第4話 師

 白雲がめずらしく、長いあいだ考えこんでいた。


 稽古場で木剣を振る息子を、腕を組んで見ていたのである。白燕の剣は年に似合わず、よく伸びる。だが白雲が見ていたのは、剣そのものではなかった。


 白燕は稽古のあいまに、よく問うた。なぜ、この構えなのか。なぜ、この足の運びなのか。理由を聞いて納得すると、次の一振りがまるで違うものになる。教えられたことをただなぞる子ではない。教えられたことの奥にあるものを、見ようとする子であった。


 ――この子は、武だけの器ではない。


 白雲はそう思った。武の才なら自分が伸ばしてやれる。だがこの子の頭のよさ、人の心を読む目――そちらは自分の手には負えぬ。武人の自分が下手に教えれば、かえってこの芽を歪めてしまう。


 参内した折に、主上にそのことを申し上げた。


 主上はしばらく黙って聞いておられたが、やがてひとつうなずいた。


「蘭妃がよかろう」


 と、主上は言った。


「あれは皇族の出で、宮中の機微に通じておる。知略にかけては当代、肩を並べる者がない。……それに」


 主上はそこで、声を少し落とされた。


「蘭妃はすでに知っておる。鳳のことも、白燕のことも。あの者の前でなら、二人の子を並べて教えても案ずることはない」


 白雲は深く頭を下げた。武を父が、知を蘭妃が。主上と白雲がひとりの子のために、また一つ手を打ったのである。白燕にはまだ、その手の意味は見えていない。


       ────


 はじめての授業の日。


 白燕が通されたのは、宮中の書物の匂いのする一室であった。窓からやわらかい光が差している。


 部屋にはすでに鳳がいた。重い衣を着て、まっすぐに座っている。白燕の顔を見ると、鳳はほんの少し口もとをゆるめた。一緒に学ぶのだ、と白燕は聞かされていた。それだけで、知らない場所の知らない学びが、急にこわくなくなった。


 やがて、蘭妃が入ってきた。


 白燕ははっと、背を伸ばした。


 蘭妃は白燕の母ほどの年には見えなかった。だが、ずっと年下にも見えなかった。落ち着いた物腰の、しずかな女人であった。声はやわらかい。やわらかいが、その奥に底の知れない、深いものがある。白燕はそう感じた。


「白燕どの。はじめてお目にかかります。蘭妃と申します」


 蘭妃は丁寧に名乗った。子ども相手に見くだしたところがまるでない。


「これからは、私が政(まつりごと)と兵法と――それから、計(けい)の使い方をお教えします」


「計、ですか」


「ええ」


 蘭妃はふところから、一枚の紙を取り出した。何も書かれていない、ただの紙であった。それを机の上に置く。


 そして蘭妃が、その紙にすっと指を触れた。


 紙の端がひとりでに焦げた。炎も出さず煙も上げず、ただ見えない指でなぞられたように、茶色く焦げていく。白燕は息をのんだ。


「これが計の、ほんの入り口です。火を呼び、水を導き、土を動かす。――戦場で千の兵に値する力です。けれど」


 蘭妃は焦げた紙を、白燕のほうへ滑らせた。


「この力は振るう前に、考える者にしか扱えません。考えなしに振るえば、味方をも焼きます。だから――まず考えることを、学んでいただきます。火を出すのはずっと、あとです」


 白燕は焦げた紙を、両手で受け取った。


 胸が高鳴っていた。父の剣とは違う。これは頭で振るう剣だ。白燕の中で何かが、すとんと収まる音がした。


 鳳がその横顔を、ちらりと見ていた。白燕が新しいものに目を輝かせるさまを、鳳はなぜか、自分のことのようにうれしく思った。


       ────


 その日の授業はおだやかに進む――はずであった。


 戸が勢いよく開いた。


「ずるいぞ!」


 紅鈴であった。息を切らして、戸口に立っている。


「白燕。お前、こんなところで、おれの知らないことをやっていたのか。聞いてないぞ。おれも、やる」


 白燕は目をまるくした。蘭妃はおどろくふうもなく、ただおもしろそうに紅鈴を見た。


「紅将軍のお嬢さんですね。……よろしいでしょう。お座りなさい」


 紅鈴は勝ち誇った顔で、白燕の隣にどすんと座った。鳳がわずかに眉を寄せた。が、紅鈴は皇帝の前だろうが誰の前だろうが、態度を変えるということを知らない。「失礼があってはならぬ」と後で女官にどれだけ言われても、紅鈴には何が失礼なのか、よく呑み込めないのである。


 さて、授業が再び始まった。


 蘭妃は古い戦の話をした。なぜ、その将が勝ったのか。なぜ、その将が負けたのか。地形を紙に描いて、問うた。白燕は夢中になって考えた。鳳も低い声で、自分の考えを述べた。


 紅鈴はというと――


 はじめのほんのしばらくは、腕を組んでふんふん、と聞いていた。が、そのうち足をもぞもぞさせはじめた。それから机の木目を、指でなぞりはじめた。やがてこっくり、こっくり、と舟を漕ぎ出した。


 地形がどうの補給がどうの、という話は、紅鈴にはどうにも退屈きわまりないものであった。紅鈴の体は座っているより動いているほうが、ずっとものを覚える。


「……つまらん」


 とうとう紅鈴は、正直につぶやいた。


 白燕が思わずふき出した。蘭妃も口もとを隠して笑った。鳳でさえ肩を、かすかに揺らした。


 紅鈴はまっ赤になって、立ち上がった。


「お、おれは武で、白大将軍を超えるんだ。こんな紙の上の話は……お、おれには向いてないだけだ!」


 言うだけ言って、紅鈴は来たときと同じ勢いで出ていった。


 次の授業の日から、紅鈴はもう、来なかった。


 けれども――白燕は知っていた。紅鈴は知略を学びたかったのではない。ただ紅鈴の知らないところに白燕がいるのが、面白くなかったのだ。割りこんででも、同じ場所にいたかったのだ。退屈な授業に一度だけ座ってみせたのは、紅鈴なりの不器用な精いっぱいであった。


 白燕はそう思うと、なんだかおかしくて、そしてあたたかかった。


       ────


 授業が終わり、白燕は焦げた紙を大切にしまって、部屋を出ようとした。


 蘭妃がその背に、声をかけた。


「白燕どの。あなたは、いい目をしています」


 白燕は振り返った。


「物を学ぶ目ではありません。――人を案じる目です。さきほど、あのお嬢さんが出ていったあと、あなたは笑いながら、すこし寂しそうな顔をなさった。あの子がほんとうは何をしたかったのか、わかってしまう目を、あなたは持っている」


 白燕はどう答えてよいか、わからなかった。


「その目は将として、たいそうな宝です。けれど」


 蘭妃の声がほんの少し、しずかになった。


「その目はいつか、あなた自身を苦しめます。人の心がわかりすぎる者は、人の心の痛むところまで見えてしまうから」


 白燕はまだ幼く、その言葉の意味を半分も、わからなかった。ただ蘭妃の声の底のほうにある、深いものに少しだけ触れた気がした。


 ――蘭妃はこのとき、ただ優れた子の師であった。その子が育って、いつか自分の胸に生まれてはじめての、名づけようのない火を灯すことになろうとは。蘭妃自身まだ、知らない。


 窓の光が焦げた紙を、白く照らしていた。


 白燕はその紙を抱いて、頭を下げ、部屋を出た。武を父に、知を蘭妃に。幼い白燕は両手いっぱいに、あずかりものを増やしていく。

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