第2話 死者名簿の余白
「外へ出ます」
リゼットは、そう言って帳簿を閉じた。
閉じる前に、トマ・ベイルの名の下を一度だけ指で押さえた。黒い手袋の先が、紙からなかなか離れなかった。
「今からですか」
「日が暮れる前に、古橋を見ます」
「日が暮れる前に入れ、と言われました」
「誰に」
「トマ・ベイルに」
彼女は俺を見た。
たぶん、今のは言わない方がよかった。自分でも少し思った。死んだことになっている男の忠告を、当然のように予定に入れる人間は、記録係としてもあまり信用されない。
「では、なおさらです」
彼女は閲覧台の端に置いてあった革紐を取り、名簿を結び直した。結び目は小さい。指の動きに無駄がなかった。
「帳簿はここに?」
「持ち出しません。名簿は外気に弱いので」
人より帳簿の方が大事なのか、と少し思った。
ただ、口には出さなかった。さっき濡れた手袋を暖炉の横に置かされたばかりだ。こちらの信用はまだ薄い。
リゼットは壁の鍵束から、小さな鍵をひとつ外した。
「ラング様、歩けますか」
「歩くことはできます」
「雪道を、です」
「たぶん」
「では、たぶん置いていきません」
返事としては、かなり不安だった。
◇
古橋までは、文書庫から歩いて十分ほどだった。
来た道を戻るだけのはずなのに、リゼットと並んで歩くと、景色が少し違って見えた。彼女は雪の白いところを踏まない。轍の端、凍った土が少し見えているところを選んで歩く。
俺は二度滑った。
一度目は堪えた。二度目は、手をついた。
「王都の床は、よほど平らなのですね」
リゼットは振り返らずに言った。
「平らです。少なくとも、急に人を転ばせたりはしません」
「床は親切ですね」
「人はあまり」
それを聞いて、彼女は少しだけ足を止めた。
笑ったのかと思ったが、横顔では分からない。風が髪を揺らしただけかもしれない。
古橋は、たしかに落ちていた。
橋、と呼べるものはもう半分しかない。こちら側の板が三枚、川へ向かって斜めに折れ、向こう岸の支柱だけが黒く突き出している。縄は張り直されたばかりらしく、雪の上にまだ人の足跡が残っていた。
荷馬車の轍はなかった。
俺は橋の手前に立った。
朝、ここに老人がいた。
荷馬車のそばに立ち、杖で道を示した。外套の裾に凍った泥がついていた。荷を縛る手が早かった。
それらは、今でもはっきり思い出せる。
ただ、雪の上には何も残っていない。
「昨日の夕方、落ちたのですか」
「はい。修繕用の材が届く前でよかった」
リゼットは縄の結び目を確かめた。橋そのものではなく、縄の方を見る。こういうところは文書庫の名簿を扱う時と似ていた。
「誰か、ここを通りましたか」
「朝は見回りが一人。村のロアンです。荷馬車は通れません」
「俺は、ここで荷馬車を見ました」
「その荷馬車は、どちら側に」
「こちら側です。たぶん」
たぶん、という言葉をつけると、急に自分の記憶が頼りなくなった。
橋のこちら側だった。老人は荷馬車の後ろに回り、御者台に上がった。俺はその後ろ姿に頭を下げた。
けれど、あの時も雪が吹いていた。
目を細めた。
次に見た時、老人は御者台にいた。
その間に、自分が何を見落としたのかは分からない。
「足跡も轍もありませんね」
「雪が消したのでは」
「今日の雪では、ここまで消えません」
彼女は淡々と言った。
俺は右足を動かした。靴下はまだ湿っている。歩くたびに、冷たい布が指の間をこすった。
「では、俺は何を見たんでしょう」
「それを、これから確かめます」
そこで、初めてこちらを見た。
「あなたが嘘をついていないのなら」
「嘘は苦手です」
「苦手なだけなら、人はたまにつきます」
「俺の場合、紙に残ります」
「便利ですね」
「あまり」
リゼットはそれ以上聞かなかった。
縄の向こうで、川が黒く流れている。水音は小さい。小さいのに、しばらく聞いていると、紙をめくる音に似てきた。
俺はそれが嫌で、少し早く歩き出した。
◇
古橋の手前から左へ折れた先に、レムという村があった。
家は少ない。二十軒もないかもしれない。屋根は低く、煙突から上がる煙は、風に押されてすぐ横へ流れていく。村の入口には、割れた鐘が吊られていた。鳴らすためというより、そこが村だと示すためのものに見えた。
リゼットが村に入ると、最初に薪を背負った少年が駆け寄ってきた。
「リゼット様」
「ニル。手袋」
少年は「あ」と言って、腰に挟んでいた手袋を慌ててはめた。年は十か十一くらいだろう。頬が赤い。右の耳だけ、霜焼けで少し膨れていた。
リゼットは膝を折り、少年の首元の布を結び直した。
「ほどけています」
「さっきまで結んでました」
「今ほどけています」
「はい」
少年は素直に頷いた。
その間、彼女の声は文書庫の時とほとんど変わらなかった。ただ、布を結ぶ指だけが速すぎない。子供の顎に触れないよう、少し遠回りしていた。
「この方は王都から来た記録係です」
少年は俺を見上げた。
「王都」
嫌そう、というほどではない。珍しいものを見る顔だった。王都の人間というより、王都から来た荷物を見る顔だ。
「セオ・ラングです」
「ニル・ハルト」
少年は名乗ってから、背負った薪を揺らした。
「記録って、名前を書く人?」
「だいたいは」
「じゃあ、父ちゃんの名前も知ってる?」
リゼットの手が、少年の襟元で止まった。
ほんの少しだった。
「ニル」
家の陰から、女の声がした。
二十代の終わりか、三十代の初めくらいだろう。厚い前掛けをして、手には粉がついている。パンをこねていたのかもしれない。
「薪を置いてきなさい」
「でも」
「置いてきなさい」
少年は口を結び、家の方へ走った。
女は俺を見なかった。リゼットにだけ頭を下げる。
「リゼット様。王都の方をお連れになるなら、先に知らせてください」
「急ぎでした」
「村は、急ぎに弱いんです」
その言い方には、棘があった。
リゼットは受け止めた。反論しない。慣れているのか、必要ないと思っているのか。
「エダ。トマ・ベイルのことを聞きに来ました」
女の手から、白い粉が落ちた。
雪の上に落ちると、粉はすぐに見えなくなった。
「誰から、その名を」
「この方が会ったそうです。今朝、古橋のそばで」
エダという女は、そこで初めて俺を見た。
顔色が変わった、というほどではない。頬の色はそのままで、目だけが止まった。
「見間違いでしょう」
「俺もそう思いたいです」
「なら、そうしてください」
「記録には残っていました」
言ってから、しまったと思った。
エダの口元が固くなった。
「王都の方は、すぐ記録と言う」
「すみません」
「謝られることでもありません」
そう言って、彼女は前掛けの粉を払った。粉は払っても払っても、布の縫い目に残る。俺はそれを見ていた。
「トマ・ベイルを知っていますか」
「知りません」
答えは早かった。
早すぎた。
リゼットが、俺の方を見た。
何も言わない。ただ、見た。
読め、ということだろうか。
人間の顔は紙ではない。何も滲んではくれない。
「村の受領記録を見せていただけますか」
俺が言うと、エダの眉がわずかに寄った。
「受領記録?」
「来訪者名簿に、補給荷一台とありました。荷が届いたなら、村にも受け取りの控えがあるはずです」
「今日は何も届いていません」
「では、その確認だけでも」
「王都の方に見せるものはありません」
今度ははっきり拒まれた。
リゼットは、すぐには口を挟まなかった。
エダの前掛けの粉が、風で少し舞った。白いはずなのに、雪の上では灰色に見える。
「エダ」
リゼットは短く呼んだ。
「この人は、北境戦役第三報告を書き換えませんでした」
エダは俺を見た。
今度は最初からこちらを見た。値踏みではなく、傷の深さを見るような目だった。
「それで、ここへ?」
「左遷されました」
「お気の毒に」
あまり気の毒そうではなかった。
「受領控えだけです。持ち出しません」
リゼットが言うと、エダは少し黙ったあと、家の奥へ向かった。
戸口に入る前、彼女は低い声で言った。
「あの名を、外で何度も呼ばないでください」
「なぜです」
彼女は答えなかった。
かわりに、家の中からニルの声がした。
「母ちゃん、トマじいのこと?」
木の器が倒れる音がした。
エダは、今度こそはっきりと振り返った。
「ニル」
少年の声は、それきりしなかった。
◇
村の受領控えは、文書庫の帳簿よりずっと薄かった。
パン生地を置く台の端に、布で巻かれていた。表紙はなく、紙の角もそろっていない。日付の横に、麦、薪、塩、布、蝋燭。物の名前と数だけが並んでいる。
「正式な帳簿ではありません」
エダは先にそう言った。
「村で分かればいいものなので」
「十分です」
俺は紙に触れた。
黒くは滲まない。
私的な控えだからだろう。王宮の印も、領主印もない。ただの村の覚え書きだ。俺の記録魔法は、こういう紙には反応しない。
麦、一袋。
塩、半箱。
修繕縄、三束。
数字は小さい。小さくても、冬の村ではたぶん大きい。
「今日の欄は」
エダはページをめくった。
空白だった。
「何も届いていません」
「来訪者名簿には、補給荷一台とありました」
「なら、その名簿が間違っています」
「そうかもしれません」
「王都の記録でも、間違うんですね」
「よくあります」
言うと、エダは少しだけ目を細めた。
笑ったのではない。怒ったのでもない。王都の人間が自分で王都の記録を疑ったことを、どう扱えばいいか決めかねている顔だった。
リゼットが台の上に手を置いた。
「エダ。ニルの父の名は、戦死者名簿にはありません」
空気が変わった。
俺は思わずリゼットを見た。
今、その話をするのか。
エダは布の端を握った。粉のついた指で、同じところを何度もこする。
「ありませんね」
「王都から来た記録係がいます」
「だから?」
「確認できます」
「確認したら、戻るんですか」
リゼットは答えなかった。
エダは続けた。
「名前が紙に戻ったら、あの人も戻りますか」
ニルの家の奥で、火が小さく鳴った。
俺は受領控えから手を離した。こういう時、何か言うべきなのかもしれない。王都の記録係としては、手続きなら説明できる。申請先、必要書類、確認にかかる日数。
どれも今は、ひどく薄い。
「戻りません」
言ったのはリゼットだった。
「でも、逃げたことにはさせません」
エダの指が止まった。
「それは、あなたのお父上にも言えることですか」
リゼットは一瞬だけ黙った。
「言えるようにします」
エダは目を伏せた。
それで話は終わった。
少なくとも、その場では。
◇
文書庫に戻る頃には、日が傾いていた。
俺の右足はもう冷たいというより、自分のものではない感じがしていた。暖炉の前に座ったら靴を脱ぎたい。だが、初日にそれをやる勇気はなかった。
リゼットは扉を開ける前、外套についた雪を丁寧に払った。
一度、二度。
三度目は、払うというより時間を置くための動きに見えた。
「エダさんの夫は」
「エルン・ハルトです」
「戦死者名簿にはないと」
「ありません。脱走者名簿にも、ありません」
「では、どこに」
「どこにも」
鍵が差し込まれる音がした。
「どこにもいない人は、探し方を間違えると、ずっとどこにもいません」
中に入ると、文書庫は昼より暗かった。
暖炉の火は細く残っている。閲覧台の上には、さっき閉じた戦死者名簿がある。もちろん、俺たちが出る前にリゼットが紐を結んだ。
その紐が、ほどけていた。
俺は足を止めた。
「触りましたか」
「いいえ」
彼女の声は低かった。
すぐに名簿へ近づかなかった。まず窓を見る。扉を見る。棚の影を見る。人がいるかどうかを確かめてから、閲覧台へ進む。
俺も後に続いた。
ページは開かれている。
トマ・ベイルの名があるページではない。
もっと後ろだ。
余白の多いページだった。
そこに、ひとつ名前が増えていた。
エルン・ハルト。
所属、空白。
死亡推定日、空白。
遺体確認、空白。
名前だけが、まだ乾かないインクで置かれている。
俺は紙に触れた。
文字の縁が、黒く滲んだ。
「リゼット様」
自分でも、声が少し変わったのが分かった。
「これは、誰が」
リゼットは答えなかった。
黒い手袋の指で、余白の下を押さえる。
そこにはまだ、何も書かれていない。
けれど俺には、紙が次の名前を待っているように見えた。
暖炉の火が、ぱちりと鳴った。
「明日、エダに会います」
彼女は名簿から目を離さずに言った。
「今日ではなく?」
「夜にこの名を持って行けば、あの人は眠れません」
それは、たぶん優しさだった。
優しさにしては、ひどく事務的な声だったけれど。
「では、明日」
「はい」
リゼットは名簿を閉じようとして、手を止めた。
俺も見た。
エルン・ハルトの名の下。
空白だったはずの所属欄に、細い黒い線が一本だけ滲んでいた。
まだ文字にはなっていない。
けれど、まるで誰かが、そこに何かを書き始めようとしているようだった。
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