第2話 死者名簿の余白

「外へ出ます」


リゼットは、そう言って帳簿を閉じた。


閉じる前に、トマ・ベイルの名の下を一度だけ指で押さえた。黒い手袋の先が、紙からなかなか離れなかった。


「今からですか」


「日が暮れる前に、古橋を見ます」


「日が暮れる前に入れ、と言われました」


「誰に」


「トマ・ベイルに」


彼女は俺を見た。


たぶん、今のは言わない方がよかった。自分でも少し思った。死んだことになっている男の忠告を、当然のように予定に入れる人間は、記録係としてもあまり信用されない。


「では、なおさらです」


彼女は閲覧台の端に置いてあった革紐を取り、名簿を結び直した。結び目は小さい。指の動きに無駄がなかった。


「帳簿はここに?」


「持ち出しません。名簿は外気に弱いので」


人より帳簿の方が大事なのか、と少し思った。


ただ、口には出さなかった。さっき濡れた手袋を暖炉の横に置かされたばかりだ。こちらの信用はまだ薄い。


リゼットは壁の鍵束から、小さな鍵をひとつ外した。


「ラング様、歩けますか」


「歩くことはできます」


「雪道を、です」


「たぶん」


「では、たぶん置いていきません」


返事としては、かなり不安だった。



古橋までは、文書庫から歩いて十分ほどだった。


来た道を戻るだけのはずなのに、リゼットと並んで歩くと、景色が少し違って見えた。彼女は雪の白いところを踏まない。轍の端、凍った土が少し見えているところを選んで歩く。


俺は二度滑った。


一度目は堪えた。二度目は、手をついた。


「王都の床は、よほど平らなのですね」


リゼットは振り返らずに言った。


「平らです。少なくとも、急に人を転ばせたりはしません」


「床は親切ですね」


「人はあまり」


それを聞いて、彼女は少しだけ足を止めた。


笑ったのかと思ったが、横顔では分からない。風が髪を揺らしただけかもしれない。


古橋は、たしかに落ちていた。


橋、と呼べるものはもう半分しかない。こちら側の板が三枚、川へ向かって斜めに折れ、向こう岸の支柱だけが黒く突き出している。縄は張り直されたばかりらしく、雪の上にまだ人の足跡が残っていた。


荷馬車の轍はなかった。


俺は橋の手前に立った。


朝、ここに老人がいた。


荷馬車のそばに立ち、杖で道を示した。外套の裾に凍った泥がついていた。荷を縛る手が早かった。


それらは、今でもはっきり思い出せる。


ただ、雪の上には何も残っていない。


「昨日の夕方、落ちたのですか」


「はい。修繕用の材が届く前でよかった」


リゼットは縄の結び目を確かめた。橋そのものではなく、縄の方を見る。こういうところは文書庫の名簿を扱う時と似ていた。


「誰か、ここを通りましたか」


「朝は見回りが一人。村のロアンです。荷馬車は通れません」


「俺は、ここで荷馬車を見ました」


「その荷馬車は、どちら側に」


「こちら側です。たぶん」


たぶん、という言葉をつけると、急に自分の記憶が頼りなくなった。


橋のこちら側だった。老人は荷馬車の後ろに回り、御者台に上がった。俺はその後ろ姿に頭を下げた。


けれど、あの時も雪が吹いていた。


目を細めた。


次に見た時、老人は御者台にいた。


その間に、自分が何を見落としたのかは分からない。


「足跡も轍もありませんね」


「雪が消したのでは」


「今日の雪では、ここまで消えません」


彼女は淡々と言った。


俺は右足を動かした。靴下はまだ湿っている。歩くたびに、冷たい布が指の間をこすった。


「では、俺は何を見たんでしょう」


「それを、これから確かめます」


そこで、初めてこちらを見た。


「あなたが嘘をついていないのなら」


「嘘は苦手です」


「苦手なだけなら、人はたまにつきます」


「俺の場合、紙に残ります」


「便利ですね」


「あまり」


リゼットはそれ以上聞かなかった。


縄の向こうで、川が黒く流れている。水音は小さい。小さいのに、しばらく聞いていると、紙をめくる音に似てきた。


俺はそれが嫌で、少し早く歩き出した。



古橋の手前から左へ折れた先に、レムという村があった。


家は少ない。二十軒もないかもしれない。屋根は低く、煙突から上がる煙は、風に押されてすぐ横へ流れていく。村の入口には、割れた鐘が吊られていた。鳴らすためというより、そこが村だと示すためのものに見えた。


リゼットが村に入ると、最初に薪を背負った少年が駆け寄ってきた。


「リゼット様」


「ニル。手袋」


少年は「あ」と言って、腰に挟んでいた手袋を慌ててはめた。年は十か十一くらいだろう。頬が赤い。右の耳だけ、霜焼けで少し膨れていた。


リゼットは膝を折り、少年の首元の布を結び直した。


「ほどけています」


「さっきまで結んでました」


「今ほどけています」


「はい」


少年は素直に頷いた。


その間、彼女の声は文書庫の時とほとんど変わらなかった。ただ、布を結ぶ指だけが速すぎない。子供の顎に触れないよう、少し遠回りしていた。


「この方は王都から来た記録係です」


少年は俺を見上げた。


「王都」


嫌そう、というほどではない。珍しいものを見る顔だった。王都の人間というより、王都から来た荷物を見る顔だ。


「セオ・ラングです」


「ニル・ハルト」


少年は名乗ってから、背負った薪を揺らした。


「記録って、名前を書く人?」


「だいたいは」


「じゃあ、父ちゃんの名前も知ってる?」


リゼットの手が、少年の襟元で止まった。


ほんの少しだった。


「ニル」


家の陰から、女の声がした。


二十代の終わりか、三十代の初めくらいだろう。厚い前掛けをして、手には粉がついている。パンをこねていたのかもしれない。


「薪を置いてきなさい」


「でも」


「置いてきなさい」


少年は口を結び、家の方へ走った。


女は俺を見なかった。リゼットにだけ頭を下げる。


「リゼット様。王都の方をお連れになるなら、先に知らせてください」


「急ぎでした」


「村は、急ぎに弱いんです」


その言い方には、棘があった。


リゼットは受け止めた。反論しない。慣れているのか、必要ないと思っているのか。


「エダ。トマ・ベイルのことを聞きに来ました」


女の手から、白い粉が落ちた。


雪の上に落ちると、粉はすぐに見えなくなった。


「誰から、その名を」


「この方が会ったそうです。今朝、古橋のそばで」


エダという女は、そこで初めて俺を見た。


顔色が変わった、というほどではない。頬の色はそのままで、目だけが止まった。


「見間違いでしょう」


「俺もそう思いたいです」


「なら、そうしてください」


「記録には残っていました」


言ってから、しまったと思った。


エダの口元が固くなった。


「王都の方は、すぐ記録と言う」


「すみません」


「謝られることでもありません」


そう言って、彼女は前掛けの粉を払った。粉は払っても払っても、布の縫い目に残る。俺はそれを見ていた。


「トマ・ベイルを知っていますか」


「知りません」


答えは早かった。


早すぎた。


リゼットが、俺の方を見た。


何も言わない。ただ、見た。


読め、ということだろうか。


人間の顔は紙ではない。何も滲んではくれない。


「村の受領記録を見せていただけますか」


俺が言うと、エダの眉がわずかに寄った。


「受領記録?」


「来訪者名簿に、補給荷一台とありました。荷が届いたなら、村にも受け取りの控えがあるはずです」


「今日は何も届いていません」


「では、その確認だけでも」


「王都の方に見せるものはありません」


今度ははっきり拒まれた。


リゼットは、すぐには口を挟まなかった。


エダの前掛けの粉が、風で少し舞った。白いはずなのに、雪の上では灰色に見える。


「エダ」


リゼットは短く呼んだ。


「この人は、北境戦役第三報告を書き換えませんでした」


エダは俺を見た。


今度は最初からこちらを見た。値踏みではなく、傷の深さを見るような目だった。


「それで、ここへ?」


「左遷されました」


「お気の毒に」


あまり気の毒そうではなかった。


「受領控えだけです。持ち出しません」


リゼットが言うと、エダは少し黙ったあと、家の奥へ向かった。


戸口に入る前、彼女は低い声で言った。


「あの名を、外で何度も呼ばないでください」


「なぜです」


彼女は答えなかった。


かわりに、家の中からニルの声がした。


「母ちゃん、トマじいのこと?」


木の器が倒れる音がした。


エダは、今度こそはっきりと振り返った。


「ニル」


少年の声は、それきりしなかった。



村の受領控えは、文書庫の帳簿よりずっと薄かった。


パン生地を置く台の端に、布で巻かれていた。表紙はなく、紙の角もそろっていない。日付の横に、麦、薪、塩、布、蝋燭。物の名前と数だけが並んでいる。


「正式な帳簿ではありません」


エダは先にそう言った。


「村で分かればいいものなので」


「十分です」


俺は紙に触れた。


黒くは滲まない。


私的な控えだからだろう。王宮の印も、領主印もない。ただの村の覚え書きだ。俺の記録魔法は、こういう紙には反応しない。


麦、一袋。


塩、半箱。


修繕縄、三束。


数字は小さい。小さくても、冬の村ではたぶん大きい。


「今日の欄は」


エダはページをめくった。


空白だった。


「何も届いていません」


「来訪者名簿には、補給荷一台とありました」


「なら、その名簿が間違っています」


「そうかもしれません」


「王都の記録でも、間違うんですね」


「よくあります」


言うと、エダは少しだけ目を細めた。


笑ったのではない。怒ったのでもない。王都の人間が自分で王都の記録を疑ったことを、どう扱えばいいか決めかねている顔だった。


リゼットが台の上に手を置いた。


「エダ。ニルの父の名は、戦死者名簿にはありません」


空気が変わった。


俺は思わずリゼットを見た。


今、その話をするのか。


エダは布の端を握った。粉のついた指で、同じところを何度もこする。


「ありませんね」


「王都から来た記録係がいます」


「だから?」


「確認できます」


「確認したら、戻るんですか」


リゼットは答えなかった。


エダは続けた。


「名前が紙に戻ったら、あの人も戻りますか」


ニルの家の奥で、火が小さく鳴った。


俺は受領控えから手を離した。こういう時、何か言うべきなのかもしれない。王都の記録係としては、手続きなら説明できる。申請先、必要書類、確認にかかる日数。


どれも今は、ひどく薄い。


「戻りません」


言ったのはリゼットだった。


「でも、逃げたことにはさせません」


エダの指が止まった。


「それは、あなたのお父上にも言えることですか」


リゼットは一瞬だけ黙った。


「言えるようにします」


エダは目を伏せた。


それで話は終わった。


少なくとも、その場では。



文書庫に戻る頃には、日が傾いていた。


俺の右足はもう冷たいというより、自分のものではない感じがしていた。暖炉の前に座ったら靴を脱ぎたい。だが、初日にそれをやる勇気はなかった。


リゼットは扉を開ける前、外套についた雪を丁寧に払った。


一度、二度。


三度目は、払うというより時間を置くための動きに見えた。


「エダさんの夫は」


「エルン・ハルトです」


「戦死者名簿にはないと」


「ありません。脱走者名簿にも、ありません」


「では、どこに」


「どこにも」


鍵が差し込まれる音がした。


「どこにもいない人は、探し方を間違えると、ずっとどこにもいません」


中に入ると、文書庫は昼より暗かった。


暖炉の火は細く残っている。閲覧台の上には、さっき閉じた戦死者名簿がある。もちろん、俺たちが出る前にリゼットが紐を結んだ。


その紐が、ほどけていた。


俺は足を止めた。


「触りましたか」


「いいえ」


彼女の声は低かった。


すぐに名簿へ近づかなかった。まず窓を見る。扉を見る。棚の影を見る。人がいるかどうかを確かめてから、閲覧台へ進む。


俺も後に続いた。


ページは開かれている。


トマ・ベイルの名があるページではない。


もっと後ろだ。


余白の多いページだった。


そこに、ひとつ名前が増えていた。


エルン・ハルト。


所属、空白。


死亡推定日、空白。


遺体確認、空白。


名前だけが、まだ乾かないインクで置かれている。


俺は紙に触れた。


文字の縁が、黒く滲んだ。


「リゼット様」


自分でも、声が少し変わったのが分かった。


「これは、誰が」


リゼットは答えなかった。


黒い手袋の指で、余白の下を押さえる。


そこにはまだ、何も書かれていない。


けれど俺には、紙が次の名前を待っているように見えた。


暖炉の火が、ぱちりと鳴った。


「明日、エダに会います」


彼女は名簿から目を離さずに言った。


「今日ではなく?」


「夜にこの名を持って行けば、あの人は眠れません」


それは、たぶん優しさだった。


優しさにしては、ひどく事務的な声だったけれど。


「では、明日」


「はい」


リゼットは名簿を閉じようとして、手を止めた。


俺も見た。


エルン・ハルトの名の下。


空白だったはずの所属欄に、細い黒い線が一本だけ滲んでいた。


まだ文字にはなっていない。


けれど、まるで誰かが、そこに何かを書き始めようとしているようだった。

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