宮記録院にも、同じことをする上役がいた。紙の角がそろっていれば、話までそろうと思っている人だった。
「……死んだことにしておいた方が、まだましな人もいます」
言いにくそうに、彼女は言った。
まし。
よい、ではない。
正しい、でもない。
「第三荷馬車を調べます」
リゼットはそう言って、棚へ向かった。
俺はその背中を追った。
◇
帰着確認簿は、思っていたより薄かった。
もっと重い帳簿を想像していたので、リゼットから受け取った時、少し拍子抜けした。表紙は黒ずんだ革で、端に指の跡が重なっている。よく開かれた帳簿は、綴じ目だけが先にくたびれる。
「北方補給隊、三年前」
リゼットが言った。
俺は日付を追った。
北砦戦の二日前。
第一荷馬車、帰着確認あり。
第二荷馬車、帰着確認あり。
第三荷馬車。
そこで欄が白くなっていた。
帰着確認、なし。
空欄ではない。
なし、と書かれている。
俺は次の欄へ行きかけた。第四荷馬車の帰着確認を目で追ってから、何かが引っかかって戻った。
第三荷馬車の欄外に、古い朱印が押されていた。
未帰着物資・責任者照会。
朱はほとんど茶色になっている。端は滲み、真ん中だけがかろうじて読めた。
「責任者照会」
俺は声に出した。
リゼットは答えない。
荷馬車が戻らなかった。
だから、誰かに聞く。
それだけなら分かる。
でも、この印はただの確認ではない。
王宮記録院にも似た印があった。
照会中。
保留。
再審待ち。
押すのは一瞬で済む。
押された方は、長く待つ。
「補給隊控えを」
リゼットが言った。
俺は頷いた。
◇
補給隊控えは、帰着確認簿よりさらに状態が悪かった。
紙の端が波打っている。湿気を吸って乾いて、また吸ったのだろう。めくるたびに、古い粉のようなものが指についた。
リゼットは俺の前に薄い写しを置いた。
「ここから先は、声に出して読んでください」
「なぜですか」
「読み飛ばすので」
「俺が?」
「今も一度、朱印を読み飛ばしました」
言い返せなかった。
俺は咳払いをして、紙へ目を落とした。
第三荷馬車。
北方補給隊。
荷目録、別紙。
責任補助。
そこで止まった。
責任補助 トマ・ベイル。
その下に、細い字が添えられている。
死亡により照会終了。
俺はその一行を、もう一度読んだ。
紙の上では、そこで終わっていた。
死者には聞けない。
聞けないから、閉じられる。
「ここで名を戻せば、彼は証言者ではなくなります」
リゼットが言った。
俺は、補給隊控えの下の方を見た。そこだけ紙が薄い。誰かが削った跡がある。完全には消えていない。光の角度を変えると、細い字が浮いた。
軍用物資横領の疑いあり。
全部が読めたわけではない。
それでも、読めてしまった。
「責任者に、なる」
俺が言うと、リゼットは頷いた。
「そう扱われます」
「でも、トマさんは」
言いかけて、止まった。
生きている。
そう言いたかった。
言えばいい。俺は見た。話した。手袋の親指を直すところまで見た。
けれど、その言葉を書類に載せた瞬間、三年前に閉じられた照会が開く。
第三荷馬車。
責任補助。
横領の疑い。
俺はそこから目を離した。
「照会は、村にも行きます」
リゼットが言った。
「レム村へ」
「はい」
エダとニルのいる村だ。
俺は閲覧台の横に置かれていた冬越し配給再審の書式を見た。リゼットが用意していたものだ。まだ提出もしていない。紙の上はきれいなままだった。
ニルの手を思い出した。
薪を抱えていた手。
小さいのに、指の関節だけが硬くなっていた手。
「止まります。たぶん、全部」
リゼットが言った。
「配給も、刻名も」
彼女は否定しなかった。
◇
俺はペンを取っていた。
いつ取ったのか、自分でも覚えていない。
癖だ。
書くべきものがあると、先に指が動く。
王宮記録院では、それでよかった。上から回ってきた副本を開き、欄を確認し、整った文字で写す。余白があれば詰め、乱れていればそろえる。考える前に手が動く方が、仕事は速い。
その手が、今は邪魔だった。
トマ・ベイル。
死者名簿にあるその名を、正したい。
俺は彼に道を教わった。
橋のことも、荷のことも、たぶん助けられている。
死んだ男として置いておくのは、違う。
違うのに。
ペン先は、紙に触れる前で止まった。
「セオ」
リゼットが俺の名を呼んだ。
珍しく、様も役職もつかなかった。
俺はペンを置いた。
置いてから、指先が少し痛いことに気づいた。ずっと力を入れていたらしい。
「先に、荷を追います」
リゼットが目を上げる。
「トマ・ベイルではなく?」
「戻さないわけじゃありません。先に、荷を見ます」
言ってから、少し足りない気がした。
「順番を間違えたくないんです」
リゼットは笑わなかった。
「分かりました」
それだけだった。
「何か、知っているんですか」
俺は聞いた。
リゼットは補給隊控えの端へ指を伸ばしかけた。
そこには、欠けた封印の跡があった。赤い蝋が紙に薄く残り、印の形は半分潰れている。何の印かは分からない。けれどリゼットは、それを見た瞬間だけ指を止めた。
触れなかった。
「知っていたら、楽だったと思います」
彼女はそう言った。
言葉の最後だけ、少し小さかった。
◇
補給荷目録は、別の箱に入っていた。
リゼットが箱を開けた時、紙ではなく乾いた草の匂いがした。荷を包む時の緩衝材が、どこかに残っていたのかもしれない。
俺は目録を広げた。
麦。
塩。
乾き豆。
毛布。
薬草。
見慣れた物の名前が並ぶ。
腹に入るもの。
体を温めるもの。
傷口を塞ぐもの。
第三荷馬車の欄で、紙の色が変わっていた。
一行だけ、削られている。
刃物か、硬い砂か。
文字の上を何度もこすった跡だった。
俺は顔を近づけた。
薄い凹みがある。
「小札……」
違う。
紙を少し傾ける。
窓から入る光が、削られた線の底に落ちた。
「いや、小靴、ですか」
リゼットは何も言わなかった。
ただ、目録を少しだけこちらへ寄せた。
削られた一行の下に、薄い文字が残っていた。
小靴、十二足。
補給荷目録に、靴は載らない。
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