左遷された王宮記録係、辺境で死んだはずの男に道を教わる

うよし

第1話 死んだ男に道を教わった

俺はその日、死んだ男に道を教わった。


北方の雪は、王都の雪と違う。


王都の雪は、朝になれば使用人が掃き、昼には馬車の泥に混じって消える。けれど北方の雪は、道の端に積まれたまま、こちらを見ているようだった。


「旧戦役文書庫なら、その橋の手前を左だ」


荷馬車のそばに立つ老人は、そう言って杖の先を上げた。


片足を少し引きずっている。外套の裾には、凍った泥が白くこびりついていた。年は六十を越えているだろうか。だが、荷を縛る手つきだけは妙に早い。


「渡らないんですか」


「渡るな。板が腐ってる」


橋の下では、黒い川が細く流れていた。欄干には古い縄が張られている。通行止め、と書かれた板は雪をかぶって、半分ほどしか読めなかった。


「ありがとうございます」


「礼を言うほどの道じゃない。王都の人間は、ここらの道でよく迷う」


「王都の人間だと分かりますか」


老人は俺の靴を見た。


「雪道を歩く靴じゃない」


それは、まったくその通りだった。


俺の靴は王宮記録院で支給されたものだ。床石の上を静かに歩くには向いているが、凍った轍を踏むためには作られていない。駅馬車を降りてから、もう三度は滑りかけている。靴下も、右だけ濡れていた。なぜ片方だけなのかは分からない。


「名は?」


「セオ・ラングです」


「セオか」


老人は、そこで少しだけ間を置いた。


「俺はトマ・ベイル。文書庫へ行くなら、日が暮れる前に入れ」


「夜は危ないのですか」


「あそこは、夜になると紙が鳴る」


「紙が?」


「死んだ連中が、自分の名前を探すんだとさ」


冗談のように言って、老人は荷馬車の後ろへ回った。


笑うべきか迷った。


迷っているうちに、橋の向こうから風が吹いた。雪の粒が頬に当たり、目を細める。


次に見た時、老人はもう御者台に上がっていた。


「文書庫の娘には気をつけろよ」


「なぜです」


「あの子は、王都の人間が嫌いだ」


荷馬車が軋みながら動き出す。


俺はその後ろ姿に頭を下げた。


それが、トマ・ベイルという男と交わした最初の会話だった。


そして公式の記録によれば、彼は三年前に死んでいた。



王都を出たのは三日前だ。


嘘の報告書を書けなかった。


王宮記録院で任されたのは、北境戦役第三報告の清書だった。三年前、ヴァルグレイヴ辺境伯が率いた北方軍の敗走についてまとめたものだ。


辺境伯の無謀な進軍により、補給線は崩壊。


そう書くはずだった。


だが、その一文の「補給線」のあたりで、文字が黒く滲んだ。何度書き直しても同じだった。ペン先を洗っても、紙を替えても、そこだけ煤を吸ったように汚れる。


補給帳簿では、補給馬車は戦闘の二日前に王国軍の命令で南へ戻されている。荷の数も、護衛の人数も、印章も残っていた。


俺には、どちらが正しいかまでは分からない。


ただ、同時には成立しない。


上司のグラハム書記官は、未完成の報告書を見下ろして言った。


「ラング君。余計なことは調べるな」


俺は頷いた。


頷くことはできる。


頷いた内容を、実行できるかは別だ。


その日のうちに辞令が出た。


北方辺境、旧戦役文書庫勤務を命ずる。


左遷、という言葉は書かれていない。


王都の役人は、そういうところだけ礼儀正しい。



旧戦役文書庫は、古い砦を改装した建物だった。


門の上には、もう使われていない弓狭間が残っている。壁の石は黒ずみ、雪が積もった屋根からは細い氷柱が何本も垂れていた。


扉の横に、来訪者名簿が吊られている。


俺は手袋を外し、備え付けのペンを取った。指先が少し赤くなっていた。名前を書こうとして、ひとつ上の行に目が止まる。


トマ・ベイル。北方荷役組合。補給荷一台。


インクはまだ新しい。


橋で会った老人は、俺より先にここへ着いていたらしい。


そう思ってから、少しだけ違和感が残った。荷馬車の進みは遅かった。俺は途中で追い越した覚えもない。


まあ、近道でもあるのだろう。


そう片づけて、俺は自分の名を書いた。職業欄のところで少し迷い、王宮記録院、と書いてから、横に小さく旧戦役文書庫、と足した。異動初日の字は、たいてい落ち着かない。


扉を押すと、紙と煤の匂いがした。


王宮記録院の紙は、乾いた匂いがする。ここにある紙は、少し湿っていた。長く閉じた箱を開けた時の匂いに近い。いい匂いではないが、嫌いではなかった。


「王都からの方ですね」


声がした。


閲覧台の奥に、若い女性が立っていた。


黒い手袋をしている。喪服ではない。けれど、白く曇った文書庫の中で、その手袋だけが妙に目に残った。


「セオ・ラングです。本日付で、こちらに」


「存じています」


彼女は俺の言葉を最後まで聞かなかった。


「リゼット・ヴァルグレイヴです。この文書庫を管理しています」


ヴァルグレイヴ。


三年前、北境戦役で愚将と記録された辺境伯家の名だ。


俺が一礼すると、リゼットは同じ角度で礼を返した。丁寧だが、歓迎はされていない。そういう礼だった。


「王都の方は、記録をよく失くされます」


「俺は、失くすより拾う方が得意です」


言ってから、少し軽すぎたかと思った。


リゼットは表情を変えなかった。


「その手袋では、帳簿を濡らします。暖炉の横へ」


「俺の手袋の心配ですか」


「帳簿の心配です」


その言い方があまりに平らだったので、反論する気も失せた。


俺は濡れた手袋を外し、暖炉のそばの椅子に置いた。薪は細く燃えているだけで、部屋はまだ寒い。指を擦ると、皮膚の奥がじんと痛んだ。


閲覧台の上には、厚い帳簿が何冊も積まれていた。背表紙の革は擦り切れ、紙の端は少し波打っている。古いものほど、紐できつく縛られていた。


リゼットはそのうち一冊に手を置いた。


その手つきだけは、ひどく慎重だった。


壊れものを運ぶように。


「王都からは、あなたを補助記録係として受け入れるよう通達が来ています」


「はい」


「ですが、こちらに補助できるほど整った記録はありません」


「見れば分かります」


「まだ見ていません」


「匂いで、少し」


リゼットは初めて、俺を正面から見た。


怒ったのではない。たぶん、分類し直したのだと思う。俺も仕事でよくやる。表紙の題と中身が合わない時に、いったん別の山へ置く。


「どうしてここへ」


「辞令です」


「それは知っています。なぜ、辞令が出たのですか」


窓の外で風が鳴った。


細かい雪が窓枠に当たり、砂を撒いたような音を立てる。


「書き換えられなかったので」


「何を」


「北境戦役第三報告です。補給記録と合わない箇所がありました」


リゼットの黒い手袋が、帳簿の上で止まった。


ほんの一拍。


それだけだった。


「そうですか」


声は変わらない。


けれど、彼女は帳簿の紐をほどいた。


「では、最初の仕事です」


表紙には、北境戦役戦死者名簿、とある。


俺は息を吐いた。自分が少し緊張していたことに、その時ようやく気づいた。


戦死者名簿。


王宮にも同じ種類のものはある。名前、所属、死亡推定日、遺体確認の有無。死者を並べる形式は、どこでも大して変わらない。


ただ、ここにある名簿は重かった。


紙の重さではない。


ページの端に、何度もめくられた跡がある。ある名前の横だけ、爪で押したような小さな凹みが残っていた。誰かがそこを、何度も読んだのだろう。


「触れても」


「そのための仕事でしょう」


リゼットは短く答えた。


俺は裸の指で、最初のページに触れた。


古いインクの文字が並んでいる。整った筆跡ではない。何人もの手が、何日にも分けて書き足した名簿だ。王宮の清書とは違う。文字の揺れが、そのまま現場の乱れに見えた。


ページをめくる。


リゼットは黙っていた。


俺が読める速度に合わせているのか、俺がどこで止まるかを見ているのか、分からない。


五枚目の半ばで、文字の縁が黒く滲んだ。


最初は、インク染みかと思った。


だが違う。


紙の奥から、文字だけが煤を吸ったように黒ずんでいる。


トマ・ベイル。


北方補給隊所属。


三年前、北境戦役にて戦死。


遺体未確認。


俺は指を止めた。


今日の来訪者名簿には、新しいインクで同じ名前があった。


橋のそばで、同じ名前を名乗った老人にも会っている。


公式の戦死者名簿と、今日の来訪者名簿。


二つは、一緒には置けない。


「どうしました」


リゼットが尋ねた。


俺は名簿から目を離せなかった。


「この人なら、今朝、橋で会いました」


リゼットはすぐには答えなかった。


黒い手袋の指が、帳簿の端を押さえている。その力が、少しだけ強くなった。


「……トマ・ベイルに、会ったのですか」


「はい。橋のところで。荷馬車に乗っていました」


「名を聞いたのですか」


「本人がそう名乗りました。来訪者名簿にも、同じ名前が」


俺は入口の方を振り返った。


扉は閉じている。隙間から白い光が細く差し込んでいた。風の音に混じって、どこかで紙が擦れる音がした。


リゼットは名簿を閉じなかった。


「その方は、三年前に死んだことになっています」


「では、俺が会ったのは」


「さあ」


彼女は名簿の余白へ視線を落とした。


そこには、まだ何も書かれていない。


まだ、という言葉がなぜ浮かんだのか、自分でも分からなかった。


「それに」


リゼットは顔を上げずに言った。


「古橋は昨日の夕方に落ちています」


俺は、入口の扉を見た。


「でも、橋のそばに荷馬車が」


「荷馬車は入れません。あそこは今朝、村の者も通っていないはずです」


俺の右の靴下だけが、まだ冷たかった。


急に、それがひどく気になった。


「ラング様」


初めて名前を呼ばれた。


「ここでは、名簿は墓です」


リゼットは黒い手袋の指で、トマ・ベイルの名の下を押さえた。


「墓から出てきた人を見たのなら、確かめてください」


暖炉の中で、薪が小さく割れた。


紙が鳴る。


老人の声を思い出した。


死んだ連中が、自分の名前を探すんだとさ。


リゼットは、名簿を俺の方へ少し押した。


「それが、あなたの最初の仕事です」

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