ままならん

 メンタルクリニックは、雑居ビルの四階にある。



 エレベーターを降りると、すぐ受付で、待合室には観葉植物が二鉢置いてある。照明が少し暖色で、病院というより小さな事務所みたいな雰囲気だ。ももかはその感じが好きだった。白すぎる蛍光灯の下にいると、自分が検査されているみたいで落ち着かない。



 受付で名前を告げて、椅子に座った。



 待ちながら、スマホを見るでもなく、観葉植物を眺めた。水やりをちゃんとしているのか、葉っぱに艶があった。














 「最近はどうですか」



 診察室の中は、静かだった。



 薄いベージュの壁。

 古いデスク。

 パソコンの小さな駆動音。



 ももかは椅子に座ったまま、視線を落としていた。



「……変わんないです」



 担当医の木下先生は、キーボードを軽く打ちながら頷く。



 四十代後半くらいの男の医者だった。

 柔らかい喋り方をする。



 説教臭くない。



 白衣を着ているけれど、眼鏡の奥の目が穏やかで、怖い感じがしない。最初に来たとき、ももかは男性の医師だと知って少し身構えた。でも木下先生はももかが話す速度に合わせて聞いてくれる人で、三回目くらいには緊張しなくなっていた。



 だから、ももかはこの人には色々話してしまっていた。



 「前回から、何かありましたか」



 ももかは、話した。



 良太のことを。職場の女の子への告白を、泣いて引き止めたこと。公衆トイレで吐いたこと。



 先生は途中で遮らなかった。頷きながら、聞いた。



 「引き止めたとき、どんな気持ちでしたか」



 「安心した、というか。でも、すぐ気持ち悪くなって」



 「安心と、嫌悪が同時に来た」



 「そうです」



 「それは、自分でも分かっているんですね。良太さんを操作してしまったと」



 「分かってます。だから吐いたんだと思います」



 先生が、少し間を置いた。



 「ももかさんは、自分のしていることを、どんな言葉で評価していますか」



 「最低、だと思います。自己嫌悪、という言葉も使いますけど、なんか、それすら自分に甘い気がして」



 「甘い」



 「自己嫌悪って、まだ自分に期待してるってことじゃないですか。もっとうまくやれたはずって。でもあたし、たぶんこれからも同じことするんで。期待するのもおかしい気がして」



 木下先生は、眼鏡の位置を直した。



 「ももかさんが今やっていることは、確かに、良太さんを傷つける可能性がある行動です。それは事実として、一緒に見ていきたい」



 「はい」



 「でも同時に、ももかさんが良太さんとの時間を手放せない理由も、私には見えています。あの場所が、ももかさんにとって何を意味しているか」



 ももかは黙っていた。



 「安全な場所を失いたくない、というのは、生存に近い感覚です。幼い頃に安全を保証してもらえなかった人は、安全を確保するためにあらゆる手段を使います。それはある意味で、自然なことです」



 「……でも、良太は悪くないのに」



 「そうですね」



 先生は否定しなかった。



 「良太さんは悪くない。ももかさんも、悪意でやっているわけじゃない。でも、結果として良太さんは傷つくかもしれない。そのことは、ももかさんが一番よく分かっている」



 「分かってます」



 「分かっていて、やめられない」



 「はい」



 先生が、また何かを書いた。



 「ゆっくりでいいですよ」



 責めていない声だった。許している声でもなかった。ただ、事実として、ゆっくりでいい、と言っていた。



 ももかは「はい」と言った。



 泣かなかった。泣く前に、喉の奥でそれを押さえた。ここで泣くと、先生に気を使わせる。それが嫌だった。














 薬の処方箋を受け取って、ももかは診察室を出た。



 受付で次の予約を入れて、エレベーターに乗って、ビルを出た。



 外は曇っていた。風が少し冷たかった。



 ゆっくりでいいですよ、という言葉を、歩きながらまた頭の中で聞いた。



 ゆっくり、と言われるたびに、ももかは少し困る。ゆっくりやった結果が、今なんだ、という気がするから。三年かけて、ゆっくり、ここまで来てしまった。



 でも先生の言葉は、そういう意味じゃないことも分かっていた。



 ただ、どう受け取ればいいかが、まだ分からなかった。














 診察室の中で、木下が椅子に背を預けた。



 カルテを手元に置いて、しばらく天井を見た。



 高井ももか、二十四歳。PTSD、解離傾向あり。



 症状の経過を書きながら、木下は今日の話を頭の中で整理した。



 良太という青年の告白を引き止めた話。泣いて、待ってくれと言った話。それで吐いた話。



 客観的に見れば、やっていることは褒められない。良太という人物にとっては、相当な負担を強いる関係だ。誠実な感情を持った相手を、無自覚ではなく自覚しながら引き止めている。



 しかし、と木下は思う。



 彼女がそれをやめるためには、今の彼女にないものが必要だ。安心の土台。自分が安全でいられるという、根っこの感覚。それが幼少期に形成されなかった場合、人はあらゆる関係を安全確保の手段として使う。戦略的にやっているのではなく、そうしなければ生きていられないから、そうする。



 ももかの場合、良太との時間は安全地帯だ。拓海との関係は、別の意味での生存戦略だ。どちらも、彼女の欠落から来ている。



 問題は、その欠落を埋めることが、薬でも言葉でも、簡単にはできないことだ。



 木下は眼鏡を外して、目頭を押さえた。



 精神科医として十八年やってきた。この仕事の限界は、よく知っている。話を聞ける。薬を出せる。整理を手伝える。でも、患者が自分の行動を変えるかどうかは、最終的に患者にしか決められない。



 ももかは頭がいい。自分がやっていることを、ちゃんと言語化できる。だから余計に、どうにもならない感じがある。分かっているのに変えられない。それが一番しんどい種類の苦しさだと、木下は経験から知っていた。



 カルテに文字を打ち込みながら、木下はため息をついた。



 声に出さないつもりだったが、静かな診察室に、小さく漏れた。



 「ままならんな」



 誰に言うわけでもなかった。



 次の患者のカルテを開き、木下は眼鏡をかけ直した。



 廊下で、受付の声がした。次の患者が来たらしい。



 木下は椅子を引き直して、姿勢を整えた。



 ため息は、診察室の中に置いていく。それがこの仕事のやり方だった。

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