第一章 2

「はあ……極楽極楽」

 熱い風呂に入りながら、ヴィズルは傷だらけの身体を横たえていた。

 娼館に来た時の楽しみといえば、風呂である。女を抱くのもいいが、なんといっても風呂があるのがいい。

「ヴィズル様、お酒の支度ができましたわよ」

「おう、今行く」

 こたえて、彼は身体を起こした。もう充分に温まった。部屋に行くと、ルイーゼが呆れた顔で待っていた。

「女を娼館で待たせる奴があるかい」

「まあそう怒るな。誰がどこで見聞きしているかわからんからな。こういう場所が一番なのだ」

「ほら、これがあちこちの農村の、関所の場所と数」

「おう、すまないな。まあ飲め」

 酒を飲みながら、二人は話し合いを進めた。農村の誰と誰が参加するのか、果たしてそれは本気にしていいのか、直接、会うことはできるのか。

 会うことができる人間とは腹を割って話し、酒を酌み交わし、血判状をもらった。

 人々のために駆けずり回るその姿は、ルイーゼのかつての恋人を思い起こさせた。

 ルイーゼ、おいで。ルイーゼ、女の子がそんな食べ方をするもんじゃない。ルイーゼ、ルイーゼ。

 そっと瞳を閉じると、またもあの声が聞こえてくる。

 ああ、あなたはもういないのに、まだ私のなかにいるのね。何百年も経ってしまったのに、こうして私のなかにちゃんといて、私を慰めてくれるのね。

 一人になると、時々寂しくなって唄を歌う。彼は、ルイーゼが唄を歌うのが好きだった。 二人きりになると、いつも聞かせてくれとせがんできた。

 唄を歌うとそこにあの男がいるみたいで、ルイーゼはつい歌ってしまう。そして唄の途中ではっとしてやめてしまう、

 ――あのひとは、もういないのだ。

 過去を振り返ったところで、どうしようもないことはよくわかっている。だからといって、どうすればいいというのだ。どうせ、未来なんか私にはない。未来など、私にはないのだ。

 あるのは、絶望の暗闇だけ。

「さあ、夜も遅い。俺はもう寝るよ」

 ヴィズルの声で、我に返る。

「え、ああ。そうね。お楽しみの時間だものね」

「馬鹿にするな。娼館に来たからと言って、することが一つだけとは限らんのだ」

「んじゃなにするの」

「眠るだけの時もある」

「へえ」

 今日がその日だ、と言われると、ぐうの音も出ない。はいそうですかと言い返し、さっさと宿に帰った。

 季節は最初の月、薄梅紫を終え、二番目の月、撫子になろうとしている。

 そういえば、修行はどうなったかな、と窓から三日月を見上げてふと思った。

 修行は、佳境を迎えていた。

 エルリックは上半身を脱ぎ、槍を構え、次々にやってくる刃を正確に砕いていった。上から斜めから左から右から、下によけ飛んでは避け腹這いになりその拍子に地面に落ちた土器の破片をよけて、そうして一本一本刃を打破していくと、とうとう最後の刃を打ち砕くことができたのである。

「ようやった。どうやら冬眠から目覚めるのに間に合うようじゃのう」

 老人は松の木の下で満足げに言うと酒を飲み干した。

「じゃあ、合格ですか」

「これが最後ではない。次は第三段階じゃ」

 老人は彼を何百段もある階段を上った場所にある廃屋へ連れてくると、そこに立て札を立てかけた。

『これなる者を倒した者には 金貨五十枚』

「お前さんの首に、賞金をかけた。命懸けじゃぞい」

「えっあっちょっと」

 すたすたと去っていく老人の背中を茫然と見送って、エルリックは立ち尽くした。しかし、無意味に殺生はしたくない。そこで、槍の先を覆って、対戦者と話し合い、殺し合いはしないことにした。

 一日に一度は、挑戦者がやってきた。

 時にそれは、身長二メートルを越す大男が金棒を振り回しながらであったり、十人連れがいっぺんにまとめてやってきたこともあった。

 細長い刀を二本持った戦士がやってきたこともあれば、刃を仕込んだ鞭をぶん回しながら挑んできた者もいた。

 それらの男たちを、エルリックはすべて倒していった。

 不思議なことに、四方八方から襲いかかってくる刃に比べれば、彼らの攻撃などなにも恐くなかった。

 そうして、約束の春がやってきた。

「どうだ、蛙よ。少しはものになったか」

 ヴィズルがルイーゼと共に迎えにやってきて、エルリックはむっつりとした顔でそれを見た。

「おう、いい面構えになったな」

「おっさん、この四か月なにやってたんだよ」

「準備だ」

「どうせいい思いしてたんだろ」

「まあ、それなりにな」

「ちぇっ」

「しかし、お前さんの腕が要るぞ。武力は大いに役に立つ。大暴れせねばならんからな」「なにをするつもりなんだよ」

「なあに」

 彼はふっと笑った。

「ちょっとした謀反さ」

 なんでもないことのように、彼は言った。



 執政アレイニコフは、屋敷から見える庭の池の新しい大岩を見つめていた。客人が何人も来ていて、賭け札に興じている。

「臭いのう」

 ぼそりと、彼は呟いた。

「なんのにおいじゃ」

 側にいた侍従が、畏まってこたえる。

「は……城下の野で、死体を焼くにおいでございましょう」

 彼は眉を顰めた。

「忌々しい……」

 池の大岩を、じっと見る。

「あの岩、気に入らん。どけろ」

「はっ」

「代わりに蓮を入れよ」

「かしこまりました」

 階下が、騒がしくなった。

「何事だ」

 一人の兵士が、慌ただしく走ってきた。

「申し上げます」

「なんだ」

「国中の農民が、大挙してやって来ています」

「なに」

「金貸し通りの金貸しの蔵を襲い、証文を焼き払って、まっすぐこちらへむかっています」

「警護隊はなにをしておる。ルノーは、警護隊長はどうした」

「姿が見えません」

「ええいなんということだ」

 客人たちが慌てふためいて逃げ出し始めた。アレイニコフは服の裾を捲って走り、城のてっぺんまで行くと、持てる財宝すべてを持って自分も逃げようと試みた。

 こんなところにいては、自分も殺されること必定だった。


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