第3話 紅い鈴
その年の冬、白燕は父に連れられて、紅家の門をくぐった。
紅家は、白家とは、屋敷の趣がまるで違った。庭に花の一本もない。あるのは、踏み固められた稽古場と、立ち並ぶ的と、刃こぼれした古い武具ばかりである。質実、という言葉が、そのまま塀の内に建っているようであった。
あるじの紅震は、白雲の長年の副官であり、戦友であった。岩を削り出したような体躯の男で、白雲の顔を見るなり、ひとつ、太い声で笑った。
「白雲。お前の倅か。……ずいぶんと、小さいな」
白燕は、すでに十をいくつか越えていた。が、たしかに小柄であった。同じ年ごろの子の中でも、頭ひとつ低い。紅震の遠慮のない言いように、白燕は、それでも気をわるくせず、ていねいに頭を下げた。
「白燕と申します。お世話になります」
紅震は、その白い、人形のような子を、しげしげと見おろした。それから、奥へ向かって、ぞんざいに声を投げた。
「鈴。出てこい。客人だ」
────
稽古場の隅から、ひとりの子が現れた。
白燕より、頭ひとつ、背が高い。肩のあたりも、腕も、白燕よりずっとしっかりしている。短く切った髪に、武人の子らしい、きびきびとした身ごなし。
「鈴だ」
と、その子は、白燕の前に立って、名乗った。声は低めで、口ぶりはぶっきらぼうであった。
「お前が、白大将軍の倅か」
「うん。白燕です。よろしく」
白燕が、にこりと笑って手を差し出すと、鈴は、その手を取らなかった。かわりに、白燕の頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと見て、鼻を鳴らした。
「……こんなに、ちんまいのか」
鈴の声には、あからさまな落胆があった。
それも、そのはずである。鈴は、物心ついたときから、父にこう言われて育ってきた。白大将軍のような武人になれ、と。鈴にとって、白大将軍は山のような目標であった。ならば、その倅も、さぞかし立派な体つきの、頼もしい少年であろう。そう思って、待っていた。待っていたら、出てきたのは、花のようにきれいな、頭ひとつ小さな子であった。
「拍子ぬけだ」と、鈴は言った。「白大将軍の子なら、もっと、こう……」
「鈴」
紅震が、低く名を呼んだ。たしなめたつもりらしい。が、その口もとは、少し笑っていた。子どもの無遠慮を、頭から押さえつけるような男ではなかった。
鈴は、父の声で、いったん口をつぐんだ。が、目だけは、まだ白燕を値踏みしていた。そして、ふいに言った。
「おい。手合わせしろ」
「え」
「お前が、ほんとうに白大将軍の子か、確かめてやる。逃げるなよ」
白燕は、すこし困った顔をした。困った顔をしたが――逃げる、と言われて、引くわけにもいかなかった。それに、白燕には白燕で、こういうとき、妙に芯の通ったところがある。
「……わかりました。お手やわらかに」
白雲と紅震は、稽古場の端に並んで立った。止める気は、どちらにもないらしい。父親というものは、こういうとき、存外、子に甘いものを見たがる。
────
鈴は、つよかった。
体が大きいだけではない。父に鍛えられた体の使い方を、もう知っている。組みかかってくる勢いは鋭く、踏み込みは重い。最初の一合で、白燕は土の上に、したたか転がされた。
「なんだ。やっぱり、口ほどにも――」
言いかけて、鈴は、口をつぐんだ。
白燕が、転がったまま、笑っていたのである。痛そうに顔をしかめながら、それでも、どこか楽しげに、笑っていた。
「……強いですね、鈴さんは」
白燕は、土を払って、また立ち上がった。
二合めは、白燕は、転ばなかった。三合めには、鈴の重い踏み込みを、半身でいなした。白燕の体は小さい。小さいぶん、低く、速い。そして――組み合うたびに、白燕は、相手の力の流れを、すこしずつ読みはじめていた。修練というものを、この子は、ただ漫然とやってきたのではなかった。
やがて、四合め。
鈴が、しびれを切らして、正面から白燕に組みついた。白燕も、それを真っ向から受けた。二人の体が、がっちりと組み合った。
その、組み合った一瞬であった。
白燕は、ふと――何かが、ちがう、と思った。
うまく、言葉にはできない。組みついてくる腕の、力のかかり方が。肩の、骨のつくりが。耳もとで聞こえる息づかいの、高さが。白燕がこれまで組み合ってきた、武門の少年たちの、どれとも――ちがう。
白燕は、その「ちがう」の正体を、その場では、つかめなかった。つかめないまま、組み合いは、白燕がわずかに重心を低くしたところで、つい、と決まった。今度は、鈴のほうが、土の上に膝をついた。
稽古場が、しん、とした。
鈴は、膝をついたまま、白燕を見上げた。さっきまでの、値踏みするような目では、なかった。
「……お前」
鈴の声が、ほんの少し、低さを失っていた。
「ほんとうに、白大将軍の子だ」
白燕は、あわてて手を差し出した。今度は、鈴は、その手を取った。引き起こされながら、鈴は、ばつがわるそうに、横を向いていた。その横顔を見て――白燕は、また、あの「ちがう」を、思い出した。
そして、白燕は、ようやく、思い至った。組み合ったときの、あの感触。この、膝をついて横を向く、横顔。鳳のときと、同じだ。自分はまた、取り違えていた。
「鈴さんは」と、白燕は、おそるおそる訊いた。「もしかして……女の子、ですか」
鈴の肩が、びくりとはねた。
稽古場の端で、紅震が、こらえきれず、大きな声で笑った。
「気づいたか、白雲の倅。――そうだ。これは、おれの娘だ。鈴華と書いて、紅鈴。女だが、おれは、こいつを、白雲のような武人に育てると決めた。文句があるか」
文句など、白燕には、あろうはずもなかった。白燕は、ただ、引き起こしたばかりの紅鈴の顔を、まじまじと見た。見られた紅鈴は、ますます横を向いた。横を向いた耳が、寒さのせいばかりとも思えぬほど、赤かった。
「……わるいか」と、紅鈴は、ぶっきらぼうに言った。「女だと、知って。手合わせを、手かげんしたか」
「いいえ」白燕は、首をふった。「鈴さんは、つよかったです。ぼく、二合めまで、ぜんぜん、かないませんでした。……またやったら、つぎは、ぼくが負けるかもしれません」
紅鈴は、ふいをつかれた顔をした。
女だから、と侮られることには、慣れていた。父以外の誰も、紅鈴を、まっすぐな武人としては見なかった。それが、この、花のようにきれいな、自分より頭ひとつ小さな子は――組み合った相手として、対等に、強かった、と言う。手かげんもせず、侮りもせず。
紅鈴の胸の奥で、小さな、けれど、たしかな音が鳴った。
それが何という名の音なのか、十をいくつか越えたばかりの紅鈴には、わからなかった。わからないまま、ただ、もう一度この子と組み合いたい、と思った。今度こそ勝ちたい、と思った。それから――この子の隣に、立っていたい、とも思った。その三つが、紅鈴の中で、まだ分かれずに、ひとつのかたまりになっていた。
後年、それは、ほどけることなく、紅鈴の生涯を貫く。勝ちたい、という心と、隣にいたい、という心は、紅鈴にとって、最後まで、同じひとつのものであった。
冬の日が、稽古場の土を、淡く照らしていた。
白燕と紅鈴は、土まみれのまま、しばらく、にらみ合うように立っていた。やがて、どちらからともなく、ふっと、笑った。
それが、戦場でいくたびも背を合わせることになる二人の、いちばん最初の手合わせであった。
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